軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

1.ダミアンの元妻

部屋には張り詰めた静寂が満ちていた。紅茶の香りが漂う中、暖炉の火がぱちりと音を立てる。

ソファーに腰を下ろしたマリエッタは、両手をぎゅっと重ねて膝の上に置き、落ち着かない様子で視線を泳がせている。

対するロザリア様は、何一つ動揺を見せることはない。紅茶を口に運び、静かにカップをソーサーに戻した。

「──それで?」

ロザリア様は鋭い視線を投げた。

「ダミアン様の元妻の方が、私に一体何の用でしょうか」

「……警告をしに、来ました」

「警告?」

ロザリア様はわずかに眉をひそめ、ティーカップをテーブルに戻す。

そして次の瞬間、ロザリア様はぎろりとマリエッタを睨みつけた。

当然だ。マリエッタ・ヴィロスは伯爵令嬢にすぎない。対してロザリア様は、王国における五大公爵家の一つ──身分差は歴然だ。「警告」などという不遜な言葉は、侮辱にも等しい。

ロザリア様の視線を受け、マリエッタは一瞬びくりと体を震わせた。しかし彼女は深く息を吸い込み、視線を逸らさずに見返した。

マリエッタは瞳に決意を宿しながら、唇を開いた。

「ダミアンにはくれぐれもお気をつけください。それを伝えに来たんです」

「……」

予想外の言葉だったのか、ロザリア様の片眉が一瞬だけ上がる。

だがすぐに表情を引き締め、マリエッタに淡々と告げた。

「サンベルク家と取引をする際、こちらでも詳しく調査を行いました。離婚の原因は、貴方の度重なる不貞によるものと伺っていますが」

「わ……私は一度しか、他の男性と関係を持っていません!」

(いや、一度はあるんかい!)

思わず心の中でツッコんでしまう。ロザリア様も呆れ顔だ。

軽くため息をついたあと、冷静に問い返した。

「では、なぜ『多くの男性と関係を持っていた』という噂が?」

「分からないんです……! 気づいたときには『毎晩違う男を連れ歩いている』とか『ふしだらな女』とか酷い噂が流れていて……」

「ダミアン様は、ご存じではなかったのですか?」

「もちろん聞きました! だけど『知らない』の一点張りで……!」

マリエッタは叫ぶように言葉を放った。

抑え込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出し、膝の上で握り締めた拳が震えている。

「ダミアンとの結婚は、最初こそ本当に幸せでした。彼は優しくて、欲しいものは何でも与えてくれて……理想の夫でした。だけど一緒に過ごすうちに、気づいたんです。彼には……」

マリエッタの言葉がそこで途切れ、しばしの沈黙のあと、ぽつりと言った。

「──人の心がない」

マリエッタの拳は、血の気を失うほど強く握り締められていた。彼女の小さな嗚咽が、静まりかえった部屋にかすかに響く。

ロザリア様は眉をわずかに寄せ、複雑な表情を浮かべた。困惑と警戒、その両方が混じったような色をしている。口を開き、沈黙を静かに破る。

「なぜ、その話を私に──」

尋ねようとした瞬間、ロザリア様の言葉が止まった。

マリエッタが何事かと顔をあげる。ロザリア様の視線が頬に注がれていることに気づき、彼女は指先で軽く触れた。そして、ぱっと華やかな笑みを咲かせた。

「気づかれましたか? 『ルストレア』のパウダーをつけているんです!」

「……えぇ」

「このパウダー、本当に綺麗で……つけた瞬間、まるで自分まで輝いたような気がしたんです。ずっとロザリア様にお礼を言いたくて……」

マリエッタは頬を紅潮させ、身振り手振りを交えてパウダーの魅力を語り出した。仕上がりの繊細さや香りの素晴らしさを嬉々として並べ立てる姿は、つい先ほどまで涙を流していた人間とは思えない。その落差にどこか薄ら寒いものさえ感じてしまう。

ロザリア様も同じように感じているのか、「ルストレア」のことをいくら褒められても、複雑な表情を浮かべたままだ。

すると不意に、マリエッタを纏っていた熱がすっと消えた。彼女は言葉を切り、声を潜める。

「この間、大好きな『ルストレア』にダミアンを関わっていると聞いてしまって。じっとしていられず、ここへ来てしまったんです」

「……そうですか」

ロザリア様はそれ以上何も言わなかった。

一方でマリエッタは、まるで胸につかえていたものを吐き出し終えたかのように、すっきりとした表情を浮かべる。ぬるくなった紅茶を一息に飲み干し、立ち上がった。

ロザリア様も立ち上がろうとしたところ、マリエッタは片手で制した。にっこりと微笑みながら言う。

「お忙しいでしょうから、見送りは結構ですわ」

そう言ったマリエッタは軽く頭を下げ、部屋を出て行った。

彼女の足音が遠ざかり、部屋には再び静寂が戻った。ロザリア様はしばらくそのまま動かず、疲れたようにまぶたを伏せる。

しばらく声をかけない方が良いと判断し、私は空になったカップに紅茶を注ぎ直した。

私が紅茶を注ぎ終えた瞬間、ロザリア様は独り言のように言った。

「……彼女の話、どこまで本当なのかしら」

「!? あの話を信じられるのですか……?」

思わず声が上ずってしまう。

一年以上ダミアンと関わってきたが、いつでも優しく誠実な人だった。そんな人物が、マリエッタの言うようなことをするはずがない。

ロザリア様も、誰よりそれを理解していると思っていたのに。

「ソレイユが言いたいことは分かるわ」

ロザリア様は紅茶のカップの縁を指先でなぞりながら言う。

「でも彼女が嘘をつけるとは思えないのよ」

マリエッタが出て行った扉をちらりと見ながら、ぽつりと呟く。

確かに、「一度しか、他の男性と関係を持っていません!」と声を荒げたときの様子や、唐突に涙ぐむ姿を見る限り、嘘をつき慣れているようには見えなかった。

感情をそのまま顔や言葉に出してしまう、あまりにも正直すぎる人という印象だった。ロザリア様は小さく息を吐く。

「彼女の悪い噂を流したのは誰だったのかしら……」

ロザリア様の呟きが、部屋の空気に溶けた。

マリエッタとの邂逅を終えてから、数日が経った。

ロザリア様はいつもと変わらぬ朝を迎え、書類に目を通し、紅茶を口にしていた。ふと思い出したように呟く。

「そういえば、あと二週間でアストレイヤの会ね」

「もうそんな季節なんですね」

懐かしむように答える。

学園最大級のパーティの一つである「アストレイヤの会」。

今年はメントリア公爵家が主催を務めることになっていると聞き、胸の奥がざわめいた。

アランの婚約破棄やルジェの事件など、あの派閥には散々苦労してきた。今回も何かあるかもしれないと不安を抱いていた。

しかしアストレイヤの会は、学園の伯爵家以上の貴族が全員参加することになっている。こちらが静かにしていれば下手なことは起こさないだろう、というのがロザリア様の見立てだった。

(メントリア家の令嬢か。ほとんど情報がないのよね……)

メントリア家長女である、ルチア・メントリア。

原作の中でも彼女が本格的に登場するのは物語の後半で、裏で何かを企んでいるような描写はあったものの、核心には決して触れられなかった。

せめてどんな性格で、どんな目的を持っているのか分かれば、ロザリア様を危機から守れたかもしれないのに……。歯がゆさが胸に重くのしかかる。

私が思考を巡らせていると、ロザリア様は言った。

「それで、今年のエスコートもソレイユに任せたいの。貴方の弟、ヴェル・フランとしてね」

「……承知しました」

その一言に、胃の奥がずしりと重く沈む。

貴族たちの鋭い視線の中でも失敗できない恐怖、やたら熱っぽい視線を向けてきたミラリス伯爵令嬢、そんなものが脳裏に浮かぶ。

(だがこれも推しのため……!)

安い犠牲だと自分に言い聞かせる。

さらに、去年のアストレイヤの会でロザリア様をエスコートして以来、私は数々の社交の場で彼女の隣に立ってきた。立ち振る舞いも受け答えも、少しずつ板についてきた。あの頃のように足がすくむことも、言葉を詰まらせることもない。

だから今回も大丈夫、ロザリア様の顔に泥を塗るようなことはしない。

そう思っていたのだが、

「今年はダンスがあるそうなの」

「へ?」

頭が真っ白になり、間の抜けた声が漏れた。大変嫌な予感がする。