作品タイトル不明
心の傷
「五年経っても忘れていないでしょ? あの青い瞳を……」
「!!」
美琴の、思いがけない言葉がジゼルの胸を衝く。
美琴は窓を開け、時の彼方を見つめるような深い眼差しで庭の木蓮を見上げた。
ジュベール公爵家の特徴を知っているかのように話す美琴は特別な能力がある。知っていてもおかしくはない。
サァーと風が室内に入り込む。少しひんやりするその風は花の香りがした。
(感情を映し出す、青い、瞳……)
ジゼルは、木蓮が咲いていたあの丘を思い出し唇を噛む。
(美琴様の言う通り……五年間一日も忘れたことはない、けれど……)
ジゼルは息を吸い込み繰り返し言い続けた言葉を口に出す。
「……忘れられるよう、努力したいと思います」
ジゼルは一礼し、部屋から出ていった。
薄暗い廊下を歩く。ひたひたと自分の足音だけが聞こえ、あの夢を思い出した。
この世界に来た時からずっと見ている夢。真っ暗な世界の中で何かを探す夢。
それが海の底だと気がついたのはつい最近だ。霧のような実態のない暗闇が最近一層色濃くなった。兎に角、その暗闇が暗黒に変わる前に行かなければならない、と心が焦る。
ただ、どこに向かっているのか、そこに何があるのかわからない。
毎晩見る溺れるように苦しい夢。ただ、心は常にその場所に向かっている。
『忘れていないでしょ? あの青い瞳を』
美琴の声が耳の奥でこだましている。
この五年、思い出さないようにしてきた。けれど忘れることは一度もなかった。
それでも目を背けたかった。苦しくて悲しくて逃げ出したかったあの日のこと。
『ジゼル!! 私の言葉を聞いてくれ!!』
名前を呼ぶ声、思い出すだけで心が木っ端微塵に砕けそうになる。
(なぜ、どうして?)
疑問が浮かび上がる。
(あの時、なぜ、あんなに悲しそうに涙を流したの? どうして手を掴もうとしたの?シャルロット様を選んでおきながら、なぜ行くなと言ったの?)
涙が、頬を伝わり床に落ちる。
この五年、思い出さないようにしてきたあの日のことを、毎日思い出し涙を流す。
「情けないジゼル。フフフ、思い出してはダメよ。いい加減……前を、向かなきゃ」
ジゼルは弱い自分を笑い涙を拭った。
*
「ジゼル、今晩嵐が来るわ。もういいから部屋に戻りなさい」
風呂から上がった美琴は寝巻きに着替え、ベットを整えるジゼルに言った。
「嵐? ですか? ニュースではそんな予報なかったと思いますが……」
「ふふ、ジゼル、すっかりこの世界の人間になったのね」
美琴は赤い瞳を細め言った。顔は笑っているが、その瞳は笑っていない。
「……申し訳ございません」
ジゼルは美琴の言いたいことに気がつき恥ずかしさに俯いた。
あの世界にいる頃は自然を見つめその小さな変化を感じていた。けれど今はあんなに好きだった草木の手入れは一切していない。小さな命と向き合うことも忘れていた。
「ジゼル、目に見えることを信じるのは簡単、けれど見えないことを見ようとしないなど、あまりにも自分勝手じゃないかしら? 真実は、そこにあるのに」
「美琴様、それは……」
「ジゼル、あなたはここに来て五年、明日6年目になる。今宵の嵐を逃したら二度と会えないわよ」
「!?」
(二度と会えない!?)
ジゼルは顔をあげ美琴を見た。美琴はジゼルの心を見抜くような視線を向けている。ただ、その瞳は何らかの感情を含んでいるように見えた。
「二度と……会え……ない……?」
ジゼルは呟く。
言葉にした瞬間、胸の奥が軋む。
美しく高貴な大魔法使い。
言葉こそ少なかったが、優しい眼差しを向け、常に気遣ってくれていた姿を思い出す。
何か言いたげな眼差し、握ってくれた手の温もり、優しく抱き寄せてくれた腕、優しいキス……
「ジゼル、心の赴くままに」
美琴はジゼルの顔を両手で包み、自分の額をジゼルの額に当てた。その時、ジゼルに何かが流れ込む。
「ジゼル、覚えておいて。見えないものこそ、真実よ」
*
部屋に戻ったジゼルはベッドに横になりあの日のことを思い出した。苦しくて悲しくて叫びたくなるほどの絶望がジゼルを襲う。
(やっぱり思い出したくない! 忘れたい! 悲しい思いは、二度としたくない!!)
両手で頭を抑える。忘れたい、思い出したくないと思うほどその声、その姿を鮮明に思い出す。
ロラン・ジュベール
シャルロットを愛する大魔法使い、見窄らしいジゼルと結婚しなければならなかった可哀想な人。
『でも、本当に、彼はシャルロットを愛していたの?』
!?
頭の中で誰かの声がした。ジゼルはガバッと起き上がり周囲を見回す。が、誰もいない。ただ、その言葉に胸がざわつき、息が止まりそうになる。考えたことのなかったその言葉に指先が震え出した。
(ロラン・ジュベールはシャルロット・ブランシャール王女を愛していなかった?)
そんなはずはない。ジゼルは頭を左右に振る。結婚した当初、ロランから言われた言葉を思い出す。
『あなたを愛することはない』
その言葉は今でもジゼルの心臓を貫く。愛されたと信じた自分が滑稽に思え、涙が滲み出る。悲しさに両手を握り、改めて心に言い聞かせる。
ロラン・ジュベールは、ジゼル・メルシエを愛することはない、と。
『そんな過ぎた言葉を未だに信じているの? 本当に、あなたは愛されていないと思っていた?』
再び誰かの声が聞こえる。
「止めて!!! 考えたくない!! 忘れたい!! 愛されなかったことを! 信じたのに、手を、手を離されたこと……思い出したくない!!」
頭の中の声に反論するようにジゼルは声を張り上げた。ポタポタと流れる涙が布団を濡らす。
五年経っても色褪せない心の傷に、ジゼルは声を上げ泣き出した。