作品タイトル不明
第46話 責任の糸
マルタンは受付印を握ったまま、硬い顔で立っている。
彼は書類を止めた。
そこまでは正しかった。
けれど、追うべきはその後だった。
「マルタンさん。その女性を止めた後、書類棚に新しい添え状の文例が入った記録はありませんか」
マルタンの顔が、わずかに強張った。
「新しい添え状の文例、ですか」
「ええ。ミレイユさんは後日、書類棚で新しく補充された添え状の文例を見つけています」
レイベルナは、机の上の添え状付き封筒へ視線を落とした。
「その文例が、誰の確認で棚へ入ったのか。まずはそこを確かめたいのです」
マルタンはすぐに細い帳面を開いた。
指先が、帳面の端を一枚ずつめくっていく。
「……正式な補充の記録はありません」
監査室の空気が静まった。
「ありませんか⋯⋯」
「はい。添え状の文例を新しく補充した記録はありません。ただ……私が受付で止めてから三日後、清掃係から棚の整理に関する報告が上がっています」
「棚整理の報告?」
「書類棚の横に、持ち帰り用の書類らしき束があった、と。清掃係は棚から落ちたものだと思い、棚へ戻したようです」
ミレイユの顔色が変わった。
「そ、それです。私が見つけたときには棚に入っていたので、もう確認済みのものなのだと……そのままセヴィルさんへ持って行ってしまいました」
マルタンは苦い顔をした。
「申し訳ございません。私の方もその時点では、ただの棚整理の報告だと思っていました。棚の横に落ちていた書類を戻した、というだけの報告でしたので……」
「中身は確認しなかったのですか」
「はい。まさか、私が止めた書類とミレイユさんが見つけたものがつながるとは思っておりませんでした」
マルタンは帳面を握ったまま俯いた。
「正式な補充記録はない。けれど、棚横の書類束を戻した報告はある⋯⋯そしてその後、ミレイユさんが新しい添え状の文例を見つけています」
マルタンは帳面から顔を上げた。
「断定はできませんが、時期と場所は合います」
財務卿が猫を撫でる手を止めた。
「つまり、止められた書類が、正式な処理を通らずに書類棚へ入っていた可能性があるということですな」
「⋯⋯はい」
マルタンの声は低かった。
「ただの棚整理の報告だと思っておりましたが、今こうして並べると、同じ経路につながっている可能性が⋯⋯」
棚へ直接入れたわけではない。
清掃係へ頼んだわけでもない。
ただ、誰かが自然に戻す場所へと置いた。
命じない。頼まない。
けれど、人がそう動く場所を選ぶ。
黒い紙側のやり方に似ていた。
「じゃあ、棚に入れた清掃の人を呼ぶんすか」
「⋯⋯いいえ」
レイベルナは即座に首を横に振った。
「その方は、棚から落ちた書類だと思って入れただけです。今追うべき責任は、そこではありません」
「じゃあ、どうするっすか?」
「ここで追うのは、外門受付所で止められた書類を、返却記録が残る前に外へ持ち出した方です」
監査室が静まり返った。
ミレイユが桃色の便箋を抱え直す。
セヴィルは受講者名簿を胸に押し当てたまま、息を殺している。
ガスパルは片頬だけ少し若い顔で、初めて口を閉じていた。
財務卿の腕の中で、猫がまた耳を動かした。
マルタンが、掠れた声で言った。
「……それは、あの白い手袋の女性ですか」
「その可能性が高いです」
レイベルナは銀の鈴を持ち上げた。
指先で冷たく光る。
「ようやく細い糸がつながりました。外門受付所で止められた書類を、返却記録が残る前に外へ持ち出した。その責任へ、音を届かせます」
セドリック卿が一歩近づいた。
「レイベルナ嬢」
「⋯⋯大丈夫です」
「顔色が悪いです」
レイベルナは小さく息を吸った。
ここ最近、銀の鈴を何度も鳴らしている。
澄んだ音の奥で、自分の中の何かが少しずつ削られていく感覚はあった。
それでも、ここでは止まれない。
白い封筒。
添え状の文例。
何にでも使えそうな言葉。
責任を薄くし、誰かの手に渡るたびに、さらに見えにくくなる仕組み。
レイベルナは銀の鈴を掲げた。
「⋯⋯確認しましょう」
監査室の空気が、ぴんと張りつめる。
今ある責任の結び目へ、音を届かせる。
「受付で確認処理となった書類を、処理が終わる前に外へ持ち出した者を、お呼びしますわ」
銀の鈴が揺れた。
――チリン。