軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第857話 聖堂崩し

「しかしサリエル、お前も悪い。男を説得しようというのに、コレではなぁ……女なら、色目の一つも使ってみせろ————」

と、熱い口づけを交わすクロノとサリエルの姿を目撃し、

「ぴぎゃああああああああああああああああああああああっ!!」

ネルは悲鳴を上げてひっくり返った。

ここは相も変わらず軟禁されているネルの自室。父王ミリアルドが溺愛する愛娘に与える部屋となれば、当然一番良い位置が与えられる。それが王城の正面を見渡せる絶好のロケーションであるバルコニーが付いたこの部屋であり、当然のことながら、その窓辺からは正門から続く大通りはよく見渡せた。

すなわち、ネルの部屋からクロノがサリエル抱えて挑発する姿は丸見えだったのだ。

「マリアベル、そして白き神を信じる愚か者共、見るがいい。これが神の力を授かった第七使徒、かつて十字軍を率いた女の末路よ」

「ぴぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」

どんどん過激さを増してゆくクロノの挑発行為。

淫靡にサリエルを抱きしめるその姿は、ネルにとってトラウマを抉るには十分すぎた。

今この瞬間、彼女の脳裏に過ったのは、かつて卑劣な魔女の罠にかかって、クロノから拒絶された時のこと。ガラハド戦争からサリエルを連れ帰って心身ともに憔悴しきったクロノに、フィオナに吹き込まれた嘘を信じて彼に迫った結果、その心を余計に傷付けてしまい……自分は拒絶され、代わりにフィオナはその心の傷を体で癒す役得を得た。

紆余曲折を経て、あの頃のわだかまりは今やすっかり失われているが————その時の気が狂いそうになるほどの絶望と嫉妬は、ネルの脳裏に深く刻まれている。

最近では忘れかけている、と自分でも思っていたはずなのに、いざクロノのあんな姿を見せつけられれば、古傷を抉るようにネルの頭には当時の苦痛が溢れかえった。

途轍もない精神ダメージがネルを襲う。こんな卑劣な策を考え付くのは、リリィかフィオナか、絶対にあの二人のどちらかだと怨嗟の気持ちまで渦巻いて来る。

「んっ……んん……」

そして何より、普段の人形めいた無感情さからは想像できないほどに色っぽい声を漏らしているサリエルが、妬ましくて仕方がない。

どうしてあそこにいるのが、自分ではないのか。

何故、クロノは自分にああしてくれないのか。

「なんで……なんで、私だけぇ……」

なんで私だけ、まだクロノに手を出されていないのか————そんなこと言われても、別に付き合っているワケでもなんでもないので、手を出すはずなどないとしか言いようはないのだが、発狂寸前まで追い詰められた者に正論を振りかざすほど無意味なこともないだろう。

「うっ、ううぅ……欲しいぃ……私も、して欲しいのにぃ……」

深い傷でも負ったかのように苦し気に床を這ったネルは、寝台の脇にあるテーブルへと手を伸ばす。

そこで手にしたのは、一本のスプーン。スパーダ留学当時から愛用していた、思い出のスプーンである。

「くっ、クロノくぅーん……ハムハム……」

落ち着くんだ。

スプーンをくわえて落ち着くんだ。

このスプーンは私とクロノくんだけが口にした思い出のスプーン。

私に勇気を与えてくれる————などと、現実逃避とクロノ成分の補給に努めて、どうにか自我を維持しているところに、

「ネル姫様、どうぞお気を確かに」

ドン引くこともなく優しく慰めの声をかけたのは、献上された妖精奴隷のカレンであった。

「くうぅ……私、悔しいです……それ以上に、自分が不甲斐なくて、ふうううぅ……」

「良いのです、ネル姫様には何も落ち度などございません」

不甲斐ないどころか、人としての尊厳も放り投げたような痴態を披露するネルを前にしても、カレンは微笑みを崩さない。

リリィから事前に、ネルの変態的な執着心について滾々と注意を受けていなければ、危ないところだった。

「でっ、でもぉ……クロノくんが、あんなことぉ……」

確かに、あんな堂々と見せつけてくるクロノなど、いまだかつて見たことがない。

彼の性格からして、絶対にやらないだろうことは百も承知だが、それでも実際に見せつけられると途轍もない衝撃であった。なんだあの夢のようなプレイは。あんなことが許されるのか。

「勿論、あの挑発行為はクロノ陛下の本意ではありません。あくまでも、最も警戒すべき強敵である、第十二使徒マリアベルを城外へ誘い出すための策に過ぎないのです」

「ほ、ほんとぉ……?」

「本当です」

「でもサリエル、感じてますよね?」

「……」

「ぁああああああああ! やっぱりぃ、やっぱり気持ちいいんじゃあないですかぁ、クロノくんにあんな激しく求められてぇ!!」

「使徒を騙すための、高度な演技にございます」

「ううぅ……演技でもいいから、クロノくんに手籠めにされたい人生でした……」

スプーンを握りしめては床を寝転がって支離滅裂なことを言う、姫君にあるまじき無様を晒すネル。それでもカレンは微笑みを絶やさない。

流石はリリィ女王陛下が最も信頼を置く妖精族である。その精神力と対応力は伊達ではない。

「ネル姫様、何故クロノ陛下が、あそこまで意に沿わぬ行いをされておられるのか、お分かりになりませんか」

「そ、それは……使徒という存在が、それだけ強力だから……」

「それもあるでしょう。ですが、それ以上にクロノ陛下は、ネル姫様を救い出すことに全力を注がれておられるのです。それこそ、手段を選ばずに、でございます」

「クロノくんが、私のために……?」

「ええ、ネル姫様、全ては貴女様のために」

カレンの言葉に、ネルの青い瞳に希望と正気の光が灯る。

バサバサっと翼をはためかせて、素早く身を起こしたネルは軽く体を掃って、居住まいを正した。

毅然としたところで、今更もう遅い感はあったが、カレンは決して余計なことは言わない。

「やはり、そうでしたか。クロノくんは、私を救い出すためだけに、アヴァロンへと戦いに来てくれたのですね」

すでにして、王城正面では激しい戦いが始まっている。

クロノの挑発にまんまと誘い出されたマリアベルは、無数の召喚獣を呼び出し瞬く間に大通りに軍勢を展開。

対するクロノも、引き連れてきた配下と共に正面切っての乱戦となっている。

ひとまずサリエルとの度を越えたイチャイチャ劇は終わったようで、一安心であった。

「はい。アヴァロン解放作戦は、最終段階を迎えております。あとは第十二使徒マリアベルさえ倒せば、首都は制圧したも同然です」

「途轍もない魔力を感じます。あのクロノくんが、ここまで用意周到に準備をしてくるのも、分かりますよ」

単純な魔力量だけならば、ディスティニーランドで戦った時のリリィにも勝るだろう。

白き神より無限の白色魔力を授かる、という話も事実だと実感できる。

「使徒は見事に挑発に乗り、王城の外へと誘い出されました。最も不確実な部分が成功しましたので、作戦は非常に順調に進んでいると言ってよいでしょう」

「ええ、クロノくんなら、必ず使徒も倒します」

そうして王城を制圧し、アヴァロン全土の解放も成し遂げる。

ここで大人しく待っているだけで、きっと彼は颯爽と助けに現れるだろう。

それのなんと素敵なことか。多くの乙女が憧れるように、本物の王女であるネルもまた、そのようなシチュエーションを体験したいと思っている。

しかし、それは所詮、個人の欲望でしかない。

自分には、果たさねばならない責務がある。アヴァロンの第一王女ネルとして。

そうしなければ、とても恥ずかしくて、彼に顔を合わせられない。彼の隣に、立つ資格はない。

「ここを出ます」

ついにこの時が来た。囚われのお姫様の立場に甘んじるのは、もう終わりだ。

ネルは着心地の良い部屋着を脱ぎ捨てる。

純白の下着姿で、大きなクローゼットを開く。アヴァロンの姫君に相応しい衣装が幾つもかけられているが、彼女が手に取ったのは、中でも特別な一着。

それは純白の法衣。『ウイングロード』の『 治癒術士(プリースト) 』として装備していた、思い出の一品。そう、思い出深い衣装であるからこそ、ネルの部屋に収納しておくのを許されたのだ。

しかし、これはただ綺麗な思い出の品ではない。ランク5冒険者に相応しい性能を誇る、立派な防具である。

「ん、少し胸元がきつい……いえ、気のせいですね……」

カレンは穏やかな微笑みを浮かべて、着替えるネルの独り言を聞かなかったことにした。

そうして、彼女にとって最も着慣れたともいえる法衣を身に纏い、準備は整う。今にも弾けそうなほど胸元がパツパツになっているが、気のせい、昔からこうだった、しばらく着ていなかったから縮んだ、諸々の理由によって何の問題もない。

翻る純白の法衣と翼は、正にアヴァロンが誇る『 治癒術士(プリースト) 』のお姫様に相応しい姿だ。

「それでは、行きます」

「はい、ネル姫様。どうかご武運を」

「貴方も、良い子で待っていてくださいね」

「ナァーン」

カレンと共にやってきた戦利品のペットである白い羽猫を撫でてから、ネルは真っ直ぐ扉へと向かう。

大きな両開きの扉を、音を立てて堂々と開け放つ。

「————あら、ネル姫様。こんな時間にどちらへお出でに?」

開かれた扉の向こうには、監視役たるヘレンが立っていた。ネルの行動などお見通しだと言わんばかり、いや、実際こうなることを予期していたのだろう。

ヘレンの両脇には、十字教の白いローブを纏った司祭が二人、光り輝く 長杖(スタッフ) を手に立っている。

このまま部屋から一歩でも出れば、即座に『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』は展開されるだろう。

「ヘレン、そこを退きなさい」

「そういうワケには参りません。ネル姫様、今は敵が攻め込んで来た非常時、どうか大人しくお部屋で————」

「怪我をしても、知りませんよ」

ネルの青い瞳が、燃えるような真紅の色へと変わる。

黒髪と赤い目。古の魔王と同じ色と化したネルは、すなわち加護の発動を意味している。

さほど鋭い第六感を持たないヘレンだが、それでも背筋がゾっとするほどの圧を感じ取った。

「結界を!」

言われるまでもなく、『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』は即座に展開される。

この結界を任されるほどの高位の術者だ。ネルが尋常ではない密度の魔力を放ちながら、構える姿を前にして、見逃すことはありえない。

そして、この究極の防御結界『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』さえ張れば、何者もこれを破ることは敵わない。

一切の物を、魔力を、ついでに音さえも通さない、無色透明の結界。ネルが知る限り、『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』は最も強力な防御結界であった。

通常の防御魔法や結界と一線を画す、その凄まじい効果の秘密は、 空間魔法(ディメンション) にある。

あらゆる攻撃が空を切る、その手ごたえからして、それは誰もが気づくことだろう。

本来、 空間魔法(ディメンション) は非常にデリケートなものだ。それらが 付加(エンチャント) された鞄やコンテナなどは、拡張された空間内で攻撃魔法の一発でも放てば、容易く崩壊し、収納されていた物は即座に通常空間へと放り出される。

その不安定さはひとえに、魔力によって本来はありえない空間を形成しているからだ。無理に作り出した空間だからこそ、僅かな綻びで容易く崩れてしまう。

しかし、この世界と同等に安定した強固な空間を形成する魔法がある————『 次元魔法(ワールドディメンション) 』。

その名の通り、世界そのものを作り出す魔法。

この 次元魔法(ワールドディメンション) の使い手は非常に限られる。類まれな魔法の才を持つ者、あるいは強力な加護の力を授かる者。おおよそこの二種類に限定される。

あまりにも頑強な空間を擁する『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』は、本質的には防御魔法ではなく、 次元魔法(ワールドディメンション) なのだろうとネルは推測した。

だが、分かったところで『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』は崩せない。そもそも、 次元魔法(ワールドディメンション) が何れも強力無比な効果を持っている。ただの空間魔法と違い、そう簡単に破壊できるものではない。

ネルの試行錯誤の日々は続いた。

あまりにも上がらない成果に、こんなことをしていていいのか、と焦燥感ばかりが胸に募ってゆく。

選ばれし者だけが習得できる 次元魔法(ワールドディメンション) を前に、自分では届かないのではないかと不安も湧いた。

リリィのように、強力無比な加護の力があれば。

フィオナのように、天才的な魔法の実力があれば。

今更ながらに、恋のライバル達に対する羨望と劣等感さえ抱いた。

それでもネルは諦めなかった。

無駄なことをと嘲笑うヘレンに、一片も焦りや不安を見せることなく、せめて表向きだけは毅然と立ち向かい続けた。

今の自分にできることは何でもやった。何でも試した。そうして半ば意地となって続けていた無為な壁殴りの末に、ネルは一つの答えを得た。

それは、祈り。

「白き聖なる癒し――『天癒皇女アリア』」

加護、発動。

ネルの青い瞳は、すでに真紅へと染まっている。

そして、その手に宿るのは癒しの力。人類史上初の、死者蘇生を成し遂げたという、奇跡の治癒能力。

白く柔らかな、およそ格闘技など嗜んでいるとはとても思えないネルの掌に、アリアの治癒能力が集約され、

「我流奥義————『聖堂崩し』」

それを、放つ。

突き、と呼ぶにはあまりにも遅すぎる。ゆっくりと、優しく、ただ開いた掌でそっと触れる。

忌々しい『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』へ、ネルの右手が吸い付くようにピタリと張り付き、

ビキッ————

虚空にヒビが入る。

いいや、あまりに透明度が高い結界の表面であるが故に、そう見えただけに過ぎない。

時が凍り付いたような、僅かな静寂が支配する。

ヒビの入った向こう側で、信じられないものを見た、とばかりに引きつった表情で固まるヘレンがいた。

そりゃあ信じられないだろう。ネル自身も、未だに信じられないのだから。

ビキキ————ガシャァアアアアアアアアアアアンッ!!

ガラスが砕け散るような、けたたましい破砕音がフロアいっぱいに響き渡った。

キラキラと白く輝く破片が吹雪のように散りながら、道が開ける————『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』は、今ここに破られた。

「馬鹿なっ、ありえない!?」

「な、何故だ、『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』が、破られるなど……」

二人の司祭は、驚愕に目を見開きながら、呆然と言葉を漏らした。

「さぁ、どうしてでしょうね。私にも分かりません」

皮肉でも何でもなく、純然たる事実であった。

何故、『天癒皇女アリア』の治癒能力を発動した手で、『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』を破れるようになったのか。

如何なる力の働きによって、この強力無比な結界を粉微塵に砕けるようになるのか。

原理は不明。だが、結果はすでに明らかだ。

「疾っ————」

白い閃光のように、ネルの手が翻る。すでに、彼女を閉じ込める檻は存在しない。

接近を気づかせないほど素早く、滑らかな踏み込みと共に、左右の手がそれぞれ無防備に立ち尽くすだけの司祭の胸元に吸い込まれる。

ドッと胴を打つ鈍い音が響いた直後————ドゴンッ!! 激しい衝突音が響く。

司祭は二人とも、錐揉み回転しながら吹き飛んでは背後の壁に叩きつけられ、口から盛大に血を吐き出す。それから一拍遅れて、胸元が爆ぜるように血肉が弾けた。

叩き込まれたネルの魔力が炸裂し、胸元の臓器ごと砕け散ったのだ。

「ひっ!」

すぐ目の前、吐息がかかりそうなほどの至近距離で、ヘレンが青ざめた顔で悲鳴を漏らした。

「ヘレン」

「ひ、あぁ……姫様、ど、どうか、命だけは……」

「この裏切り者」

冷たい言葉がヘレンの耳に届くと、糸の切れた人形のようにその場で崩れ落ちる。

そっと撫でるように肩へ触れたネルの手は、まるで研ぎ澄まされた大剣を突き付けられたも同然の威圧感。

次の瞬間には、司祭と同じように自分の体が突如として弾け飛ぶのではないかと気が気ではなかった。

「ですが、殺しはしません。これでも貴女は一応、幼馴染ですから」

ネルが浮かべる微笑みに、生来の温かさと柔らかさは欠片も宿っていない。ただ微笑みの仮面を被っただけの表情は、言葉通りに幼馴染としての情によって生かされているワケではないと悟るには十分過ぎた。

「さぁ、立って」

「な、なにを……」

「私について来てください」

ヘレンと一緒に歩けば、不審に思われない。彼女がネルの監視役であり世話役であることは今の王城において周知の事実。共を連れず二人だけで並んで歩いたとしても、それだけでおかしいとは思われない程度には、ヘレンの顔と名前は売れている。

もっとも、それもこの凶行がバレるほんの僅かな間だけだが。

しかし今は、その僅かな時間だけで十分だった。

「まずは、侍女が出てこないよう一声かけてください」

ヘレンが司祭を引き連れ、直々に部屋の前に陣取っていたお陰で、普段はすぐ傍で待機させている侍女は隣の部屋へと下がらせていた。しかし、派手に司祭を殺したせいで物音が立ってしまっている。

このタイミングで何事か、と顔を出して悲鳴を上げられれば面倒なことになってしまう。

「うっ……」

このまま黙りこくって、固まった動けないフリを続けて少しでも時間を稼げば、侍女か衛兵が異常に気づくかもしれない————そんな浅はかな考えなど、テレパシーがなくともネルには筒抜けであった。

「できないのですか、ヘレン?」

肩に置かれていたネルの手が、なぞる様に首筋へ移動し、指先がうなじに添えられた。

繊細なネルの指先が触れる感触が、僅かにくすぐったい。

ただ、それだけ。痛みもなければ、脅し文句の一つもない。

だがしかし、ヘレンには十分に伝わった。すぐに言う通りにしなければ、このまま首が落ちる。

それが果たして、古流柔術の力によって首の骨を爆砕させられるのか、それともブチリと丸ごと頭をむしり取られるのか。どんな方法であれ、首から鮮血のシャワーを拭きながら、自らの首がポロりと転がり落ちる姿を、ヘレンはこの瞬間に幻視した。

「わ、私はネル姫様と大事なお話があります! 貴女達はそこから出ずに、部屋にも近づかないでくださいな!」

震えを必死に抑えて、努めていつもの通りにヘレンは声を張り上げた。

扉の向こう側からは、すぐに「かしこまりました、ヘレン様」と返って来る。

「では、参りましょう」

「ど、どこへ行くというのですか」

「宝物庫へ」

教えずとも、場所は当然知っている。

宝物庫は玉座の間に次いで、王城の象徴とも言える場所だ。見るからに厳重に守られた巨大な扉を備えた宝物庫が、この伝統ある造りのアヴァロン王城には存在している。

要するに、王の財宝をアピールするための場所である。無論、王城には隠し財産を置く秘密の保管庫もあるが、『宝物庫』と言えば表向きに知られている部屋を指す。

ヘレンは質問を挟む余地もないほどよく知った場所を指示されたことで、黙って歩き出すより他はない。

すでに首からネルの手は離れ、普段と違和感がないよう一歩離れてついてくるが、そこはいまだ間合いの内。僅かでも走って逃げる素振りでも見せれば、恐るべき古流柔術の力を秘めた掌が、ヘレンの華奢な肉体を一撃で粉砕するだろう。

まだ背中に刃を突き付けられた気持ちで一歩を踏み出したヘレンだが、

「そんなに顔をこわばらせていては、不審に思われるでしょう? もっと優雅に微笑んで。仮にも、貴女は侯爵令嬢なのですから」

「は、はひ……」

耳元で囁かれ、背筋が凍り付きながらも、ヘレンは必死に表情を取り繕った。

ぎこちない微笑みを張りつけ、二人は悠々と歩き出す。

幸いと言うべきか、今まさにクロノ達によって攻められているせいで王城の中は非常に慌ただしい。ネルを連れて歩いているヘレンの顔が普段よりも強張っていることになど、誰も気づきはしない。

そうして、誰に呼び止められることもなく、目的の場所へと到着する。

「お待ちくだされ」

「宝物庫への入室は、ネロ聖王陛下より固く禁じられております」

宝物庫には二人の警護が立っている。

そこらの衛兵とは一線を画す重装甲の全身鎧に身を包んだ、巨漢の二人である。正に宝物庫を守る門番に相応しい出で立ちであり、その腕前も誇っている。

彼らはやって来たネルに対して、己の職務に忠実に答えた。

「どうか、お願いいたします。この中に、私の大切な思い出の品があるのです。外の戦いは、今もまだ続いているのでしょう? 私、不安で……それがあれば、少しは心が落ち着くかと思って」

「なんとお労しい。ネル姫様の心中、お察しいたします」

「しなしながら、我らも陛下より固く命じられておりますれば」

ネルの言葉に同情はしているようだが、それだけで命令を破るような愚を冒すつもりはないようだった。

口先だけで誤魔化せないのであれば、致し方ない。

「そう、ですか……」

悲し気に俯きながら、ネルは一歩を踏み込み、門番との距離を詰める。

そっと両手を差し出し、撫でる様に分厚い白銀の胸当てに触れた。

「ネル姫様……?」

一介の門番に王女自ら触れて来るとは、まさか色仕掛けするでもあるまいに、と怪訝そうな声を漏らす。が、軟禁中の身とはいえ王族に対し、無下に振り払うことなどできない。彼にはそれ以上の反応はできず、直立不動のまま頭一つ分以上は低いネルを見下ろすのみで、

「では、力ずくでも退いてもらいます」

その台詞が耳に届くよりも前に、門番の視界がブレ、脳が揺れ、自分の身に何が起こったのか認識することさえなく、意識が寸断した。

「『一式改・重ね徹し』」

ゼロ距離。全く無防備に触れられたネルの両手は、分厚い白銀の装甲をものともせずに門番の肉体へ、錬気によって圧縮した魔力を怒涛のように叩き込んだ。

メキメキと音を立てて弾け飛ぶ胸当て。さらに鍛え上げられた騎士の厚い胸板も血飛沫を上げて引き裂かれていく。頭に被ったフルフェイスの中は、自ら吐き出した血に塗れているだろう。

そうして、己が守るべき宝物庫の門扉へ背中から叩きつけられ、門番は沈黙した。

「なっ!?」

王城の衛兵でも選び抜かれたエリートである宝物庫の門番でも、あまりの驚愕に一瞬、動き出すのが遅れた。

まさかあの心優しいネル姫様が、という驚きと、相棒がたった一撃で、という衝撃。どちらも信じがたい光景である。

門番はアークライト公爵同様、隠れ十字教だった者達だが、それなりの年月を騎士として勤めてきた経歴は本物だ。故に、ネルの幼い頃から、美しく淑やかな少女へと成長してきた過程を間近で見守って来た。

だからこそ、見誤った。

ネルは最早、ただの心優しい理想のお姫様などではない。しかし、アヴァロンでそれを理解している者はいなかった。彼らも、そしてネロもまた同様である。

その無理解が、この一撃を許した。

「ぬぅ、姫様っ、御免!!」

驚愕と躊躇を振り切り、即座にネルに対して動き出せたのは流石、エリートの面目躍如である。

それも、繰り出すのは手にしたハルバードではなく、大盾によるシールドバッシュ。直撃すれば全身を強烈に叩きつけ、命だけは奪わず昏倒させることが可能であろう。

もっとも、当たればの話だが。

すでにネルは、轟々と迫りくる大盾の内側へとその身を滑り込ませている。

一人目を倒した直後から、すり足によって二人目の方へと間合いを詰め始めていた。それは僅かな距離でありながらも、体を揺らすことなく滑らかに動くことで、相手から移動を悟らせずに距離を詰め、間合いを誤認させる純粋なテクニックでもある。

それによってシールドバッシュを容易く回避できる位置取りへと潜り込む。門番は真正面に捉えていたはずのネルが、気づけば密着するような超至近距離にまで詰められていることに驚く。

「————『二式・穿ち』」

ネルが放つのは、槍の穂先のように鋭い貫手。

シールドバッシュを放って伸び切った左腕。その付け根である左脇目掛けて貫手が突き刺さる。

「ぐがっ!?」

関節部である脇の下に装甲はない。各種耐性と伸縮性のある厚い布地と、その下に着込んでいる騎士用のインナーがあるのみ。多少の攻撃は防げるが、ネルの武技を前にしては大した守りにはならなかった。

脇の下へと痛烈に突き刺さった指先から、研ぎ澄まされた魔力が解放される。

それは肩の関節を粉々に砕き、さらに爆ぜる強烈な余波によって、内側から肩のアーマーが弾け飛んだ。

体内を突き進むネルの魔力は胸元の臓器まで及び、心臓を打ち付け拍動を乱し、肺を叩きつけ呼吸を止めた。

「『一ノ型・流し』」

そうして完全に動きが硬直しきった隙だらけの門番へ、ネルは悠々とその腕をとり、最も慣れた投げ技をかけてトドメを刺す。

全身鎧を纏った巨躯が冗談のようにひっくり返り、脳天から真っ逆さまに叩きつけた。

途轍もない轟音と共に、兜を床に半ばまでめり込ませた門番が、ピクリとも動かずに倒れる。

ネルは倒れた門番を一瞥すらせずに、真っ直ぐに閉ざされた宝物庫の扉を見上げた。

「開けて」

その一言で、扉はゆっくりと開かれて行った。

鍵は必要ない。正真正銘、本物の王族であるこの身一つで、宝物庫の開閉には事足りる。

もう何十代も前になるアヴァロン国王が、見栄えとカッコよさのためだけに、巨費を投じて一族のみを認証させる高度な魔法術式による開閉機能を備えさせたためだ。割と愚王の呼び声が高い国王だったが、便利だしカッコいいと、密かに後の王族達には好評な機能である。

そうして、本物の王女であるネルを止めるものは何もなくなり、宝物庫へと彼女は足を踏み入れた。

「良かった、やっぱりここにありました」

大量の財宝を見せつけるように整然と収められた広大な宝物庫だが、ネルはさほど迷うことなく目的のものを発見した。

非常に目立つ位置、ここを訪れた者に誇らしげに示すように、それは飾られている。

アヴァロン国宝、『白翼の天秤』。

ネルがスパーダ留学の際に、 治癒術士(プリースト) として彼女に与えられた最高の治癒魔法専用の 長杖(スタッフ) である。

ガラハド戦争を理由にアヴァロンに戻された後も、そのまま所持していたが、ネロが聖王となって王城に軟禁をする際に、取り上げられたものだった。

狂ったとて、ネロは共に冒険者としてネルと戦ってきた経験がある。本気でネルが反抗すれば大きな脅威になると思っての武装解除であった。

「宝玉も、全て揃っていますね」

杖に装填することで、さらに高度な治癒魔法を扱う専用の宝玉も、綺麗に並べて展示されている。与えられた宝玉の数は限られていたが、今は彼女の行動を止めるものはいない。これ幸いと、全てを自前の 空間魔法(ディメンション) へと放り込んでいく。

「あっ、これは……」

最後の宝玉に手をとると、思わずじっと見つめてしまう。

それだけは、透き通った白いクリスタルのような色合いではなく、ブラックオパールのような黒い輝きを放っている。

これはガラハド戦争の際に、出征するクロノから手渡された思い出のプレゼントだ。

軟禁された時にはネルの持つ 空間魔法(ディメンション) 内は総ざらいされて軒並み没収されており、この黒い宝玉もまた奪われていた。

てっきり破壊されて処分されたと思っていたが、どういうワケか『白翼の天秤』用の宝玉として並べられている。クロノがこれを渡した時には、鑑定しても効果が分からなかった、と言っていたが……もしかすれば、没収後に再鑑定し、何かしらの効果が判明したのかもしれない。

「ふふっ、やはり私の下へ戻って来る運命だったのですね」

どんな理由であれ、涙と怒りを飲んで手放すより他はなかった大切な品が、再び手元へと戻って来たのだ。運命を感じざるを得ない偶然に、ネルは艶やかに微笑む。

うっとりしたように一撫でしてから、大切な黒い宝玉も空間魔法へと仕舞いこんだ。

「後は、これさえあれば————」

杖と宝玉を全て回収した後、手に入れるのは己の主武装。『 治癒術士(プリースト) 』ではなく、『戦巫女』としての武器。

幸いというべきか、ソレはちょうど『白翼の天秤』と対になるかのように、通路を挟んだ対面に飾られていた。

アヴァロン国宝、『天空龍掌「蒼天」「紅夜」』。

かつてアヴァロンを襲った災厄の白竜を元に作り出された籠手である。純白に輝く白竜鱗の装甲に、竜のオッドアイである赤と青の瞳が結晶化して嵌め込まれている。

右手の『紅夜』には『 反射(リフレクト) 』、左手の『蒼天』には『 吸収(ドレイン) 』が、それぞれ異なる力は、ネルの古流柔術と最高の相性を誇っている。

癒しの象徴たるプリーストの法衣に、攻撃的な白竜の籠手を装着したネルの姿は、ミスマッチでありながら、どこか完成された風格が漂う。

「————今こそ、アヴァロンを取り戻す時」

武装が完了し、覚悟を決めてネルは宝物庫を出る。

まずは、王城を守る最大の壁となる『 聖堂結界(サンクチュアリ) 』を発動させる結界機と術者を潰す。

その次はアズラエル侯爵が指揮する司令部を壊滅させる。

この二つが達成できれば、王城は陥落したも同然だ。守備兵が丸ごと残っていようとも、頼れる結界と命令を出す頭が潰れてしまえば、どうにもならない。

そしてクロノ率いる反乱軍が、そんな烏合の衆を相手に遅れを取ることなどありえない。

自分の働きこそが王城を、アヴァロンを取り戻す要だと強く覚悟し、ネルは一歩を踏み出した、その時である。

「何、これは……雪?」

大きな廊下の窓からは、すでに夜の帳が降りてきた暗い空が覗く。そこに、チラチラと舞い落ちる白い雪のような————否、それは季節外れの雪などではない。

「羽根……白い羽根が、降って来ている」

白く淡い輝きを放つ羽根が降る。真冬に舞う雪のように、何枚も、数えきれないほどの羽根が首都アヴァロンへと舞い散って行く。

「一体、何が」

まさか白鳥が巨大な群をなして上空を飛んでいるわけでもないだろう。大量の羽根が降り注ぐなど、アヴァロンでも、どこであろうと見たことがない。

明らかな異常に、ネルは窓を開け放ち、身を乗り出すように空を見上げた。

「なっ、あ、アレは……」

そして、ネルは言葉を失った。

アヴァロン王城の直上。今、自分がいるその真上に、街中に羽根を降らしている原因が浮かんでいた。

闇夜を切り裂くように光り輝く真っ白い光。その内から出でるのは————天使。

巨大な天使が、アヴァロンに降臨していた。