軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

前編 ◇ ユージェニー

「……申し訳ありません」

かすれた声で告げたのは、ユージェニーの夫となったばかりのアルフレッドだった。

「……どうしても、できない」

今まで聞いたことのない、絞り出すような声だった。

ユージェニーは息をのむ。まさか、自分の身にこんなことが起こるとは思ってもいなかった。

結婚式を終え、二人で迎える初めての夜。静まり返った寝室には、ランプの火だけが淡く揺れている。

美しく整えられたベッドの上で、ユージェニーはゆっくりと身を起こした。向かい合うアルフレッドは、項垂れたまま苦しげに繰り返した。

「本当に、申し訳ありません……」

よく見れば、アルフレッドの手がかすかに震えていた。

その姿に、ユージェニーの胸がひどく痛んだ。拒絶されたことよりも、彼の様子があまりにも普通ではなかった。

アルフレッドは穏やかで優しく、いつだって余裕を崩さない人だ。そんな彼が、謝罪を繰り返している。その痛々しさに、ユージェニーは息をのむことしかできなかった。

その時初めて、ユージェニーは思い知ったのだ。自分が、彼をここまで追い詰めていたということを。

ユージェニーは、アルフレッドが好きだった。幼い頃から、ずっと。

だからアルフレッドと結婚したいと願った。第二王女であるユージェニーの願いは、簡単に叶えられた。

――本当は、彼はこの結婚を望んでいなかったんだわ。

ユージェニーは好きな人の妻になれる幸福で頭がいっぱいで、彼の気持ちに目を向けていなかった。

それが今、こんなにも彼を苦しめている。その残酷な事実に、ユージェニーは言葉を失うしかなかった。

◇──◇──◇

アシュクロフト公爵家の嫡男アルフレッドと初めて出会ったのは、春の園遊会だった。ユージェニーがまだ、六歳の時だ。

ユージェニーの兄姉――双子の二人と同じく三歳年上である彼は、兄姉よりもずっと大人びて見えた。柔らかい陽光のような淡い金髪に、晴れ渡る空を思わせる澄んだ水色の瞳。誰に対しても分け隔てなく向けられるほほえみは、春の陽だまりのように穏やかで優しかった。

その園遊会で、ユージェニーは「決して離れてはいけません」と言い聞かされていたのに、庭園を舞う綺麗な蝶を追って、気がつけば父母のもとを離れてしまっていた。

ふと我に返った時には周囲に見知らぬ大人ばかり。賑やかな談笑の声も遠く感じられ、不安が胸いっぱいに広がった。泣き出しそうになりながら立ち尽くしていたユージェニーへ、そっと手を差し伸べてくれたのがアルフレッドだった。

「ユージェニー殿下、大丈夫ですよ。両陛下のところまでお連れします」

その瞬間、ユージェニーの世界は決まってしまった。

――アルフレッド様が、好き。

幼い胸に芽生えた想いは、年を重ねるごとに深くなっていった。

彼の姿を見かけるたび、ユージェニーの胸は高鳴り、同時に苦しいほど切なくなった。

それでもまだ、その想いを誰にも言い出せないでいた頃。

「ユージェ、またアルフレッドを見ているの?」

背後から呆れ半分の声が飛んできて、ユージェニーはびくりと肩を揺らした。

振り返れば、姉のクラリッサが立っている。

燃えるような赤髪を後ろでひとつに結い、凛々しく神秘的な琥珀色の瞳でユージェニーを見下ろしていた。

その色はランチェスター王家の象徴であったが、兄姉に比べてユージェニーは色合いが淡かった。ユージェニーの髪は燃えるような色というよりは薄薔薇色で、瞳は柔らかさのある蜂蜜色をしている。

「ち、違うわ」

「違わないでしょう。アルフレッドが城に来る日は、ユージェは必ずこの窓のそばにいるもの」

図星を突かれ、ユージェニーは耳まで赤くなる。

クラリッサはやれやれと息をついたが、その表情にはどこか優しさが滲んでいた。

「隠さなくていいわ。アルフレッドを好きなんでしょう?」

「お姉様!」

「別にからかっているわけじゃないわ」

ほほえましいものを見るように目を細めたクラリッサは、ふと思いついたように言葉を続けた。

「そんなに好きなら、いっそ父上にお願いしたら?」

クラリッサの言葉に、ユージェニーは目を丸くした。

「お願い……?」

「結婚したいのでしょう?」

「それは……」

「アシュクロフト家なら、あなたの嫁ぎ先としても申し分ないわ。言ってもいいのよ」

ユージェニーは言葉を失った。

王女として生まれ、国の利益のためにいつかは嫁いでいく。それを分かっていたから、我儘は言ってはいけないと思っていた。

「……でも」

ユージェニーは窓の外を見る。庭園では、穏やかな笑顔でアルフレッドが兄と談笑していた。その優しい笑顔が自分ではない女性に向けられるかもしれない。そう思うと、胸の奥がズキンと痛んだ。

「……アルフレッド様には、きっと婚約者がいるわ」

「候補はいるとは聞いているわ」

あっさりとクラリッサは肯定した。ユージェニーはぎゅっとドレスの胸元を握りしめる。

「でもまだ、正式ではないわ」

「…………」

「それなら、決まる前に動けばいいのよ」

戦略を語るような声音に、ユージェニーは苦笑するしかなかった。

クラリッサは昔からこうだ。欲しいものは、自分で取りに行く。文武に秀でていて、誰よりも強くて迷いがない。ユージェニーにとっては、頼もしく眩しい姉だ。

「わたくしは、お姉様みたいにはなれないわ」

「なる必要はないわ。ユージェはユージェでしょう」

そう言ってほほえむと、クラリッサは妹の頭を優しく撫でた。

「でもね、ユージェ。言ってみなければ、伝わらないのよ。始まる前に諦めてしまっては駄目よ」

◇──◇──◇

多忙を極める国王夫妻の予定がようやく合い、久しぶりに家族五人が集まった夕食会の日。

夕食を終え、一家は談話室へ移り、穏やかな団欒の時間を過ごしていた。暖炉には柔らかな火が灯り、淹れ立ての紅茶の華やかな香りが漂っている。

穏やかな空気の中、ユージェニーは意を決して口を開いた。

「あの、お父様にお願いがあります」

「――お願い?」

「わたくし、アルフレッド・アシュクロフト様と、結婚……したいです」

言った瞬間、胸が震えた。談話室が一瞬、静まり返る。緊張のあまり、ユージェニーは身を硬くした。

その沈黙を最初に破ったのは、母だった。

「あらまあ」

驚くというより、どこか嬉しそうな声音だった。母はふわりとほほえみ、隣に座る父へ視線を向ける。

「ユージェが、ついにお願いごとを口にしたわ」

「本当だな……」

父もまた感慨深げに目を細めた。

「リッサやクリスに比べて、我儘らしい我儘を言ったことがなかったからな」

「父上、いちいち私たちを引き合いに出さなくてもよろしいでしょう?」

すかさずクラリッサが不満げに言い返すと、父は眉間に小さく皺を寄せた。

「リッサ、お前はまったく。婚約者も決めずに騎士団のことばかり――」

「私の話はどうでもいいでしょう。今はユージェの話です」

「そうですよ、父上」

そう言って、王子のクリスティアンが話を戻した。クリスティアンは手にしていたカップをそっとソーサーに戻し、驚きと興味の入り混じった視線でユージェニーを見る。

「ユージェ、アルフレッドのことが好きだったのか? もっと早く言ってくれれば良かったのに」

ユージェニーは恥ずかしそうに視線を落とした。

「あの……もし可能なら、です。アルフレッド様のお気持ちや、公爵家の事情もあるでしょうから……。無理を言って、困らせたくはないんです」

最後の方は消え入りそうな声になった。父はしばらく考え込み、それから低く静かな声で問う。

「クリス、お前から見て、アルフレッドはどうだ」

父の真剣さを感じたように、クリスティアンも真面目に答える。

「良い人間ですよ。穏やかで誠実、それでいて芯が強い。アシュクロフト家の嫡男としての責務を果たそうとしています」

クリスティアンとクラリッサ、そしてアルフレッドの三人は、王立学院で長く共に学んだ同級生だ。十八歳で学院を卒業してからは、それぞれが次代を担う者として、公務に励んでいる。

「リッサ、あなたから見たらどうなの?」

母の質問に、クラリッサはふっと笑った。

「クリスの言う通り、真面目な男よ。感情に流されて軽率なことをするタイプではないわ。自分の立場をよく弁えている」

「親しくしている令嬢はいないの?」

「学院時代には、いなかったと思うわ。熱烈に慕われたこともあったようだけれど、上手くかわしていたみたい。卒業して、公爵が婚約者を探している話は聞いているけれど。そうでしょう、父上?」

「ああ。公爵は、今はウェストン侯爵家との縁談を前向きに考えていると言っていたが――」

その言葉を聞きながら、クリスティアンが何気ない調子で口を挟んだ。紅茶を口にしながら、さらりと。

「リッサの婚約者候補にあがったこともあったけどな」

「はあ?」

クラリッサが鋭く反応し、カップをカチャンと音を立ててソーサーへ戻した。母が慌ててたしなめる。

「リッサ、はしたない」

「そんな話、知らないわ。冗談でしょう?」

「家柄を考えれば当然の選択肢だろう。だけどお前がそんな風だから、俺が父上に言ったんだ。そんな無駄なことをしても、公爵とアルフレッドを悩ませるだけで終わるから、やめてくださいってね」

クリスティアンは呆れたように肩をすくめ、クラリッサは不機嫌そうにため息をつくと、強い目をしてユージェニーの方を振り向いた。

「ユージェ。ないわ、ない。絶対にないから」

「アルフレッドに失礼だろう。アルフレッドだって、お前のことは な(・) い(・) よ」

「何ですって?」

「お姉様ったら……」

ユージェニーは困ったように苦笑した。

クラリッサと婚約する。そんな未来は思いもしなかった。クラリッサならば諦められただろうか。一瞬想像しただけで、やはり胸がズキンと痛んだ。

その痛みが、ユージェニーの背中をもう一度押した。ユージェニーは父を見て姿勢を正す。

「あの、お父様。我儘を言ってごめんなさい。でもどうか一度、検討してもらえませんか?」

父は隣に座る母と、静かに視線を交わした。母は優しくほほえみ、小さく頷く。

父は再びユージェニーに向き直り、それから面持ちをふっと和らげてゆっくりと頷いた。

「正式に打診してみよう」

その言葉に、ユージェニーは目を見開いた。

「本当ですか……?」

「ああ、お前の願いだからな」

父は苦笑する。

「叶えてやりたい」

ユージェニーの胸がいっぱいになった。もしかしたら、あこがれのアルフレッドと夫婦になれるかもしれない。胸に広がる幸福感に、天にも昇るような心地だった。

だからこの時、ユージェニーは考えが足りなかったのだと思う。父がちらりと言った、ウェストン侯爵家との縁談。すでに動き出している現実と、ユージェニーは向き合うべきだったのに。

◇──◇──◇

結婚の話は、驚くほど滞りなく進んだ。

アシュクロフト公爵は王家からの打診を断ることなく、また当事者であるアルフレッドも、静かにその決定を受け入れたという。

婚礼の儀は、ユージェニーが半年後に十八歳を迎え、王立学院を卒業するのを待って執り行われることになった。その時アルフレッドは二十一歳。貴族の嫡男が身を固める時期としては、良いタイミングでもあった。

「謹んでお受けいたします」

そうアルフレッドが返答したと聞いて、ユージェニーは胸を躍らせた。

自室のベッドに倒れ込み、信じられないというようにため息を漏らす。姿見の前に立てば、自然と口元が緩んでしまう。ユージェニーはたまらなくなって、熱を持つ両頬を手のひらでぎゅっと押さえた。

数日経って、ひとしきり歓喜の波が落ち着き、冷静さが戻ってくると、今度は別の感情がユージェニーを支配した。あまりにも急に決まってしまったこの縁談に、アルフレッドは本当は不満を抱いているのではないか――そんな考えが、頭から離れなくなった。

だがそんな不安は、のちにアルフレッドと対面した瞬間に、綺麗に消えてしまった。

アルフレッドの表情には、王家への反感も、無理やり結婚させられることへの不満も、一切浮かんでいなかった。それどころか、彼はいつものように優しく、穏やかなほほえみをユージェニーに向けてくれたのだ。その変わらない態度に、ユージェニーは心の底から安堵した。

結婚式までの短い婚約期間、アルフレッドはユージェニーに対して、常に丁寧に接してくれた。

王宮の庭園を散策するときは必ずユージェニーの歩幅に合わせ、風が吹けば素早く上着を掛け、ユージェニーが緊張しながら話す他愛のないおしゃべりにも、退屈そうな素振りなど微塵も見せない。いつでも静かに耳を傾け、穏やかなほほえみを返してくれるのだった。

だからユージェニーは、ますますアルフレッドを好きになってしまった。心が甘く満たされていく。

――きっと、幸せになれる。

ユージェニーは、疑うことなくそう信じていた。

◇──◇──◇

そして迎えた結婚式の日。鏡に映るユージェニーは、純白の花嫁衣装に身を包み、この世で最も幸せな花嫁のように思えた。幾重にも重なる繊細なレース、真珠を散りばめた長いヴェール、胸元に咲く白薔薇の刺繍は、王女にふさわしい気品がある。

侍女たちは皆、口々に「お綺麗です」とほほえみ、ユージェニー自身も胸の高鳴りを抑えきれなかった。

部屋に響く、規則正しいノックの音。扉が開くと同時に、ユージェニーの心臓は一段と激しく跳ね上がった。

婚礼衣装に身を包み、控室に現れたアルフレッドに、ユージェニーは言葉を失って見惚れてしまう。正装は彼の端正な容姿をより際立たせ、眩しいくらいに輝いて見えた。

アルフレッドは静かに歩み寄ると、穏やかな笑みを浮かべた。

「お美しいです、ユージェニー殿下」

「……アルフレッド様、あなたも」

そう言うと、アルフレッドは少し照れたような表情をした。それから、真摯なまなざしでユージェニーを見つめた。

「今日からよろしくお願いします。至らぬ身ではありますが、あなたを生涯、大切に守ると誓います」

アルフレッドが、そっと手を差し出す。ユージェニーが緊張しながら手を重ねると、アルフレッドのぬくもりが伝わってきた。

胸がいっぱいになり、ユージェニーの視界がじんわりと涙で潤んでいく。この人と一緒なら、どんな未来も恐れることはない。そう思った。

◇──◇──◇

結婚を祝う盛大な晩餐会が終わり、ユージェニーは公爵邸へと迎え入れられた。

若き小公爵夫妻に整えられた寝室は広く静かで、花の香りに満ちていた。

ユージェニーは薄手の寝着をまとい、緊張した面持ちでベッドの端に腰掛けていた。心臓が早鐘のように脈打っている。

やがて静かに扉が開き、同じく寝着姿のアルフレッドが入ってきた。入浴を済ませた彼の髪は少し湿っており、普段より少しだけ幼く見える。

「お待たせしてしまい、申し訳ありません。ユージェニー殿下」

アルフレッドはベッドに近づき、ユージェニーの隣に腰掛けた。彼の体から、爽やかな石鹸の香りがして、夫婦になるのだという実感が押し寄せた。ユージェニーの緊張が高まる。

「あの、アルフレッド様」

「はい」

「これからは、どうかわたくしのことを殿下とは呼ばないでください」

緊張で震えそうになる声を懸命に押さえながら、ユージェニーは続けた。

「わたくしはもう、あなたの妻……です」

一瞬の沈黙の後、アルフレッドはゆっくりと手を伸ばし、ユージェニーの肩に触れた。

「ユージェニー様」

呼びながら、アルフレッドはユージェニーの体を押し伏せた。視線が重なる。こんなにも近くで見つめ合ったのは初めてだった。

けれどその瞬間、ユージェニーは言いようのない違和感を覚える。アルフレッドの瞳の奥にあるのは、情熱や愛おしさよりも、もっと切迫した何かだった。

「……アルフレッド様」

戸惑い混じりに呟いたユージェニーの頬に、アルフレッドが手を添えた。入浴後だというのに、驚くほどその手は冷たかった。

アルフレッドが顔を近づけてくる。ユージェニーは目を閉じたが、その直前に、アルフレッドが小さく震えていることに気がついた。

アルフレッドはユージェニーの唇に、そっと自身の唇を重ねた。

優しく触れるだけのキスだった。結婚式でも彼はそうしてくれた。

ユージェニーは頭の中で芽生えた違和感を振り払うように、彼の背中に手を回そうとした。

しかし触れ合っている唇から、彼の呼吸がみるみる浅く、細くなっていくのが伝わってくる。愛おしさに身を委ねる吐息ではない。

ユージェニーの肩にあったアルフレッドのもう片方の手が、凍りついたように微動だにしない。

「……っ」

短い、苦しげな呼吸の音が聞こえた。

ユージェニーが怪訝に思って目を開けると、自分を見下ろすアルフレッドの顔は、薄暗闇の中でも分かるくらいに青ざめていた。

「アルフレッド様……?」

ユージェニーが声をかけると、アルフレッドは弾かれたようにユージェニーの体から離れた。彼はベッドの上に膝をついたまま、片手で自分の顔を隠すように押さえている。

「申し訳ありません、少し……。少しだけ、お待ちください」

アルフレッドの様子がおかしかった。まるで追い詰められているみたいで、ユージェニーは戸惑った。

「大丈夫ですか?」

「…………」

「……アルフレッド様、あの」

沈黙が流れ、そしてアルフレッドはかすれた声で言った。

「……申し訳ありません」

今まで聞いたことのない、アルフレッドの絞り出すような声。

「……どうしても、できない」

ユージェニーは息をのんで、ゆっくりと身を起こした。アルフレッドは、項垂れていた。

「本当に、申し訳ありません……」

ユージェニーは混乱し、そして思い知った。本当は、彼はこの結婚を望んでいなかったのだと。

脳裏をよぎるのは、以前耳にしたウェストン侯爵家と進んでいた縁談。アルフレッドは義務感でこの結婚を受けたが、本当はウェストン侯爵家の令嬢を愛していたのだろう。だから体が、 別の女(ユージェニー) を拒絶しているのだろう。そうとしか、思えなかった。

その事実が、刃のようにユージェニーに突き刺さった。胸が張り裂けそうなほど痛い。

けれどそれ以上に、アルフレッドの苦しそうな表情を見るのがつらかった。ユージェニーの存在が、好意が、アルフレッドをここまで追い詰め、傷つけてしまったという事実が重くのしかかる。

ユージェニーはしばらく言葉を失っていたが、やがて気持ちを落ち着けるようにして言った。

「アルフレッド様、大丈夫です。どうか、謝らないでください」

ユージェニーの言葉に、アルフレッドは驚いたように顔を上げた。その瞳には、申し訳なさと狼狽えが混ざり合っているように見えた。

「わたくしこそ、アルフレッド様がどれほど無理をなさっていたか、気づいていませんでした。悪いのはわたくしです」

「待ってください、ユージェニー様。そんなことは――」

「これからは、お互いに適切な距離を取って過ごしましょう。明日からは部屋を別に用意してもらいます」

「…………」

「今夜はもう休みましょう。わたくしも、疲れてしまいましたから……」

それは、アルフレッドを思いやった言葉ではなかった。ユージェニーはただ、突きつけられた現実から一刻も早く逃げ出したかっただけだ。

アルフレッドは呆然としていたが、やがて力なく頷いた。

その夜、二人は背を向け合ったまま、広いベッドの両端で夜を明かした。

隣で眠れずにいるアルフレッドの気配を感じながら、ユージェニーは目を閉じた。胸が痛くて、涙が静かにこぼれる。でも、それ以上に、アルフレッドの苦しそうな姿が忘れられなかった。

こうして二人の、白い結婚が始まった。

◇──◇──◇

それからのアルフレッドは、完璧な夫として尽くしてくれた。ユージェニーのために美しい花を贈り、好みを把握して環境を整え、常に彼女の体調を心配した。アルフレッドはどこか痛々しいほどの必死さで、ユージェニーを気遣っていた。

社交の場に出れば、仲睦まじい理想の夫妻と見られてはいたが、夜になれば、ユージェニーはいつも一人きりだった。

アルフレッドは別に用意された寝室に戻ってしまう。寝室は別にしようと提案したのはユージェニーだ。だから彼を責める資格などないと分かっていた。

ユージェニーは自分の恋心を胸の奥底に封印し、彼にとって居心地の良い 家(・) 族(・) であり続けようと決意した。

そう思う一方で、ユージェニーの胸の中には、拭いきれない寂しさと虚しさが募っていった。触れられないこと。求められないこと。隣にいるのに、決して近づけないこと。澱のように溜まった思いが、ユージェニーを苦しめていた。

そんな生活が三カ月ほど続いた。

夫婦の関係は、一歩も進まないままだった。完璧に優しいアルフレッドと、踏み込まないように一歩引いてほほえむユージェニー。

お互いに触れないよう、傷つけないよう、薄氷の上を歩くような毎日だった。

ある日、ユージェニーは、久しぶりに王宮へ里帰りをした。

国王夫妻への挨拶を終えた後、ユージェニーはクラリッサとお茶を楽しむ約束をしていた。クリスティアンも、時間を作って同席するという。

「ユージェ、よく来たわね」

「元気にしていたか?」

クラリッサとクリスティアンの溢れんばかりの愛情に触れ、ユージェニーの張り詰めていたものがふっと切れてしまった。気がつけば、ぽろぽろと涙を流してしまっていた。

「ユージェ、どうした!?」

「どうしたの!? 誰に何をやられたの!?」

慌てる二人。ユージェニーは涙を止めることができなかった。

――もう、無理。

クラリッサが侍女たちを下がらせたのを待って、ユージェニーはついに、誰にも言えずに抱え込んできた秘密を打ち明けることにした。初夜に起きたこと、それ以来、寝室を別にしていること。

ユージェニーの告白を聞いた時、二人の反応はあまりにも対照的だった。

「はあ!? 三カ月も経って、まだ白い結婚ですって?」

クラリッサがテーブルの上にあった拳を強く握っていた。燃えるような赤髪が怒りで逆立っているように見える。

「ユージェを放置するなんて、いい度胸じゃない」

「落ち着け、リッサ」

クリスティアンが呆れたようにクラリッサをなだめ、ユージェニーに向き直ると、痛ましげなまなざしを向けた。

「ユージェ、つらかっただろう。まさか、そんなことになっていたなんて……アルフレッドは、ユージェに冷たくするのか?」

ユージェニーは涙を拭い、小さく首を振った。

「いいえ、アルフレッド様は、信じられないくらい優しくて……責任感の強い方だから。でもきっと、心は、別の 女性(ひと) のところにあるのよ」

クラリッサは苛立ったように大きなため息をついて、腕を組んだ。

「別の女? あの男、ふざけているの? 優しければ何をしてもいいわけじゃないでしょう。ユージェ、それでもアルフレッドと一緒にいたいの?」

ユージェニーはそれに答えることができなかった。

アルフレッドのことは、今でも変わらずに好きだった。彼が隣にいるだけで嬉しい。同時に、苦しくてたまらない。本当は愛されていないのだという思いに、押し潰されそうになる。

「……もう、分からないの」

やっとの思いでそう答えると、クラリッサは即座に言った。

「クリス、アシュクロフト家に使いを出して。ユージェはもう、戻さないわ」

「お姉様……」

「そんな顔をしている妹を、このまま帰せると思う? クリス、今すぐよ」

クラリッサの有無を言わせぬ口調に、クリスティアンはやれやれと息をついて、立ち上がった。それから優しくユージェニーの頭を撫でてくれる。

「ユージェ、今は何も考えず、しばらくゆっくり休むといい」

「お兄様……」

「お前の好きなことをして過ごそう。一緒に気分転換をしよう。な?」

穏やかな兄の声に、ユージェニーは再び涙を滲ませた。張り詰めていた心が、少しだけほどけていく気がした。