作品タイトル不明
第2話 まだ一度しか鳴らしておりませんわ
「……なぜ私は祝宴の中央で寝間着なのだ」
重い声だった。
寝間着でも国王は国王だった。
諸侯が一斉に膝を折る。
レイベルナも深く礼をした。
「陛下。夜分に失礼いたします」
「レイベルナ嬢か。私は確か、祝宴の挨拶を終えて、執務室で西部砦の報告書を読んでいた」
国王の視線が王子へ向く。
「エドガル。説明しろ」
「ち、父上、これは、その」
「なぜ私はここにいる」
レイベルナは静かに答えた。
「殿下がこの場で、私との婚約破棄を宣言なさいました。王家と公爵家の婚約契約における最終承認者は陛下ですので、私のスキルが『責任者』としてお呼びしたものと思われます」
国王の眉間に深いしわが刻まれた。
「婚約破棄だと」
王子の喉が鳴った。
「父上、これは私の意思で」
「お前の意思だけで王家の婚約を破棄できると、誰に教わった」
王子は答えられなかった。
レイベルナは鈴をそっと持ち直した。
「殿下、落ち着いてくださいませ。まだ一度しか鳴らしておりません」
「な、鳴らすな!」
「では、婚約破棄もおやめになります?」
「それとこれは別だ!」
「では、別の責任者を確認いたします」
「やめろと言っている!」
――チリン。
王子の声を追い越すように、鈴が鳴った。
今度は大広間の入口付近に王妃が現れた。
深紫の夜会着に白い肩掛けをまとい、手にはまだ茶器を持っている。
茶会の途中だったのだろう。湯気の立つ茶器を持ったまま、王妃は数秒だけ固まった。
「……まあ?」
国王を見た。
大広間を見た。
膝をつく諸侯を見た。
そして、王子の腕にすがるミレーヌを見た。
王妃の目から、すっと温度が消えた。
「エドガル」
その声は静かだった。
静かすぎて、広間の温度が一段下がった気がした。
「あなた、私がお茶を置いてまで来るようなことを、したのですね?」
「母上、これは誤解で」
「私が呼ばれた時点で、誤解では済みません」
王妃は茶器を近くの侍女へ渡した。
侍女は震える手でそれを受け取る。
「レイベルナ嬢。私が呼ばれた理由を」
「王太子妃教育の監督責任者は王妃陛下でいらっしゃいますので」
「ええ。その通りです」
王妃はゆっくり王子へ向き直った。
「私が長年見てきた婚約者を、この子は公衆の面前で侮辱したのですね」
ミレーヌの肩がびくりと跳ねた。
王妃の視線がそちらへ流れる。
「そちらのお嬢さんは?」
「ミレーヌ・モーント子爵令嬢でございます」
「エドガルの腕に触れてよい立場ではありませんね」
ミレーヌが慌てて手を離した。
王子は一歩前に出る。
「母上、ミレーヌを責めないでください。彼女は純粋で」
「純粋な方は、他人の婚約者の腕に祝宴の中央ですがりません」
扇がどこかでぱたりと落ちた。
ミレーヌの顔が真っ赤になり、すぐ青ざめた。
「もういいだろう」
王子は苦し紛れに声を上げた。
「父上と母上が来たなら十分だ」
「いいえ。殿下は私がミレーヌ様へ嫌がらせをしたとおっしゃいました。その告発にも責任者が必要です」
「必要ない!」
「ございます。公爵家令嬢への名誉毀損ですので」
――チリン。
次に現れたのは、王子の教育係だった。
白髪交じりの老学者で、片手に分厚い本、もう片手に赤ペンを持っている。
頬にはインクがつき、寝る前まで答案を直していたらしい。
「な、何ですかな。私は今、採点の途中で――」
老学者は大広間を見回した。
寝間着姿の国王。
静かにこちらを見ている王妃。
大広間の中央に立つ王子。
その腕にいたミレーヌ。
そして、銀の鈴を持つレイベルナ。
老学者の顔から、すっと血の気が引いた。
「……殿下」
「先生、これは違う!」
「違いません」
老学者は即答した。
「この空気、この立ち位置、この顔ぶれ。王家の婚約解除手順を無視した時に起きる最悪の例として、私が授業で三度説明した状況そのものです」
広間がざわめいた。
老学者はその場で深々と頭を下げた。
「陛下。王妃陛下。申し訳ございません。これは間違いなく、私の教育不足でございます」
国王が低く言った。
「まだ何も聞いておらん」
「王家の婚約解除手順、王太子権限、国庫予算、私的署名、公的告発の危険性。すべて三年前から教えております。ですが殿下は、契約や署名に関する試験で、50点満点中4点でした」
「先生!」
王子が叫ぶ。
老学者は悲しそうに首を振った。
「殿下。今の叫び方で、追試の礼節点も失いました」
「今ここで採点するな!」
「採点せずに済む段階は、婚約破棄を宣言する前に終わっております」
老学者は分厚い本を抱え直し、王子をまっすぐ見た。
「私は何度も申し上げました。署名は剣より重いのです。婚約も、借金保証も、王家の印も、軽く扱ってよいものではございません」
「借金保証?」
国王の声がさらに重くなる。
王子の顔が引きつった。
レイベルナは鈴を胸の前に持つ。
「その件につきましては、財務上の責任者をお呼びした方が早いかと」
「待て、レイベルナ」
王子の声が裏返った。
「はい」
「待てと言った」
「待っております」
「その鈴を下ろせ!」
「下ろしますと、責任者を呼べません」
「呼ぶなと言っている!」
「では、ミレーヌ様のご実家への支払い保証を、殿下がこの場で取り消してくださいますか」
王子は黙った。
ミレーヌが彼の袖をつかむ。
「殿下……」
その沈黙が答えだった。
レイベルナは鈴を鳴らした。
――チリン。