作品タイトル不明
204 エピローグ~新たなる冒険へ
夕陽がゆっくりと沈んでいき、空をオレンジ色に染めていく。
風を受けて進む船が、波を揺らす。
リゼットは風に流れる髪を押さえながら、きらきらと輝く海面を甲板から眺める。
「この海にもクラーケンはいるのでしょうか」
手すりを持ちながら、隣に立つレオンハルトに声をかける。
海はひたすら広く、いままで踏みしめて進んできた大地はもうどこにも見えない。
こんなに広大なのだから、どこにクラーケンやモンスターが潜んでいても不思議ではない。
「ああ。きっといると思う。ただ、クラーケンは滅多に海面には出てこないから、遭遇する可能性は低いだろうな」
「出会えたら素敵ですね」
そうしたら、地上のクラーケンとダンジョンのクラーケンで食べ比べができる。
ダンジョン外のクラーケンはまずいという話だが、それはそれでまた思い出ができる。
「……そうだな」
レオンハルトは曖昧な苦笑を浮かべつつも、否定はしなかった。
船上ということもありレオンハルトは防具は外していたが、剣は肌身離さず持っている。
いつモンスターが襲ってきてもいいように。
リゼットも、ユニコーンの角杖は身につけたままだ。
ディーは船酔いで部屋で潰れている。
出航からかなり経っているからか、夜が近いからか、他の客も乗組員も、いまは近くにはいない。
「それにしてもこの船、どうやって進んでいるのでしょう?」
「船は海流――海の流れと、帆で風をつかまえて進む。それにこの船は魔法でも動くらしい」
レオンハルトは船の上で高く大きく張られた白い布を見上げる。
「風のないときの移動を、魔法の風で行なうんだ。だから凪のときも安定して進める」
「まあ。すごいですね」
こんなところにも魔法が使われているなんて。
魔法技術に感嘆しながら、海を――波しぶきを見る。
水の音も匂いも自然と身体に馴染む。果てしない大海原はいくら見ても飽きない。
リゼットは沈んでいく夕陽に向かって右手をかざす。
指を大きく開いて、光に透かす。
一度は失い、再生された右手。それをとても愛しいと思った。
(これも私の一部……冒険の証)
リゼットは髪の一房を見る。強力な火の魔法を使うたびに燃える、火女神ルルドゥの髪を。
左目を意識する。水女神フレーノの一部が宿る瞳を。
聖遺物を身体から取り出すために女神教会の本山に行ったが、いまもその存在を感じる。
そして、それを嬉しいと思ってしまう。
(女神たちといつまでいっしょにいられるかもわかりませんし)
いつか消えるかもしれないし、いつまでも一緒にいられるかもしれない。
いまの状況を受け入れ、人生を楽しむことにする。
短い人生、楽しみつくさなければもったいない。
「レオン、ありがとうございます」
右手と夕陽を見つめながら、隣のレオンハルトに言う。
「あのままだったら私、こんな風に海を見ることはなかったかもしれません」
「二度としたくない」
レオンハルトにとっては苦い記憶らしく、呻くように言う。
「――でも、同じようなことがあれば、俺はまた同じ決断すると思う」
真剣な声が響き、リゼットは顔を上げた。
目が合うと、レオンハルトは小さく微笑み、また海を見つめる。
「――俺はあの時まで、決断することがあんなに苦しいことだと知らなかった」
あの瞬間のことを思い出しているのか、真剣な眼差しで静かに語る。
「……決断するのは、勇気がいりますよね」
あらゆる未来から最善と思えるものを選んで、他を捨てる。
後戻りできない場所に踏み込むのは、とても勇気のいることだ。
「ああ……俺より、君の決断の方がよっぽど勇気があった」
「私が勇気を出せたのは、レオンたちがいたからです」
ひとりではきっと、死ぬ覚悟はできても生きる覚悟はできなかった。
世界すべてを失うとしても生きようとする覚悟は持てなかった。
それでも選んだのは、この世界でもっと生きていきたいと思ったからだ。
ひどいエゴだ。教皇アマスフィアの言ったとおりだ。
それでも生きたい。世界を見たい。知りたい。感じたい。
――一緒に、生きていきたい。
だが、それを言葉にすることはできない。
いまこの瞬間共にいられること以上を望んではいけない。
リゼットは胸の痛みに気づかないようにして、淡い気持ちを封じ込める。
海を静かに見つめるレオンハルトは、どこか遠い目をしていた。
「――俺は、兄に憧れていた」
レオンハルトが自分から家族の話をするのは珍しい。
リゼットは何も言わず、話を聞いた。
「兄は誰よりも強かった。なのに成人の儀のとき、ドラゴンを倒しに行かなかった。ドラゴンの子を取り寄せて、血を浴びた。俺は……失望と、怒りを感じた」
「…………」
「あんな風にだけはならないと、子どもじみた反抗心をずっと引きずっていた」
――憧れていたからこそ許せなかった。
だから国を出て、異国のダンジョンでドラゴンを倒そうとした。
最初にリゼットがノルンの冒険者ギルドでレオンハルトを見た時、とても気が張り詰めていて余裕がなさそうだった姿を覚えている。
ドラゴンを倒すこと以外のことは、眼中になかったのだろう。
それでも、困っているリゼットに気づいて助けてくれた。本人は覚えていないだろうが。
「――いまはわかっている。世の中、理想どおりに行くことばかりじゃない。兄は兄で……決断したんだ。俺は理由も知ろうとせず、ただ反発した。俺がいくら竜の力を手に入れても、あの人には敵わない」
剣の柄を握る手に、わずかに力がこもる。
「レオンは強いですよ」
目が合い、リゼットは微笑んだ。
「とても強くて、優しい人です」
本心からの言葉を伝える。
リゼットはレオンハルトを尊敬している。
関わりのない相手でも躊躇なく助けにいく正義感を。
強敵に立ち向かう勇気も、深い知識も、逆境を好転させる知恵も。
自分を律しようとしている姿も。時々子どもっぽくなるところも。
すべてを愛しいと思う。
だからこそ怖い。いつか訪れる別れの日が。
沈黙の中でゆっくりと時間が流れていく。波の音が心地よく響き、赤い夕陽が空と海を煌めかせている。
海風が金色の髪をなびかせる。
レオンハルトの顔がわずかに赤いのは、夕陽のせいだろうか。
ふと、リゼットに向けられたエメラルドグリーンの瞳の奥で、金色の光が揺らめいているように見える。
その瞳の色を、とてもきれいだと思った。
「――リゼット。俺は、君が好きだ」
真摯な声に、リゼットは驚きで目を見開く。
激しい鼓動が、血の流れる音が、全身に響く。
いままで感じたことのない激しい感情に、リゼットは戸惑い、胸を押さえる。
「で、でもレオンは、好きな人がいるって……」
――そう聞いたことがある。心に決めた人がいると。
「ああ。ずっとリゼットのことがずっと好きだった」
「そんな……」
まさか自分のことだったなんて。
――恋や愛は、自分には縁遠いものだと思っていた。
祖父と祖母のような、愛し合い支え合う姿に憧れながらも、自分には無理だろうと諦めていた。
「君さえよければ、これからも傍にいさせてほしい……君と一緒に生きていきたいんだ」
「レオン……」
こういうとき、どんな風に返事をすればいいのかわからない。
全身が熱くて、胸が苦しくて、顔が上げられない。
リゼットはぎゅっと自分の胸を押さえ、湧き上がる感情のままに言葉を紡いだ。
「私も……同じことを考えていました……レオンと一緒に、生きていきたいって」
目許が熱い。
火傷しそうなほどに熱い涙が、頬を濡らしていく。
「――私、ずっとレオンのことが好きでした。きっとこれからも」
ずっと隠してきた気持ちを、ずっと気づかないようにしていた想いを、恋心を、打ち明ける。
「リゼット……」
名前が、声が、狂おしいほど愛しく感じる。
そっと抱き寄せられ、距離がなくなる。
どちらのものかもわからない鼓動と、熱い体温。リゼットは瞼を下ろし身体を寄せ、両腕で強くレオンハルトを抱きしめた。
これから先の時間も、共に生きていきたい。
夕陽が沈む海の彼方でも、はるか遠い空の下でも、ダンジョンの中でも。
「……そういえば、海の向こうにもダンジョンはあるのでしょうか?」
「……あ、ああ、ある。有名な場所も、小さなダンジョンも。氷に閉ざされた地や、燃える大地、海の中にだってあるらしい」
「まあ、楽しみですね。特に海の中のダンジョンなんて、海産物がたっぷりでしょうね」
想像するだけで食欲がわいてくる。
新しい冒険の予感に胸を膨らませて顔を上げると、レオンハルトは少し困ったように――だが嬉しそうに笑う。
「ああ、楽しみだ」
「はい。この世界の美味を、たくさん食べていきましょうね」
約束を交わす。
終わらない約束を。
そうしてまた新しい冒険が始まる。