作品タイトル不明
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アシュメイル王国の夕暮れはいつも赤々としている。熱砂の国にふさわしいその赤が深い藍に変わって、夜の帳がおりてくるのだ。
徐々に赤くなっていくその夕日を、陽の宮殿でロクサネはじっと見ていた。
夜になってもハウゼル女王国から戻らなければ――そういう指示は夫から受けている。だがそんな指示があるから大丈夫だなんて、とても思えない。
今のアシュメイル王国には神剣もなく、神の娘も聖将軍もいない。しいて言えば聖竜妃となった水竜がいるが、彼女の力は聖なる結界がなくなってからしか発揮されない。そして聖なる結界が失われるというのは、バアルを失ったことを意味する。
この国が世界にのまれないためには、あのひとが絶対に必要だ。
ぎゅっと膝の上の拳を握ると、背後で物音が響いた。振り向いたロクサネの前に、先ほどまでなかった人影が落ちる。
「ロクサネ」
「バアル様!」
椅子を蹴ってその胸に飛びこんだ。その温かい胸の鼓動を感じて、心の底から安堵する。
だがすぐに血のにおいを嗅ぎ取って目を開いた。見たところ怪我は見当たらないが、脇腹当たりの衣服が裂けている。
「バアル様、おけがを」
背中をきつくすがるように抱き締められて、言葉がつまった。
「助けられなかった」
らしくなく、ロクサネを抱き締めるバアルの力が強くなっていく。
顔を見られたくないとばかりに、きつく。
「見届けてくれ、と言われたが、余にできることはもうない。――友人の願いも聞き届けられずに、聖王か。笑わせる」
「バアル様……」
「お前からも友を奪ってしまうかもしれん。……ハウゼル女王国がエルメイア皇国に宣戦布告を出した」
もしこれ以上バアルがあの魔王を助けようとすれば、アシュメイル王国もハウゼル女王国と対立することになる。
だからもう、バアルはクロードを、その妻であるアイリーンを助けない。
「すまな――」
「謝ってはなりません。あなたは王です」
愛しさと尊敬と、すべてをこめてその体を抱き締める。王の孤独を背負うこのひとが少しでも安らげるように、強く進んでいけるように。
「あなたが何を選んでも、大丈夫です。あなたは王だから、正しいのです」
「……なんだそれは。余は独裁者か」
「それに、クロード様は死んだわけではないのでしょう?」
そうであれば聖竜妃がおとなしくしているわけがない。力が抜けたバアルの腕から、少しだけ体を離す。やっとバアルが顔を見せてくれた。
困った王だ。友達を助けられなくて、それだけで泣き出しそうな顔をしている。
「でしたら、大丈夫です。アイリーン様が負けるわけがありません」
頬をなで、目にかかる髪を指でそっとはらうと、バアルが声を絞り出した。
「なぜそんなふうに言える」
「もしわたくしがアイリーン様と同じような状況になったら、どんな手を使ってでも夫を助けるからです」
そしてアイリーンの『どんな手』には、バアルも入っているに違いない。
他国の王を、しかも自分の夫をそう扱うことにはいつか苦言を述べねばならないだろうが、それを夫が望んでいるのなら話は別だ。
「だから大丈夫です、バアル様。そんな顔をなさらないで――無事に帰ってきてくださって、本当によかった」
「……ロクサネ」
「おかえりなさいませ」
怪我を負ったのだろうその場所をなでると、バアルにまたきつく抱きしめられた。
ただいまというかすれた声に、ゆっくりロクサネは目を細める。
傷ついて帰ってきたこの人を甘やかしてあげたい。その役目を、他の誰にも、聖竜妃にも譲りたくない――この気持ちをなんというか、ロクサネは知っている。
自覚するとよりいっそう明確になる、この腹立たしさも。
(よくも、わたくしのバアル様を)
その視線の先を、机のうえの日記にさだめる。
夢が叶えば開くと聞いていたその日記のページが、藍色に染まり始めた空からの風にぱらぱらとめくれていった。