軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話「王宮の回廊」

あの食堂に、あの人の笑みが一つ増えた。

エルデシア王宮。東翼の執務室。

レナートは机に向かっていた。羊皮紙の束が積まれている。通商条件の改定案。使節団の日程調整。港湾税の減免に関する回答草案。

羽ペンを走らせる。文面を整え、封蝋を押す。一通。二通。三通。

手は止まらない。王都に戻ってからの日々と同じように、滞りなく処理している。外交担当の王子として、歯車として。

四通目の封蝋を押した手が、止まった。

あの笑みが浮かんだ。

国王の直筆書簡を読んだシルヴィアが、顔を上げて言った。「陛下はお茶を飲みにいらっしゃらないんですね」。唇の端がわずかに上がって、声にかすかな笑みが混じっていた。

あの食堂で、あの人が笑った。

涙の後の、軽い笑い。初めて見た表情だった。帳簿をつけるときの静かな顔でも、客を迎えるときの穏やかな声でもなく、ほどけた空気の中で生まれた笑み。

口元が緩んだ。

自分でも気づかないうちに。書簡の山の前で、宮廷の執務室の中で、あの食堂の笑みを思い出して——笑っていた。

宮廷で初めてだった。シルヴィアの笑みを思い出して、こんなふうに口元が動いたのは。

ペンを取り直した。五通目に取りかかる。

集中しろ。ここは執務室だ。

昼過ぎ。

扉が控えめに叩かれた。

「失礼します」

マルコだった。近衛の正式な装い。剣帯を締め、背筋を伸ばしている。

扉を閉め、執務室に入った。二人きり。

マルコの口調が切り替わった。

「ヴァイスベルク侯爵家への正式同意書の依頼、昨日発送しました。外交使節便で片道三日。侯爵の検討に一週間として、返送を含め二週間ほどで届くかと」

レナートは頷いた。

父の返書——「承知の上で送り出した」と表明した侯爵の態度は、既に確認されている。正式同意書はその延長線上の手続きだった。侯爵が拒否する理由はない。

「宮廷評議への報告資料は、現在作成中です」

マルコが机の脇に立ったまま、声を落とした。

「報告資料には、シルヴィア殿の経歴を記載する必要があります。元侯爵令嬢が身分を伏せて宿を営んでいるという事実を、宮廷の貴族に開示することになります」

レナートのペンが止まった。

開示。

シルヴィアの身元を、宮廷の全員に知らせる。侯爵家の令嬢が他国で宿屋を営んでいるという事実を。

「宮廷の反応は二分されるでしょう」

マルコの声は淡々としていた。事実を述べている声だった。

「好奇心を持つ者と、批判する者と。侯爵家の出自であれば身分上の問題はありませんが、『宿を営む王子妃は品位を損なう』と言う貴族は出ます」

沈黙が落ちた。

レナートは壁を見た。

東翼の執務室には肖像画はない。だが廊下を出て左に曲がれば、父の私室がある。あの部屋の壁に、母の肖像画がかかっている。

穏やかな目をした女性。側妃の立場で宮廷に入り、軋轢に苦しみ、最後まで自分の足で立とうとして——立てなかった。

母のようにはさせない。

だがその直後に、別の声が浮かんだ。

「この宿を手放しません」。

あの食堂で、シルヴィアが言った。涙を流した後で、声を定めて言い切った。

あの人は、母とは違う。自分の場所を持っている。自分の手で作った場所を、手放さないと宣言した人だ。

「報告資料に、ありのままを書け」

声は低かった。

「隠蔽も美化もいらない。あの人は、ありのままで十分だ」

マルコは一拍、黙った。

「承知しました」

間があった。

「宮廷評議の日程ですが、二週間後に設定できます。ヴァイスベルク侯爵からの正式同意書と、ちょうど合います」

「頼む」

レナートは書簡の山に目を戻した。だがペンを取る前に、もう一つ。

「シルヴィアへの招待状も手配してくれ。領主経由で届ける形で」

マルコの背筋がわずかに動いた。

「馬車と護衛の手配も進めます」

「ああ」

マルコは一礼し、扉に向かった。

扉が閉まった。

執務室に一人。

レナートは書簡の山に手を伸ばした。六通目の羊皮紙を引き寄せる。

ペンを取った。

だが右手が、無意識に指を折っていた。

親指が人差し指の腹に触れ、中指が薬指の側面を押さえている。あの食堂で、テーブルの上で、シルヴィアの指の間に自分の指を滑り込ませたときの形だった。

握り返されたときの力。強くはなかった。だが確かだった。離さないという意思の、静かな力。

指が覚えている。

あの温度を、この手が覚えている。

指を開いた。ペンを握り直した。

六通目の書簡に取りかかった。

あの人を宮廷に呼ぶ。あの食堂から、ここに。

母がここで壊れた。

だがあの人には——帰る場所がある。

俺がそれを奪わなければ、あの人はここでも自分の足で立てる。

ペンが羊皮紙の上を走った。

レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。夜。

屋敷は静かだった。

廊下を歩く足音がない。台所から聞こえていた鍋の音もない。先週、住み込みの下働きの娘が荷物をまとめて出ていった。挨拶はなかった。朝、裏口から消えていた。

残った使用人は、片手で数えるほどだった。

グレンは書斎の窓の前に立っていた。

窓の外は暗い。庭の植え込みが手入れされなくなって久しい。枝が伸び放題になり、夜風に揺れるたびに窓に影を落としている。

かつてはこの庭で茶会を開いた。招待状の手配も、席順も、庭師への指示も、全てシルヴィアが整えていた。

今は枝を切る人間もいない。

書斎に戻り、机の前に座った。

ランプの灯りが一つ。机の上には何もなかった。

引き出しの中に、帳簿がある。

開かなくなっていた。「見なかったんだ」と声に出したあの日から、手が止まっていた。

見なかったものに名前をつけた。それで、同じ頁を繰り返し見る行為の意味が消えた。

回復ではなかった。

何かをすべきだという感覚が、以前はあった。帳簿を開き、頁をめくり、あの筆跡を目で追うことで、何かに近づいている気がしていた。

今はそれもない。

書斎の空気は冷たかった。暖炉に火を入れる使用人が減ってから、屋敷の中が冷える日が増えた。以前は気にしたこともなかった。誰かが火を入れ、誰かが灯りをつけ、誰かが食事を運んできた。その全部が、いつの間にかなくなりつつある。

グレンは窓の外を見ていた。

暗い庭。伸びた枝。灯りの消えた台所。人のいない廊下。

空白だった。

怒りでも、焦りでも、後悔でもなかった。

それらが消えたのではなく、感じ取る力のほうが鈍っていた。

エルデシア王宮。東翼の執務室。夕刻。

マルコがレナートの執務室に入った。

「招待状はクレーネ領主経由で発送しました。到着は五日後の見込みです」

レナートの手が止まった。

五日後。

シルヴィアの手元に、あの封蝋が届く。

「馬車はクレーネの領主館に手配済みです。護衛は自分を含め三名」

レナートは頷いた。

マルコは一礼して扉に向かった。

執務室に一人。

レナートは窓の外を見た。東に伸びる街道。日が傾き、空が赤く染まっている。

五日後。あの鈴が鳴る町に、封蝋のついた書簡が届く。

あの人がそれを手に取る。

あの帳簿を閉じる手と同じ手で、王家の紋章が刻まれた封蝋を切る。

レナートは窓から目を離し、最後の書簡に手を伸ばした。