軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

後編 ◇ アルフレッド

アルフレッドが公爵邸の自室に戻ると、執事が銀のトレイに乗せた一通の封書を差し出してきた。

「至急、と仰せつかっております」

一体何事かと封蝋に押された紋章を見て、アルフレッドは怪訝に眉を寄せる。それは王子、クリスティアンのものだった。

嫌な予感がして急ぎペーパーナイフを手に取り、封を切って中を確認する。その瞬間、アルフレッドは愕然とした。

『ユージェニーは戻らない。心当たりはあるはずだ』

窓の外は既に薄暗い。だがそんなことには構っていられなかった。アルフレッドは声を荒げる。

「馬車の用意を! これから向かうと、先触れを出しておいてくれ。一番早い馬で、すぐにだ!」

普段のアルフレッドからは想像もつかないような焦った指示に、執事も従者たちも皆が驚いていた。

王宮へと急ぎ馬車を走らせ、到着したアルフレッドはほとんど駆けるように王宮内へ入った。荒い息のまま、王子への緊急の面会を申し出る。

帰れと言われても居座るつもりだった。しかし、間もなくしてアルフレッドはクリスティアンの執務室に通された。

公務で度々訪れる、アルフレッドにとっても入り慣れた部屋のはずだった。だが今回は、状況が違う。

通された先、執務机の向こうから両指を組んでこちらを見るクリスティアンの横には、腕組みをしてこちらを睨むクラリッサの姿もあった。

二人には、王族特有の圧がある。今は、それが特に強い。だがそれに気圧されるわけにはいかなかった。アルフレッドは丁寧に礼をした。

「クリスティアン王子殿下、クラリッサ王女殿下におかれましては――」

「挨拶などいいわ」

クラリッサの厳しい声に遮られて、アルフレッドは頭を上げる。そう言ってもらえるなら、こちらとしてもありがたかった。

「では恐れながら、お尋ねいたします。ユージェニー様――妻が、戻らないというのは、どういうことでしょうか」

敢えて 妻(・) と強調した。クラリッサの眉がぴくりと動いた。

「妻? よく言うわね。妻として扱っていなかったのはアルフレッド、お前でしょう」

アルフレッドの頬がわずかに強張る。クリスティアンの手紙にも書いてあった。『心当たりはあるはずだ』と――二人は、アルフレッドとユージェニーが、今なお白い結婚のままであるという事実を知っているのだ。

「お前たち、うまくいっていないのだろう」

クリスティアンの指摘に、アルフレッドは何も言い返すことができなかった。沈黙が答えになる。

クリスティアンは落胆したようにため息をつき、クラリッサは隠そうともせずに舌打ちをした。

「ユージェの今後については、離婚も視野に入れているところよ」

クラリッサの言葉に、アルフレッドの思考が止まった。

「……離婚?」

「このままユージェが苦しみ続けるなら、王宮へ戻した方がいいわ」

アルフレッドは頭が真っ白になり、途端に胸が苦しくなった。必死の思いで声を絞り出す。

「待ってください、そんな――。お願いです、ユージェニー様と会わせてください」

「駄目よ」

「クラリッサ殿下!」

「ユージェは、お前の心が別の女のところにあるのだろうと言っていたわ。事実なの?」

射抜くようなクラリッサの視線。アルフレッドは眩暈を覚える。思考が追い付かないのだ。

「別の……? 一体、何のことですか?」

「ユージェはお前に好きな女がいて、それで拒絶されたと思っているのよ」

「好きな女――拒絶……!? 違います! そんなことは事実ではありません」

「だったら、白い結婚が事実ではないと言うの?」

「それは……事実、ですが――」

アルフレッドの内心は、もはやパニックになっていた。このままでは、不実な男として処理され、弁解しようにもユージェニーと会う機会すら与えてもらえない。

――もう、だめだ。話すしかない。

アルフレッドはぐっと唇を噛むと、苦渋の思いでクリスティアンとクラリッサに頭を下げた。

「包み隠さず私の事情を申し上げます。ですが、まずクリスティアン殿下お一人に聞いていただきたいのです。学友でもあった私に、情けをかけていただけるのであればどうか」

「なぜ、クリスだけなの? 私も聞くわ」

アルフレッドは頑なに顔を上げなかった。それしかできなかった。

しばしの張り詰めた沈黙の後、クリスティアンが小さく息をついた。

「リッサ、しばらく二人にしてくれ」

クリスティアンの言葉に、アルフレッドは弾かれたように顔を上げた。

クラリッサは明らかに不満そうな顔をしていたけれど、やがて大きなため息をついて肩をすくめると、執務室を出て行った。

完全に二人きりになって、クリスティアンは改めてアルフレッドを見ると、心配そうに眉根を寄せた。

「今にも倒れそうだぞ。とりあえず、座れ」

「……はい」

確かにもう、限界に近かった。立っていると眩暈がする。アルフレッドは素直に従った。

ソファに腰を下ろすと、クリスティアンも執務机から離れ、アルフレッドの対面に座った。

「それで。お前の事情とは? 好きな女については、嘘はなさそうだったが」

「……神に誓って申し上げますが、愛しているのは、ユージェニー様だけです」

「ユージェとの縁談の前にあった、ウェストン侯爵家の令嬢と何かあるわけではないんだな?」

「ウェストン侯爵家? ああ……父が話を進めてはいましたが、個人的な関係はありません」

「お前は昔から、素直に公爵の決定に従うからな。ユージェのことも、陛下と公爵の決定だから、愛していると自分に言い聞かせているだけなんじゃないのか?」

「違います!」

アルフレッドがいつになく声を張ったので、クリスティアンは少し驚いた顔をした。

「ユージェニー様は、王女殿下でありながらいつも素直で控えめで……あんなに可愛らしい方はいないと、ずっと思っていました」

「よく分かっているじゃないか」

「ですが、学院時代に一度、クリスティアン殿下は私におっしゃったでしょう。クラリッサ殿下との縁談があったら、どう思うかと」

「ん? ああ、言ったな」

「私は、相手が誰であれ、クラリッサ殿下が臣下へ嫁がれるとは、想像もつきませんとお答えしました」

「そうだったな。俺もそう思っているよ。今でもな」

「なのに、クラリッサ殿下ではなく、妹君であるユージェニー様と結婚したいなど、とても言い出せませんでした」

「……変な気をつかったのか」

「ですからユージェニー様との縁談をいただいた時には、本当に夢のようで」

「だったらどうして、白い結婚なんだ」

呆れ果てた様子のクリスティアンに、アルフレッドは両手のひらに額を押し付けるようにして項垂れた。

「…………」

「……おい、アルフレッド」

「……できなくて」

「……は?」

「できなくて! 役に立たなくて……!」

「…………」

「緊張していて、息が苦しくなって、頭が真っ白になって――」

「ま、待て! 分かった!」

自暴自棄になったアルフレッドを、クリスティアンが慌てて止めた。

「分かったから、アルフレッド。落ち着け」

「……そして、ユージェニー様から、部屋を別にしようと言われました」

「ユージェは、お前に拒絶されたと思ったんだ」

「拒絶ではありません……」

「そ、そうだな」

「嫌だとは言えませんでした。私が原因なのですから。それからも、ユージェニー様の寝室に行こうとしましたが、扉の前で足がすくんで動けなくなって……。また失敗したらと思うと――」

言いたくても、言えなくて。このままではいけないとは、自分でも分かっていたのに。

「……アルフレッド、そういうことは、ユージェと話し合うべきだろう。二人で一緒に解決していけばいいじゃないか」

優しい声になったクリスティアンに、アルフレッドはゆるゆると顔を上げた。

「会わせていただけるんですか?」

「事情は分かったよ。悪かった。知らなかったとはいえ責めるような真似をして」

「いえ、悪いのは私ですから……」

「どうしようもなかったんだろう? 医師には相談していないのか?」

「公爵家の医師に言えば、父の耳に入ります。嫡男として大騒ぎされるかと思うと、それも言えなくて……。でも、ずっとこのままでは駄目だと言うことは、自分が一番よく分かっていました」

「だったら、しばらく俺の医師を使え。口は堅いし、秘密は守らせる」

「クリスティアン殿下……」

世界が明るくなった気がした。ずっと一人で背負っていたものが、軽くなっていく。

「ただし、ユージェとは話すんだ。秘密にしたままは、駄目だ」

アルフレッドは強く頷く。

「はい。このまま離婚は、嫌です」

「ユージェはお前が好きなんだよ。早く安心させてやれ。かわいそうだ」

「申し訳ありません……。あの、今からでも会えるでしょうか」

許可を得る前に、アルフレッドは立ち上がっていた。クリスティアンは苦笑する。

「分かった。すぐに伝えさせよう」

「それと、クラリッサ殿下には……」

「リッサにはもう大丈夫だから詮索するなと言っておく。秘密は守る。心配するな」

「ありがとうございます」

アルフレッドは心からの感謝をクリスティアンに捧げた。その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。

◇──◇──◇

ようやく会えたユージェニーは、ひどく不安そうな顔をしていた。大きな蜂蜜色の瞳が揺れている。その瞳を見た瞬間、アルフレッドの胸が痛んだ。何度も何度も、こんな表情をさせていたのは自分だ。

何とか彼女に嫌われまいと、必死に良い夫であろうとしてきた。けれど本当は、最初から間違っていたのだ。真実を打ち明けずにいたこと自体が。

今日まで逃げていた自分を、殴りつけたいとアルフレッドは思った。

「ユージェニー様、申し訳ありませんでした」

「アルフレッド様……」

「先程、クリスティアン殿下とクラリッサ殿下にお会いしました。お二人はユージェニー様のために、離婚も視野に入れているとおっしゃいました」

「り、こん……?」

ユージェニーの顔から、さっと血の気が引いた。呆然と呟く声が、ひどく弱々しい。アルフレッドは、必死で首を振った。

「私はそんなことを望んでいません。ですので事情を申し上げ、こうしてユージェニー様に会う許可をいただきました」

「アルフレッド様は……離婚を、望んでいないのですか?」

「望んでなどいません! 私は、あなたと離れたくはありません」

その言葉を口にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れそうになった。ユージェニーを失うかもしれないと思った時、心の底から思い知った。自分がどれほど彼女を大切に思っていたのかを。

「ユージェニー様、私の気持ちを伝えさせてください。私が愛しているのは、ユージェニー様だけです」

ユージェニーは目を見開き、それでも小さく首を振る。

「でも……」

その反応は当然だった。三カ月もの間、何一つ説明しなかったのは自分なのだから。

「ユージェニー様を、不安にさせてしまいました。今日までずっと、私はあなたの寝室を訪ねなかった」

「…………」

「正直に申し上げます」

喉がひどく乾いていた。けれど、もう逃げるわけにはいかない。アルフレッドは拳をぎゅっと握った。

「初めての夜、とても緊張していたんです。息が苦しくなって、頭が真っ白になって――何も、できなくなってしまった。その……夫婦のことが」

言葉にするたび、惨めさが胸を抉る。

「それからも、また失敗するのではないかと考えるたびに怖くなって……。あなたの部屋の前で、どうしても一歩が踏み出せなかった」

ユージェニーは何も言わなかった。ただ静かに、アルフレッドの言葉を聞いている。

アルフレッドは自嘲気味に笑った。

「男として駄目だったことに、向き合うことが怖かったんです」

最後に、かすれた声が零れる。

「……情けないですね」

ユージェニーはハッとして首を横に振った。

「情けなくなんてありません」

「でも、私はユージェニー様を傷つけました」

「それは……」

ユージェニーは胸元できゅっと両手を握りしめ、震える声で言う。

「わたくし、自分が愛されていないのだと思っていました。アルフレッド様は、他に好きな方がいらっしゃるんだろうと……」

「いません。私が愛しているのは、ユージェニー様ただお一人です」

何度だって繰り返す。信じてもらえるまで。アルフレッドはそう決めていた。

「あなたのいない生活なんて耐えられない。どうかユージェニー様、戻ってきてください」

ユージェニーの瞳が揺れる。両手を口元で押さえた彼女を、今すぐにでも抱きしめたい衝動を、何とかこらえていた。

「ユージェニー様、あなたが好きです。あなた以外に、心を奪われたことなど一度もありません」

その瞬間、ユージェニーの瞳から一気に涙が溢れた。

「わたくしも……アルフレッド様が好きです」

ユージェニーがようやく言った小さな声に、アルフレッドの張り詰めていた緊張が解ける。嬉しくて笑顔になったけれど、きっと今、自分は泣き出しそうな表情をしているはずだ。

「今度は絶対に逃げません。ユージェニー様と、本当の夫婦になりたいのです」

◇──◇──◇

数日後、アルフレッドはひどく緊張した面持ちで、王宮の一室を訪れていた。そのすぐ隣には、そっと寄り添うようにしてユージェニーもいる。

ユージェニーがそばにいてくれることが嬉しい。けれど同時に、自分はユージェニーを巻き込んで何をしているのだろうという情けなさもあった。

初老の医師は深く詮索するようなこともせず、信じられないほどあっさりとした口調で言った。

「クリスティアン殿下からお話は伺っておりますよ。まあ、よくあることです」

「……よく、あるのですか?」

思わずアルフレッドは聞き返していた。

「ええ。責任感が強く、生真面目な方ほど、その傾向があります」

その一言に、アルフレッドは目を見開いた。ずっと、自分だけがおかしいのだと思っていた。誰にも言えずに抱え込んできた。

そんなアルフレッドを見て、医師は何でもないことのように言う。

「緊張を和らげる薬酒だけ出しておきましょう。ですが、焦って無理に最後まで進もうとはなさらないことです。ああ、それでも一緒のベッドでは寝てください」

その言葉に、アルフレッドは隣に座るユージェニーを見た。ユージェニーは少し照れたようにほほえんで、小さく頷いた。

医師は穏やかに言った。

「お二人は、ちゃんと互いを想い合っておられる。大丈夫ですよ」

アルフレッドは救われたような気持ちになった。

◇──◇──◇

もう一度、二人でやり直そう。

アルフレッドとユージェニーはそう決めた。初めて想いを通わせた恋人同士から、もう一度。

朝は一緒に食事をして他愛もない話をする。天気の話や、庭に咲いた花の話。そんな些細な会話だけで、ユージェニーは嬉しそうに笑った。

午後は同じ長椅子に座り、互いに好きな本を読むこともあった。時折、ユージェニーが面白かった箇所を教えてくれる。その声を聞いているだけで、アルフレッドの胸は不思議なほど穏やかになった。

夜には観劇へ出かけることもあった。劇の内容よりも、隣で楽しそうに目を輝かせているユージェニーばかり見てしまう自分に気づいて、アルフレッドは内心で苦笑した。

急ぐ必要も、無理をする必要もなかった。二人とも、一度深く傷ついてしまったからこそ、今度は互いにすれ違わないように、ゆっくりと距離を縮めていった。

ある日の午後。王宮の園遊会に招かれ、薔薇園を二人で歩いていた時だった。

初夏の日差しを受けて、色とりどりの薔薇が咲き誇っている。風が吹くたび、甘い香りがふわりと漂った。

「ユージェニー様」

アルフレッドが声をかけると、少し前を歩いていたユージェニーが振り返った。

「はい、アルフレッド様」

そのほほえみに、心臓が高鳴る。

「……手を」

「はい?」

「つないでも、いいですか」

言った瞬間、自分でも可笑しくなった。今さら何を言っているのだろう。夜会では何度もエスコートしているし、馬車の乗り降りでも手は取っている。なのに改めて許可を求めるなんて、まるで 初心(うぶ) な少年みたいだった。

言い直そうかと思った、その時。ユージェニーが、ぱっと花が咲くような笑顔になった。

「はい!」

嬉しそうな返事に、アルフレッドの胸が熱くなる。

アルフレッドはそっと手を差し出した。ユージェニーの小さな手が、ゆっくり重なり、指先が触れ合う。それだけで、胸の奥が震えた。

アルフレッドは壊れ物に触れるように、そっと指を絡める。するとユージェニーも、優しく握り返してくれた。ぬくもりが広がっていく。

ふとユージェニーが、小さく笑った。

「アルフレッド様、緊張していますか?」

アルフレッドは思わず苦笑する。

「……しています」

「わたくしもです」

二人で顔を見合わせ、自然と笑みが零れた。

あの夜、あんなにも冷え切っていたことが信じられないくらいに、あたたかな手。ただそっと指を絡めているだけなのに、アルフレッドは胸がいっぱいになった。

「あたたかいですね、ユージェニー様」

アルフレッドが呟くと、ユージェニーは柔らかく目を細めた。

「はい、アルフレッド様」

幸せそうに答える、愛しい人。

「とっても、あたたかいです」

薔薇の香りが風に乗って流れていく。二人はそのまま、手をつないでゆっくりと庭園を歩いた。

◇──◇──◇

園遊会では、ひとり事情を知らされぬクラリッサの機嫌を取る必要があった。

「……解決したみたいね。私は何も説明されてないけど」

「申し訳ありませんでした。ご心配をおかけして」

まずアルフレッドが頭を下げ、それからユージェニーが花のようにほほえんだ。

「お姉様。今のわたくしがあるのは、お姉様が背中を押してくれたから。ありがとう、お姉様」

「ユージェ……」

途端にクラリッサは、普段の凛々しさからは想像もつかない、あまりにも無防備で美しい笑顔になった。

「ユージェが幸せならいいのよ」

今まで見たことのない、クラリッサの表情。驚きを隠せないでいたアルフレッドを、隣にいたクリスティアンが小突く。

「あれを向けられたら、大概の男は惚れると思わないか」

「……向けられたら、でしょう。私は学院時代も含めて、初めて拝見しましたが」

「見たら、惚れていたか?」

「いいえ、それはありません。……ですが、彼らはそうもいかなかったようですね」

そう言うと、クリスティアンは怪訝な顔をして周囲を見渡した。顔を赤くして立ち尽くしていた令息たちをジロリと睨むクリスティアンに、アルフレッドは思わず笑う。

初夏の柔らかな風が、幸せに満ちた薔薇園を優しく吹き抜けていった。