作品タイトル不明
105 ショーの直前
不死鳥(フェニックス) 遊戯団の生活は規則正しく健康的だ。
団員の皆がそろそろ眠る時間になるのを待って、『サブリナとフェルナン発見』の知らせをイルに託した。
「面倒でも塀を乗り越えずに門番を通してね。大公家の専門職と乱闘になっても困るし」
「わかりました。門から入ります」
「駆け落ちの二人は、私とザハーロさんで見張っておくわ」
「じゃ、行ってきます」
そう言って出発したイルのために、昼のうちに我が家の馬を一頭、少し離れた場所に繋いである。ノンナがパンを齧りながらイルに声をかけた。
「イル、空中ブランコができそうなら、やって見せてほしいって言ってたよ」
「誰がだ?」
「ここで一番偉い人」
「ああ、団長さんな。わかった。できるだけ早く戻ってくる」
そう言ってイルは全く足音を立てずに姿を消した。ノンナはパンを食べながら見送っている。
「どう見ても一番偉いのは団長の奥さんなんだけどな。イルにも見抜けないことってあるんだね」
そうつぶやきながら二個目のパンを手に取るノンナ。
「ノンナ、こんな時間にそんなに食べたら、明日の朝に胃が痛くなるんじゃないの?」
「大丈夫。今日、一日中団員さんたちのリクエストに応えて動きっぱなしだったでしょう? おなか空いちゃって眠れそうにないの。団員さんたちがやたら食べ物をくれたのは、こういうことだったんだね。みんなもこの空腹を経験してきたのかもね」
こういう言葉を聞くとハッとする。気をつけていても私の中のノンナのイメージは、いつまでも子供のときの姿になりがちだ。でもこういう言葉を聞くと(それは昔の私。今の私はもう違うよ)とノンナに言われているような気分になる。
私はノンナのこういうちょっとした言葉で、彼女の成長に気づかされる日々だ。
「お母さん、どうかした? なにか心配ごと?」
「あら、私そんな顔をしていたかしら」
「してた。お母さんは責任感が強すぎるって、ヨラナ様が心配してた」
「ヨラナ様が? なんておっしゃったの?」
「ノンナのお母さんは百点満点じゃないとだめだと思い込んでいるように見えるって。人生は六十五点ぐらいでも十分回るものなんだけどねって。ヨラナ様も若いころは百点満点の伯爵夫人を目指してたけど、それはとても疲れるし自分も周りも幸せになれない生き方だったって言ってたよ」
「そう……そんな話をしてくださったの」
ヨラナ様に見抜かれていたか。
養成所時代「君が頑張れば家族にたくさん仕送りしてあげられるんだよ」と言われて以降、私はずっと全力で生きてきた。その生き方はすっかり骨の髄まで沁み込んでいる。
けれど……そうか。六十五点でも十分なのか。
考え込む私を、ノンナがパンを食べながら見ている。
「私もパンを食べようかしら」
「うん。このパン美味しいよ。お父さんにも食べさせたいな。お父さん、どうしてるかな。寂しがってるよね、きっと」
「そうね。この仕事を早く終わらせて、家に帰りましょうね」
ノンナは少し考えてから口を開いた。
「うん。でもね、デビューは結構楽しみにしているの」
「えっ。もうデビューなの?」
「大丈夫。私は大玉乗りとナイフ投げだけだから。イルはナイフ投げと曲芸……だったかな。イルはなんでも上手だから、いろいろお披露目するらしいよ」
「そうなのね。ノンナ、私たちはもうすぐここを出るから、手加減しないで全力を出してやっていいわよ」
「珍しいね! 私は思い切りやったらいけないんだろうなと諦めてたのに」
「たまには全力を出して楽しんだらいいわよ」
「わかった! ありがとう、お母さん!」
私に駆け寄り、ギュッと抱きつくノンナ。私は、少しの間ノンナの顔を眺めてから「もう歯を磨いてから寝なさい」と微笑んだ。
ノンナが眠り、私とザハーロは交代で二人が隠れているテントを見張り続けた。日常に圧し潰された二人はもう、どこにも行かないことはわかっている。かといって元の家に戻る覚悟もないのだろう。二人が隠れているテントからは、話し声さえ聞こえてこない。
政略結婚が嫌な気持ちはわかる。
だがその歳まで公爵家のご令嬢として利益を享受してきたのだ。一切自分の役目を果たさなければ、彼女の家族だけでなく、領地の民も失望させるだろう。
全ての物事には対価が伴う。そんなことはサブリナだってわかっていたはずだ。高位貴族の娘である彼女は、幼い時から繰り返し自分の役目を言い聞かされて育っているはず。
世の中には外で遊ぶことも許されず、家の中で子供らしくはしゃいだ声を出すこともできずに育つ子供だっているのだ。運動も栄養も足りない小さな体で「好きな食べ物は丸パン」と言ったときのノンナを、私は忘れられない。
サブリナに対しては(甘えるな。まずは自分の役目を果たせ。自分の人生に自由を欲しがるのはそれからよ。逃げるのではなく、戦って手に入れろ)と思っている。
テントを見張りつつ、大公の特殊任務の面々が来るのを待った。イルは大公家の馬で戻ってくるはず。それまではイルの不在をザハーロさんが「腹痛で。すぐ治りますから」と言いつくろってくれている。
深夜を過ぎ、夜明けまではまだだいぶあるという時間に、かなり遠くで馬の足音がした。地面に耳をつけると、近づいてくる複数の足音。
テントの外で待っていると、イルを先頭に十人ほどの集団が早足でやって来た。私は彼らを無言で二人のテントまで案内した。
男たちは物音を立てず、あっという間にサブリナとフェルナンを運び去った。実に手際が良かった。
朝食の時間になり、私は豆と野菜のスープとパンをテーブルに並べてからハリーさんに声をかけた。
「ハリーさん、一番小さいテントにいた若い二人が見当たりませんが」
「そうなのかい? 家に帰ったんじゃないかな。イーガル王国に入るまで 匿(かくま) ってほしいと頼まれたんだけどね。どう見てもお貴族様だったろう? こんな生活にはどうせ耐えられないだろうと思ってたよ」
「そうでしたか。元気がない様子でしたものね」
「おそらくお貴族様同士の駆け落ちだろうけどね。一気に燃え上がった恋の炎が、あっという間に消えたってところだろうな。ま、うちは貰った銀貨の分はちゃんと世話をしたんだ。挨拶なしに消えたとしても気にしないよ」
ハリーさんは全く驚かなかった。こういうことは初めてではないのかもしれない。
団員たちは朝食のあとは動物たちの世話をしたり、自分が使う道具の手入れをしたりして過ごしている。
やがて誰が声をかけるでもなく、それぞれが出し物の準備に入った。
赤や白のペンキを塗ったガラス瓶でジャグリングを始める人。
的に向かってナイフを投げる人。
トンボ返りを繰り返す人。
(ノンナたちは?)と探したら、ノンナとイルはテントの陰でシェン国武術の鍛錬をしていた。残像が残りそうなほど速い動きで攻撃と防御を繰り返している。二人の顔は真剣で、互いの額から汗が流れている。
やがてブリンストールの住民が集まり始めた。イーガルに向かう街道の最後の大きな街ブリンストール。あまり催し物がなさそうなこの街で、 不死鳥(フェニックス) 遊戯団は大きなお楽しみなのだろう。観客たちはよそ行きの服装と興奮に身を包んで、続々と詰めかけてくる。
ノンナが舞台衣装に着替えた。
「お母さん、これ、すごく動きやすいし、可愛いね」
金色の髪を高い位置でポニーテールにしたノンナは、淡いピンクの膝丈の衣裳を着ている。胸元でキラキラ光っているのはガラスビーズだ。襟元と袖口にはピンクに染められたふわふわな鳥の羽。色白なノンナによく似合う。靴は鹿革の柔らかそうな室内履きのような靴。
「それで大玉に乗るの?」
「うん! ナイフも投げちゃうよ」
「きっとお客さんたちは大喜びするわね」
「全力を出していいんだよね?」
「ええ。みんなを驚かせてやりなさい」
ノンナは人前で実力を全開放できることがよほど嬉しいらしい。スキップで去って行った。
イルはというと、上半身は紺色のラメをびっしり縫い付けたベストに白いシャツ、白いぴったりしたズボンを履いている。靴は足首を隠す丈のショートブーツ。黒髪をぴっちりと撫でつけている。その髪型が美しい顔立ちを引き立てていて「どこの国の王子様?」という雰囲気だ。
「物語に出てくる王子様みたいね」
「気恥ずかしいですよ」
イルは苦笑しているが、若い女性団員さんたちがヒソヒソ話をしながらイルを見ている。誰の目にも『異国の王子様』のように見えるのだろう。
十名ほどの楽団員が音楽を演奏し始めた。一番大きいテントの中は、立ち見も出るほどの満員だ。
短い曲が終わり、 不死鳥(フェニックス) 遊戯団の団長さんが挨拶のために中央に立った。
さあ、ショーの始まりだ。