作品タイトル不明
第3話 猫と財務卿と金貨834枚
――チリン。
財務卿が現れた。
寝間着の上に毛布を羽織り、腕には灰色の猫を抱いている。どうやら自宅で、寝る前の確認書類を片づけていたところらしい。
猫は強い光に目を細め、財務卿の胸元で迷惑そうに鳴いた。
「なっ、何事ですかな!? 私は今、寝る前に猫へ挨拶を――陛下!?」
財務卿は国王を見て固まり、王妃を見てさらに固まり、最後に大広間の中央に立つ王子とミレーヌを見た。
それから、銀の鈴を持つレイベルナを見る。
「……まさか、金ですか」
レイベルナは静かに頷いた。
「はい。モーント子爵家の借金について、王太子執務室の支払い保証が出ている件です」
財務卿の顔から、眠気が完全に消えた。
「金ですね」
「はい」
「猫を置きます」
財務卿は近くの侍女に猫を預けようとした。
だが、猫は財務卿の袖に爪を立てた。
国王は財務卿を見た。
「その猫も責任者か」
「いえ、これは私の睡眠の責任者です」
「置け」
「はい」
財務卿は猫の前足をそっと外そうとしたが、猫は不満そうに「みゃ」と鳴いた。
王妃が淡々と言う。
「猫は無罪です。先に報告を」
「承知いたしました」
財務卿は猫を抱いたまま、毛布を肩から落とした。
その顔は、もう眠る前の老人ではなかった。国庫の金を預かる者の顔だった。
「殿下」
「財務卿、誤解だ」
「金の誤解は、たいてい誤解ではございません」
財務卿は毛布の下から、折り畳まれた薄い覚え書きを取り出した。
「正式な帳簿ではございません。寝る前に確認していた未決案件の控えです」
財務卿はそこに並んだ短い記録へ目を落とした。
「モーント子爵家への支払い保証、三通。殿下の私的署名、三つ。王太子執務室の封蝋、三つ。ついでに私の頭痛、三日分です」
王子の顔が引きつった。
「正式な王家保証ではないだろう!」
「はい。正式な王家保証ではございません」
王子がほっとした顔をする。
財務卿は続けた。
「ですが、正式でなければ問題ない、という話ではございません。殿下の私的署名と王太子執務室の封蝋を用いた支払い約束状が、商会側へ渡っております。受け取った商人が王家の支払いと誤認するには十分です」
王子の顔がまた凍った。
「私的ならよい、という話ではありませんね」
王妃の声が刺さる。
「はい。特に一通は、西棟結界修繕費の仮払金と同日に作成されております。現在調査中でしたが、どうやら宴遊費へ一部流れた疑いがございます」
「財務卿!」
王子の叫びは悲鳴に近かった。
財務卿は猫を抱きしめたまま、情けない顔をした。
「殿下、私も呼ばれたくて来たわけではございません。猫も寝ておりましたゆえ」
猫が「みゃ」と鳴いた。
緊張しきった広間に、妙な笑いが漏れた。
レイベルナはその隙にミレーヌを見る。
「ミレーヌ様」
「な、何でしょう」
「先ほど、私はあなたのご実家の借金を調べたことで、嫌がらせをしたと告発されました。ですが王子殿下の署名が使われていた以上、確認は必要でございました」
「私……そんな大きな話だなんて、知らなくて」
「では、どなたに勧められて支払い保証を使いましたか」
「お父様が……王子殿下にふさわしい装いをしなければ、皆に軽く見られるって」
「なるほど」
レイベルナは鈴を見下ろした。
王子が首を振る。
「もう呼ぶな。本当にやめろ。会場がめちゃくちゃだ」
「殿下」
「何だ」
「めちゃくちゃになった責任者も、必要でしたらお呼びできます」
「呼ぶな!」
大広間の数か所から、明らかに笑いが漏れた。
国王は笑っていなかった。
王妃も笑っていなかった。
財務卿の猫だけが、退屈そうにあくびをしていた。
レイベルナは鈴を鳴らした。
――チリン。
今度は小柄な宝飾商が現れた。
派手な緑の寝間着に外套だけを引っかけ、片手には帳簿、もう片方には羽ペンを握っている。現れた瞬間、彼は貴族だらけの大広間を見て腰を抜かしかけた。
「ひっ……! わ、私は何も悪いことは……たぶん、しておりません!」
「お久しぶりです、マルタン商会長」
「レ、レイベルナ様!? これは、いったい」
「モーント子爵家の未払いについて、確認が必要になりました」
その一言で、商会長の目が変わった。
「未払い」
小さくつぶやいた声が、妙に低かった。
「未払いの話ですね」
「はい」
「では、倒れている場合ではございません」
商会長は寝間着の襟を正し、帳簿を開いた。
「モーント子爵家の未払い総額は金貨834枚。うち半分近くが、ミレーヌ嬢の装飾品、夜会衣装、香水、観劇席の手配でございます。三度催促し、二度泣かれ、一度だけ王太子殿下の署名を見せられました」
大広間がどよめいた。
金貨834枚。
下級貴族家なら屋敷ごと傾く額だ。
ミレーヌが震える。
「そんなに……?」
その反応を見て、レイベルナは少しだけ目を細めた。
知らなかったのかもしれない。
あるいは、知ろうとしなかっただけかもしれない。
どちらにせよ、彼女はただの悪女ではない。
だが、ただの被害者でもなかった。
「ミレーヌ様。あなたが何を知り、何を知らなかったかは後で確認されるでしょう。今ここで大事なのは、殿下の署名が借金に使われた事実です」
ミレーヌはうつむいた。
「……はい」
その時だった。
大広間の魔晶灯が、一斉に揺れた。
白金色の光が青く濁る。
床の花模様が歪み、窓の外で低い風が鳴った。
セドリックが剣の柄に手をかける。
「全員、壁際へ」
短い声だった。
次の瞬間、西側の大窓が内側へ砕けた。
悲鳴が上がる。
冷たい夜風とともに、黒い影が飛び込んできた。