軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

美酒の余韻と、勇者という名の劇薬

夜の帳が下りた宿屋『大猪のあくび亭』の一階は、いつにも増して熱気に包まれていた。

予選を突破した選手たちや、それを見守っていた観客たちが、ジョッキを片手に今日の戦いを肴に盛り上がっているからだ。

「へへっ、旦那! やると思ったぜ!」

顔馴染みの宿主が、なみなみと注がれたエールのジョッキをドンとテーブルに置いた。

「あの山みたいな大男を、あんな鮮やかに転がすとはねぇ! 俺の目は節穴じゃなかった! これは店からのサービスだ、飲んでくれ!」

「……まだ予選だ。騒ぐな」

俺は苦笑しながら、それでも差し出されたジョッキを受け取った。

労働の後の酒も美味いが、勝利の後の酒もまた格別だ。

「師匠、あの相手……」

向かいの席で、クリスが声を潜めて言った。

「以前会ったギデオン……彼を思い出しました。あそこまでの覇気はありませんでしたが、タイプとしては同じですよね」

「ああ。単純な腕力と質量で押し潰すタイプだな」

俺はエールの泡を髭につけたまま頷いた。

「だからこそ、師匠のあの一歩……あの大斧に対して、後ろに下がるのではなく、あえて踏み込んだ動きが際立っていました。勇気が要りますが、理に適っていました。僕の槍でも応用できそうです」

「いい傾向だ、バナーレ」

俺はジョッキを置いた。

「見たものをそのまま真似るな。自分の体格、武器の特性に合わせて噛み砕き、自分の『型』にしろ」

「はい!」

クリスが素直に頷く。こいつの吸収力は悪くない。

その時だった。

「楽しそうね。私も混ぜてくれる?」

スッ、と俺たちのテーブルに、場違いな高級ワインのボトルが置かれた。

「……お前なぁ」

いつの間にか、隣の椅子にミネルヴァが座っていた。

仕事用のスーツではなく、ラフな私服姿だ。

完全にオフモードで、既に少し酔っているのか頬が赤い。

「予選突破おめでとう、仮面の剣士様。これは私からのお祝いよ」

「当たり前のように混ざるなと言いたいところだが……まあ、いいか」

俺は呆れつつも、彼女のために空いたグラスを差し出した。

もはや腐れ縁だ。拒絶する理由もない。

「みねるば!」

ロウェナが嬉しそうに声を上げ、ミネルヴァの腰に抱きついた。

「あらあら、元気ね。はい、おいで」

ミネルヴァは慣れた手つきでロウェナをひょいと抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。

そして、おつまみのチーズを小さくちぎって、ロウェナの口へと運ぶ。

「はい、あーん」

「あーん! ……んぅ、おいしー!」

「ふふ、いい子ね。よく噛んで食べるのよ」

ミネルヴァがロウェナの頭を優しく撫でる。

ロウェナも目を細めて、猫のように懐いている。

その光景は、まるで本当の母娘か、あるいは仲の良い姉妹のようだった。

「みねるば、すき!」

「ええ、私も好きよ。……子供は正直で可愛げがあるわ。どこかのひねくれた剣士と違ってね」

ミネルヴァが流し目で俺を見て、クスクスと笑う。

(いつの間にこんなに懐かれたんだ……)

俺とクリスは顔を見合わせ、その自然すぎる光景に驚きを隠せなかった。

鉄の様な事務員にも、こんな家庭的な一面があったとは。

意外な発見と共に、夜は更けていった。

翌日。

大会予選と本戦の間には、一日の休息日が設けられていた。

俺たちは宿の中庭で、軽く身体を動かしながら時間を潰していた。

安物の剣を研ぎ直していると、昼食を持ってきたミネルヴァが様子を見にやってきた。

「調子はどう? 明日は本番よ」

「悪くない。……なぁミネルヴァ、ついでに聞きたいんだが」

俺は手を止めて彼女を見た。

「この辺で、風呂屋はないか? それも『個室』のあるやつだ。値は張ってもいい」

その瞬間、ミネルヴァの表情が凍りついた。

みるみるうちに顔が朱に染まり、次いで軽蔑の色が浮かぶ。

「……は?」

彼女はロウェナの両耳をパッと塞ぎ、低い声で唸った。

「あなた……真昼間から何を考えているの? 個室で、値が張るお風呂ですって……?」

「ん? ああ。やっぱり高いか? だが、今の俺たちには銀貨があるからな。少しくらい贅沢しても――」

「最低っ!!」

ヒュンッ!

ミネルヴァの右手が唸りを上げて、俺の頬へと迫った。

本気の平手打ちだ。

(……おっと)

俺は反射的に上体を僅かに逸らした。

達人の見切り。

彼女の掌は、俺の鼻先数センチを空しく通過する――はずだった。

「――ッ!?」

避けた瞬間、俺は背筋が凍るのを感じた。

俺が避ける方向に、既に彼女の『左手』が待ち構えていたからだ。

まるで、俺の回避行動を最初から読んでいたかのように。

バシィィィィンッ!!

「ぐべらっ!?」

カウンター気味に放たれた平手打ちが、俺の頬にクリーンヒットした。

俺は無様に吹き飛び、芝生の上に転がった。

「なっ……!?」

俺は痛む頬を押さえて起き上がった。

今のは偶然か? いや、完全に「置きにいっていた」。

ただの事務員が、俺の動きを読んだだと?

「何すんだ!」

「予選を勝って気が大きくなってるの!? ロウェナちゃんやクリス君がいる前で、よくもそんな……『いやらしいお店』に行きたいなんて言えるわね! 不潔! 獣! この変態!」

「……は?」

俺は目を白黒させた。

殴られた痛みよりも、彼女の剣幕に圧倒される。

しばらく呆然として、ようやく彼女の勘違いに気づく。

「おい、待て。お前、何を想像してるんだ」

「しらばっくれないで! 王都で『個室』の『高い風呂』って言ったら、そういうサービスがあるお店に決まってるじゃない!」

ミネルヴァが顔を真っ赤にして捲し立てる。

俺は大きなため息をつき、やれやれと首を振った。

「お前、仕事のしすぎで疲れてるのか? 俺が言ってるのは、ただの貸切風呂……いわゆる『家族風呂』だ」

俺はキョトンとしているロウェナを指差した。

「このチビを見てみろ。俺らが男湯に連れて行くわけにはいかないし、かといって一人で女湯に行かせるのも不安だ。だから、貸切で全員が入れる風呂を探してるんだよ」

「……あ」

ミネルヴァの動きがピタリと止まった。

振り上げた拳を下ろし、俺と、無垢な瞳のロウェナを交互に見る。

ようやく事態を把握したらしい。

「……そういう、こと?」

「そういうことだ。誰が昼間から風俗に行くか。俺はただ、本番前にさっぱりして、このチビの髪を洗ってやりたいだけだ」

「…………」

ミネルヴァは咳払いを一つし、乱れた髪を直した。

耳まで真っ赤だ。

「……ご、ごめんなさい。早とちりしたわ」

「全くだ。ギルド職員様は想像力が豊かで困る。……それにしても、いい一撃だったぞ」

「う、うるさいわね! ……でも、ちょっと待って」

ミネルヴァが何かに気づいたように眉を顰めた。

「家族風呂ってことは……あなたとクリス君、それにロウェナちゃんの三人で一緒に入るつもり?」

「ん? ああ、まあそうなるな。背中も流してやりたいし」

「ダメよ!」

ミネルヴァが両手でバツ印を作った。

「え、何でだ?」

「ロウェナちゃんは女の子なのよ! いくら小さくてもレディを、むさ苦しい男二人と一緒に入れるわけにはいかないわ! 教育上よくない!」

「いや、まだ子供だぞ……?」

「ダメなものはダメ! 男女のけじめはきっちりつけるべきよ」

ミネルヴァは腰に手を当てて宣言した。

「お風呂は大会が終わるまでお預けにしなさい。優勝したら、私が責任を持ってロウェナちゃんと一緒に入ってあげるわ。あなたたちは男湯に行きなさい」

「……へいへい。お厳しいこって」

俺は肩をすくめた。

まあ、彼女が面倒を見てくれるなら、その方が安心ではある。

「その代わり、いいお風呂屋さんを紹介してあげるわ。……はい、これ」

彼女は手帳を破った紙にサラサラと地図を描き始めた。

「ここから二つ隣の区画にある高級宿よ。優勝祝いに行くのに丁度いいわ」

俺は渡された地図を受け取った。

簡潔だが分かりやすい。さすが事務員だ。

だが、地図を眺めていた俺は、ある一点に目を留めた。

「ん? ミネルヴァ、風呂屋の場所はここだが……こっちの印はなんだ?」

地図の端、風呂屋とは別の路地に、もう一つ小さな印が書き込まれていた。

俺が指差すと、ミネルヴァは口元に人差し指を当てて微笑んだ。

「……ふふ、内緒」

「おい」

俺が問い詰めようとするが、彼女はそれ以上答えようとはしなかった。

ただ、意味ありげな視線を残すだけだ。

「今はまだ秘密よ。その地図、失くさずに持っておきなさい。……きっと役に立つわ」

「……ったく。勿体ぶりやがって」

俺は釈然としないものを感じつつも、地図を折り畳んで懐に入れた。

まあいい、大会が終わってからのお楽しみということにしておこう。

そんな騒がしい休息日を終え、いよいよ本戦当日がやってきた。

王都の中央にある大闘技場は、予選とは比べ物にならない数の観衆で埋め尽くされていた。

貴賓席には国王陛下の姿も見え、その周囲には高位貴族たちが煌びやかな衣装で並んでいる。

予選を勝ち抜いた十六名の戦士たちが、リングの中央に整列した。

俺もその末席に、道化の仮面をつけてダルそうに立っている。

『皆の者! よくぞ集まってくれた!』

大会委員長である恰幅のいい貴族が、魔法で拡声された声で高らかに宣言した。

『今年の武術大会は、建国祭のメインイベントに相応しい、かつてない盛り上がりを見せている! そこで我々は、優勝者のために特別な「賞品」を用意した!』

会場がざわめく。

俺の嫌な予感が、警鐘を鳴らし始めた。

昨日から感じていた胸騒ぎの正体。

『優勝者には、規定通り金貨100枚が授与される! そして――!!』

委員長がたっぷりと溜めて、叫んだ。

『我らが国の英雄! 魔人を討ち果たした我が国の勇者! 「勇者レオナルド」一行との 親善試合(エキシビション・マッチ) への挑戦権を与える!!』

ドォォォォォォンッ!!

会場が爆発したかのような歓声に包まれた。

「うおおおおお! マジかよ!!」

「勇者様と戦えるのか!?」

「すげぇ! 一生の誉れだぞ!!」

観客たちのボルテージは最高潮に達し、地面が揺れるほどの熱狂が渦巻く。

「えぇっ!?」

観客席にいたクリスも、思わず立ち上がって目を丸くしていた。

「勇者様と……!? す、すごい……本物の英雄と手合わせができるなんて……!」

彼にとって、勇者とは雲の上の存在だ。

純粋な驚きと興奮、そしてすぐに「師匠がそんな人と戦うの?」という心配が顔に浮かぶ。

「でも、大丈夫でしょうか……相手は魔人を倒した人ですよ……?」

だが。

リング上の俺の反応は、真逆だった。

「……は?」

俺は仮面の下で、思い切り顔を引きつらせていた。

(聞いてないぞ、そんな罰ゲーム……!)

目立ちたくない。

身元がバレるリスクを避けたい。

そう思って仮面をつけ、安物の剣で誤魔化しているのに。

よりにもよって、国一番の有名人であり、「正義の象徴」である勇者と公衆の面前で戦わせられるだと?

俺にとってはご褒美どころか、最大のリスクであり、特大の地雷だ。

ふと視線を感じて貴賓席の方を見ると、ミネルヴァが頬杖をつき、ニヤリとこちらを見下ろしているのが見えた。

『驚いた? 最高の舞台でしょう?』

そんな声が聞こえてきそうだ。あの女、知っていて黙っていやがったな。

(……金は欲しいが、勇者の相手なんて御免だ。……だが)

俺は周囲の熱狂的な空気を見渡した。

ここで「じゃあ辞退します」と言える雰囲気ではない。

そんなことをすれば、逆に怪しまれて注目を集めてしまう。

進むも地獄、退くも地獄。

(……やるしかねぇのかよ)

俺は深いため息をついた。

どうやって勝つか、ではなく、どうやって

「目立たずに、勇者との試合をのらりくらりとやり過ごすか」。

新たな、そして最大の難題を抱えたまま、本戦第一試合開始のゴングが鳴り響こうとしていた。