軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

蒼き揺りかごと、始まりの航跡

リューベックの港を出た『海燕丸』は、帆にたっぷりと風を孕み、白波を蹴立てて進んでいた。

俺たち三人は、甲板の手すりに並んで立ち、遠ざかっていく街並みを眺めていた。

つい先ほどまで俺たちが歩き回り、食事をし、眠っていたあの活気ある港町が、まるで精巧に作られた玩具の街のように小さくなっていく。

崖の上にそびえる古き灯台も、今はただの細い棒きれにしか見えない。

その時だった。

キィィィィィィィ…………。

風切音と波音に混じって、遠く、空の彼方から微かな鳴き声が届いた。

それは、あの夜に灯室で聞いた耳をつんざくような威嚇の声とは違う。

鋭くも、どこか長く尾を引くような、透き通った響き。

まるで、巣立ちゆく者たちへ向けて、空の覇者が遥か高みから長く長く送り出しているかのような、孤高の旋律だった。

「あ……」

ロウェナが、空を見上げて小さく声を漏らす。

クリスもハッとしたように、遠い灯台の頂へと視線を凝らした。

肉眼ではもう、その姿を捉えることはできない。

だが、その声の主が誰であるか、俺たちには痛いほど分かっていた。

俺は無意識に、懐にしまった黒い羽根の感触を確かめるように胸元を押さえた。

(……達者でな、孤高の女王よ)

心の中で短く別れを告げる。

その鳴き声は、潮風に溶けるようにして、やがて聞こえなくなった。

風向きが変わるたびに鼻をくすぐっていた魚市場の生臭さや、路地裏から漂う生活の匂いも、いつの間にか消え失せている。

代わりに空気を満たすのは、混じり気のない純粋な潮の香りと、どこまでも透き通った風の匂いだけだ。

陸の世界が遠ざかり、海の世界が俺たちを飲み込んでいく。

その圧倒的な変化を肌で感じながら、俺たちはしばらくの間、言葉もなくただ流れる景色を見つめ続けていた。

最初に沈黙を破ったのは、クリスだった。

「師匠……見てください。本当に、丸いんですね」

彼は甲板から身を乗り出すようにして、水平線の彼方を指差した。

その瞳は、まるで宝物を見つけた子供のようにキラキラと輝いている。

「書物には『海は広大で、水平線は緩やかな弧を描く』と記されていましたが……まさか、これほどまでとは。知識として知っているのと、この目で見るのとでは、全く別物です!」

興奮を抑えきれない様子で、彼は早口にまくし立てる。

しっかりとした教育を受け、多くの本を読んできた彼にとって、この景色は文字通り「夢の具現化」なのだろう。

「ロウェナちゃん、見たかい? あの雲の切れ間から差し込む光の筋、あれを『天使の梯子』と呼ぶんだよ。海の上だと、あんなにはっきりと見えるんだ!」

「うん! きれい! おっきい!」

ロウェナも、クリスの熱気に当てられたように声を弾ませる。

彼女は手すりの隙間から顔を出し、水面近くを飛ぶトビウオの群れを目で追っては、歓声を上げていた。

そんな二人の様子を眺めながら、俺は少し離れたマストの陰に移動し、腰を下ろした。

板張りの床から伝わってくる微振動が、ここが陸の上ではないことを常に教えてくる。

(……ようやく、か)

俺は懐から革のケースを取り出し、一本の煙草を口にくわえた。

火口箱を取り出し、火をつけようとするが、海上の風は思った以上に強く、火花は散るもののなかなか着火しない。

何度か試した後、俺は苦笑して火をつけるのを諦めた。

咥えたままの煙草の先を弄びながら、俺は再び海へと視線を移す。

遠い昔、孤児院の古びた一室で聞いた話を思い出していた。

『そして、何処までも広がる海原! 水平線しか見えないんだ。空と海が一つになったみたいな景色で、自分が世界の果てに立っているような気分になったよ』

代官騎士様。

あんたが目を細めて語ってくれたあの景色の中に、俺は今、確かに立っているよ。

あの日、小さな俺の心に植え付けられた憧れの種は、長い時間をかけて根を張り、こうして花開いた。

衛兵としての十二年、理不尽な解雇、そしてあてのない旅立ち。

全てが、この瞬間に繋がっていたのだと思えば、あの苦い記憶さえも、悪くないものに思えてくる。

俺は深く息を吸い込み、肺いっぱいに潮風を満たした。

それは、自由の味がした。

それから数時間が経ち、太陽が中天に差し掛かる頃。

船上の空気が、少しずつ変わり始めていた。

出航の高揚感が落ち着き、代わりに顔を出したのは、容赦のない現実だった。

「……うっ、ぐ……」

甲板の隅で、クリスが青ざめた顔をしてうずくまっていた。

あれほど目を輝かせていた彼から、生気が完全に抜け落ちている。

「大丈夫か、クリス」

俺が声をかけると、彼は虚ろな目でこちらを見上げ、力なく首を振った。

「し、師匠……。すみません……世界が、回って……」

船酔いだ。

『海燕丸』は大型の交易船だが、外洋に出れば波の影響をまともに受ける。

止まることのない揺れが、三半規管をじわじわと狂わせ、慣れない者の体力を容赦なく奪っていくのだ。

クリスは必死に吐き気を堪えながら、手すりにしがみついている。

「書物には……遠くを見れば酔わないと……書いてあったの、ですが……」

「理屈通りにいけば苦労はねえよ。ほら、水だ。少しずつ飲め」

俺は水筒を差し出した。

彼は震える手でそれを受け取り、一口だけ含んで、またぐったりと項垂れる。

その一方で、驚くべき適応力を見せているのがロウェナだった。

「えど! みてみて!」

彼女は揺れる甲板の上を、まるで平らな道でも歩くかのように、ぱたぱたと駆け寄ってきた。

その手には、船員からもらったらしい固焼きのビスケットが握られている。

「おじちゃんが、くれた! おいしいよ!」

船酔いなどどこ吹く風だ。

彼女にとって、この船の揺れは不快なものではなく、むしろ心地よいゆりかごの揺れのように感じられているのかもしれない。

近くでロープを巻いていた年配の船員が、ロウェナを見て破顔した。

「はっはっは! 嬢ちゃんは筋がいいな! 陸の兄ちゃんよりよっぽど船乗り向きだぜ!」

その言葉に、クリスはさらに肩を落とし、ロウェナはえへへと照れくさそうに笑った。

ロウェナはビスケットを半分に割ると、うずくまるクリスの前に差し出した。

「くりす、たべる? げんき、でるよ」

「あ、ありがとう……ロウェナちゃん……。でも、今は……」

クリスは申し訳なさそうに断り、また口元を押さえた。

ロウェナは不思議そうに首を傾げたが、それ以上無理強いはせず、俺の隣に座り込んで、自分の分のリュートを取り出した。

ポロン、ポロン……。

彼女の小さな指が弦を弾くと、拙いながらも優しい音色が甲板に広がる。

波音と風切り音だけの単調な世界に、彩りが添えられたようだった。

その音色に合わせて、ロウェナが小さな声でハミングを始める。

以前、湿地帯で聞いたあの不思議な旋律だ。

近くで作業をしていた船員たちが、手を休めて耳を傾ける。

殺伐としがちな男だらけの船上で、彼女の存在は、一服の清涼剤のように皆の心を和ませていた。

夕暮れ時になり、水平線が茜色に染まり始めた頃、俺たちは船内の食堂へと呼ばれた。

天井の低い部屋には、長いテーブルとベンチが固定されており、ランプが揺れに合わせて大きく影を落としている。

運ばれてきたのは、干し肉と豆を煮込んだスープと、歯が折れそうなほど硬いパンだった。

「おう、食ってるか!」

ガイル船長が、豪快に笑いながら食堂に入ってきた。

彼は俺たちの向かいにどかりと腰を下ろすと、自分の椀にスープをよそいながら話しかけてくる。

「どうだ、初めての海は。兄ちゃんはだいぶ参ってるようだが」

指摘されたクリスは、顔色はまだ悪いものの、少しだけスープを口に運んでいた。

空腹のほうが酔う、という船員の忠告を律儀に守っているらしい。

「は、はい……。情けない限りです……」

「なに、最初はみんなそんなもんだ。俺だって、初めて船に乗った時は三日三晩吐きっぱなしだったさ」

船長の言葉に、クリスは少しだけ救われたような顔をした。

「それにしても、嬢ちゃんの歌はいいな。あれを聞くと、不思議と風向きが良くなる気がするぜ」

船長がロウェナに向かってウィンクすると、彼女は口いっぱいにパンを頬張ったまま、嬉しそうに頷いた。

食事の間、船長は様々な海の話をしてくれた。

見たこともない巨大な魚の話、嵐の夜に現れるという幽霊船の噂、そしてこれから向かう西の大陸の珍しい風習。

俺たちはその話に聞き入り、揺れる船内での質素な食事を、最高のご馳走のように楽しんだ。

夜になり、甲板に出てみると、そこには息を呑むような光景が広がっていた。

街明かりの一切ない、漆黒の海。

その頭上に、数え切れないほどの星々が、まるで宝石箱をひっくり返したように輝いている。

「すごい……」

ロウェナが、空を見上げたまま立ち尽くす。

天の星が川の様に白い帯となって夜空を横切り、時折、流れ星が長い尾を引いて消えていく。

クリスも、船酔いを忘れたように空を見上げていた。

「星が……こんなに近くに見えるなんて」

俺は手すりに寄りかかり、ようやく風が凪いだ隙を見計らって、今度こそ煙草に火をつけた。

紫煙が、星空へと吸い込まれていく。

「明日は、もっと遠くへ行くぞ」

俺が呟くと、二人は力強く頷いた。

船は波を切り裂き、星を道しるべにして進んでいく。

西へ、西へ。

まだ見ぬ大陸、カレドヴルフを目指して。

揺れる船室のハンモックに潜り込み、波の音を子守唄にしながら、俺は静かに目を閉じた。

瞼の裏には、代官騎士様の笑顔と、はるか遠くから届いた女王の別れの声、そして今日の満天の星空が、いつまでも焼き付いていた。