作品タイトル不明
アーティストのマルコ
「しっかし」
エレナが、畳んだ服を棚に戻しながら言った。
「誰も、来ないわねえ」
店内は、静かだった。午後の光が窓から差し込み、帽子台に、長い影を落としている。お客の足音は、今日まだ、一度も聞いていない。
「そうね。まだ、知られていないからかしら」
「それもあるけど」エレナが肩をすくめた。「この国の貴族は、保守的だもの。こんなに斬新な黒、いきなり受け入れるわけがないわ」
「でも、誰かが始めなきゃ、何も変わらない」
私は、棚から顔を上げた。
「その最初の一歩を、私たちが踏み出すのよ」
「じゃあ、どうするの。ただ、待つだけ?」
「いいえ」
待っていて来ないのなら、こちらから行く。それも、いちばん効く場所へ。
「貴族の夜会に、出るわ。あの人たちの庭のど真ん中で、直接、見せつけてやるの」
「夜会に? でも、どうやって。あなた、王都に伝手なんて……」
「父は地方貴族だけれど、王都には縁がないの。ただ——」
言いかけて、私は、少し口ごもった。
「妹が、この王都にいる」
「妹さん?」
「……ええ。でも、頼れない。いろいろ、あってね。もう何年も、顔も合わせていないの」
その「いろいろ」を、私はまだ、誰にも話す気になれなかった。エレナも、それ以上は訊かなかった。
「ニッキーに頼む手も……いえ、だめね。あの人は外国人で、この国の社交界には、まだ馴染んでいない」
「そうね」エレナが、ふと壁を振り返った。「——だったら、私に心当たりがあるわ」
その視線の先に、一枚の絵が掛かっていた。森の中に佇む、巨大な鹿。背景の闇と、獣の存在感。店の白い壁の中で、その一枚だけが、ぞくりとするような迫力を放っている。開店以来、数えるほどしかいない通りがかりも、この絵の前でだけは、足を止めていった。
「ちょっと変わった人だけど」エレナが、絵を指差す。「ガブリエルには、ぴったりかもしれない。この絵を描いた、マルコ」
「画家……」
そのひと言で、私の中で、線が繋がった。
貴族に好かれ、あちこちの社交場に招かれる画家。それはつまり——どんな扉も、すっと通り抜けられる鍵だ。正面から叩いても開かない貴族の世界に、招かれざる私を、横から連れ込んでくれる人。
「その方に、会わせてください」
◇ ◇ ◇
王都の郊外の森は、街の音が届かないほど、静かだった。
「こんなところに、住んでるんですか」
「うちの別荘なの。亡くなった夫が、あの人をずいぶん気に入っていてね。アトリエとして、ずっと貸しているのよ。代わりに、描き上がった絵は、うちが先に買い取らせてもらう。いわば、専属の画家ね」
枝の間から光が落ち、足元に、枯れ葉が積もっている。
「彼の絵は、貴族にずいぶん人気があってね。社交場にも、しょっちゅう誘われているらしいわ」
蔦の這う屋敷が、木々の向こうに見えてきた。窓ガラスが、緑に曇っている。エレナが、扉を叩いた。
「ごめんください。エレナ・ヴォーンよ」
錠の、外れる音。
扉が、開いた。
——上半身が、裸だった。
それだけなら、まだいい。全身に、絵の具が塗りたくられていた。赤、青、黄、白。顔にも、腕にも、胸にも、無造作に。
「…………」
「!」
膝から力が抜けて、私はその場に、へたり込んだ。
「ちょっと!」エレナが、声を上げる。「人を連れてくると、言っておいたでしょう!」
「す、すみません。つい、作業に没頭してしまって」
男が、ぺこりと頭を下げた。声は穏やかで、どこか、間が抜けている。
◇ ◇ ◇
アトリエの中は、絵だらけだった。壁に、床に、立てかけ、積み重ね。完成も、途中も、布を被ったものも。雑然としているのに、その一枚一枚から、何かが噴き出している気がした。
顔の絵の具を拭い、丸眼鏡をかけて現れたのは、髭面の、存外に若い男だった。
「ずいぶん、増えたわね」
「さ、三ヶ月、こもっていたので」
「三ヶ月? あなた、ちゃんと体は洗ってるの?」
「え、匂います? 絵の具の匂いで、ごまかせるかなと」
「だから顔にまで塗りたくってたわけ? 馬鹿なの?」
——本当に、変わった人だ。
でも、エレナの声には、棘の中に温かみがある。長い付き合いの相手にしか出ない、気安さの種類だった。
「で、今日は何のご用です。気に入った絵があれば、どれでも持っていってくださって」
「今日は、違うの」エレナが腕を組んだ。「頼みがあるのよ。このガブリエルを、貴族の社交界に連れていってほしいの」
「えええええ!」マルコが、大げさに後ずさった。「む、無理ですよ。僕、あそこ、大っ嫌いなんです」
「招待状なら、山ほど来てるんでしょう。行きなさい」
「無理ですって」
「長年のパトロンの頼みも、聞けないっていうの?」
「そ、そう言われると……」
——押せば押すほど、この人は引っ込む。
見ていて、わかった。エレナの強引さは、この男には逆効果だ。絵を描く人というのは、たぶん、命じられるのを何より嫌う。
私は、一歩前に出た。けれど頭を下げる前に、壁の一枚に、目を奪われる。描きかけの、夜明けの森。光の入れ方が、店のあの鹿と、同じ手つきだった。
「……この光、好きです」
つい、本音がこぼれた。
「あの鹿の絵、いま、私の店に飾らせてもらっているんです。お客様が——まだ数えるほどですけど——あの絵の前でだけは、必ず足を止める。だから、わかるんです。あなたの絵には、人を立ち止まらせる力がある」
マルコが、眼鏡の奥で、瞬きをした。
「マルコさん。私からも、お願いします。私の商売が、かかっているんです。どうか、あなたの力を貸してください」
少し、間があった。
「……わかりました」
「え?」エレナが、目を丸くする。「なんで私の頼みは断って、ガブリエルのは聞くのよ」
「だって」マルコが、頭を掻いた。「この人、絵を、ちゃんと見てるので」
「は? 私は、見てないっていうの?」
マルコが、困った顔をした。エレナが、憮然とした。私は二人を見比べて、つい、噴き出してしまう。
「変な人だなあ」
マルコが、こちらを見て、眼鏡の奥の目を、少しだけ細めた。
社交界への扉が、いま、ひとつ開いた。
あとは——どこへ、踏み込むか、だ。