作品タイトル不明
第8話「わたくしの言葉で」
会議の朝は、雨だった。
エルデヴァイス王宮の東翼、大会議室。窓を叩く雨粒の音が、まだ人のいない広間に響いている。長い楕円の卓に椅子が並び、各国の席札が置かれている。白い磁器の名札。エルデヴァイス式の書体。
わたくしの名前がある。
「セレーナ」——姓のない、名だけの札。それがエルデヴァイス側の主席の隣に置かれている。
手帳を卓に置いた。革の表紙が木の卓に触れる音。小さく、硬い音。
マルタが水差しを整えている。この人はどこまでもついてくる。エルデヴァイスの宮廷侍女の制服を着ているが、所作はヴァイスフェルト時代と変わらない。静かで、的確で、余計なことを言わない。
「奥様」
「はい」
「お顔の色がよろしいです」
それだけ言って、部屋の隅に下がった。
各国の代表が入ってくる。
ブリューゲル公国の新しい通商大使。サヴェリアのオブザーバー。小国の代理人たち。ルシアン殿下がエルデヴァイスの主席に着く。わたくしはその隣。
最後に入ってきたのが、ヴァイスフェルト公爵家の代表だった。
グレイス様。
扉が開いた時、空気が変わった。あの靴音。重い、間隔の広い足取り。三年間、毎日聞いていた音。
顔を上げた。
痩せていた。頬の線が以前より鋭くなっている。目の下に疲労の翳。けれど背筋は伸びたまま、自尊心が骨格を支えている。この方はそういう人だった。中身が崩れても、外側は最後まで崩さない。
グレイス様の目がわたくしを捉えた。
一瞬、足が止まった。止まったことに自分で気づいて、すぐに歩き出す。席についた。卓を挟んで、向かい合う距離。
三年間、隣にいた人が、向かい側にいる。
わたくしの手は膝の上にある。扇はない。口元を隠すものは何もない。
ルシアン殿下が開会を告げた。
「三国同盟の失効を受け、新たな通商・安全保障の枠組みを協議する場です。エルデヴァイス側の交渉主任は、外交顧問のセレーナが務めます」
グレイス様の指が卓の上で動いた。握りかけて、止めた。わたくしの名がこの場で、この立場で呼ばれることを、想定していなかったのかもしれない。
「それでは、新たな枠組みの基本方針について、エルデヴァイス側から提案いたします」
立ち上がった。
手帳は開かなかった。中身は全て頭に入っている。三年分の交渉記録と、この二か月で積み上げたエルデヴァイスの国益分析。それらが組み合わさって、ひとつの提案になっている。
「従来の三国同盟は、安全保障と通商を一括した包括条約でした。これを分離し、通商条約は多国間、安全保障は二国間の個別協定とする枠組みを提案いたします」
声が会議室に広がる。反響がある。天井が高いから。
グレイス様がこちらを見ている。あの目。何を考えているかわからない、と思っていた目。でも今は違う。読める。困惑と、苛立ちと、そして——こちらの言葉を聞いている。聞かざるを得ない状況に置かれて、初めて、聞いている。
提案の詳細を述べる。通商路の再編案。関税率の段階的見直し。サヴェリアを新たに加えた多国間の通商圏。ヴァイスフェルト公爵領は同盟に残れるが、外交の主導権はエルデヴァイスが持つ枠組み。
公正な提案だった。ヴァイスフェルトを締め出すものではない。ただ、もうヴァイスフェルトが中心ではない。
「質疑を受けます」
ブリューゲルの大使がいくつか確認した。サヴェリアのオブザーバーが補足を求めた。それぞれに答える。言葉が淀みなく出る。扇の裏ではなく、この空気の中に。
グレイス様が口を開いた。
「ヴァイスフェルトの安全保障上の地位が——」
「その点については、個別協定の中で保全されます。詳細は第三条をご確認ください」
遮ったのではない。先回りしただけ。この方がどの条項に引っかかるか、わたくしにはわかる。三年間、この方の横で交渉を見てきたのだから。
グレイス様が条約案をめくった。第三条を読んでいる。注釈がない条約文を、自力で読もうとしている。時間がかかる。卓の向こうで指が紙の上を滑っていくのが見えた。
「……この条項の"相互防衛の精神"というのは、具体的に何を——」
「旦那——」
言いかけた。止めた。
もうその呼び方ではない。
「グレイス公爵。"精神"は従来の同盟条約第七条を踏襲しております。端的に申せば、一方が攻撃を受けた際の協議義務です。発動要件は個別協定の付属文書に定めます」
淡々と答えた。感情は込めなかった。込める理由がなかった。
グレイス様は黙った。条約案を閉じた。もう質問はなかった。
次の議題に移ろうとした時、グレイス様がもう一度口を開きかけた。何か言おうとして——言葉を探している顔。あの顔を知っている。自分の思い通りにならない時の、居心地の悪い沈黙。
わたくしは微笑んだ。
口元を隠さず、正面から。
「あなたこそ、黙ってご覧になっていてください」
静かに言った。声を荒げる必要はなかった。
会議室がしんと鳴った。ブリューゲルの大使がペンを止めた。サヴェリアのオブザーバーが顔を上げた。ルシアン殿下は——動かなかった。わたくしの隣で、ただ静かに座っていた。
グレイス様の顔から表情が消えた。
怒りではない。理解が追いついていない顔。自分がかつて言った言葉が、形を変えて返ってきたことに、この方はまだ気づいていないのかもしれない。
気づかなくてもいい。
この言葉はあの方のためではなく、わたくしのために言った。三年間、扇の裏で閉じ込めていた言葉の、いちばん最後のひとつを、自分の口から出すために。
「では、次の議題に移ります」
条約は締結された。
各国の代表が署名し、副署し、封蝋を押した。グレイス様のペンは重かった。署名に時間がかかっていた。けれど、署名した。
会議室を出る時、グレイス様とすれ違った。
目が合った。
何か言いたそうな目だった。あるいは、何を言えばいいかわからない目。
わたくしは軽く頭を下げた。それだけ。
グレイス様は何も言わずに歩いていった。あの重い足音が、廊下の奥に消えていった。
回廊に出ると、雨が上がっていた。
濡れた石畳に空が映っている。雲の切れ間から午後の光が差して、水たまりの中で白く揺れている。
「セレーナさん」
ルシアン殿下が後ろから歩いてきた。足音が静かな人。いつも気づいた時にはもう近くにいる。
「見事でした」
「ありがとうございます」
扇なしで笑った。殿下の前で笑うのは、もう怖くなかった。
殿下は少し間を置いた。回廊の柱に手をかけ、水たまりの向こうの空を見ている。
「これからも、あなたの言葉を聞かせてほしい」
「はい。顧問として、できる限り」
「……外交の席だけでなく」
殿下の声が少しだけ低くなった。
わたくしは足を止めた。
この方の横顔を見た。灰色の瞳。雨上がりの光を受けて、少しだけ青みを帯びている。この目がわたくしを見る時、いつも同じ温度がある。急がない温度。待てる温度。
「……考えさせてください」
殿下は頷いた。いつもの、一度だけの頷き。
「もちろん」
それだけ言って、また歩き出した。わたくしの半歩先を。前でも後ろでもなく、隣を歩ける距離を保って。
わたくしはその背中を——いや、背中ではなかった。横を見た。
ここにいてもいいのだと、思えた。
◇
夜。
執務室の机で、手帳を開いている。
最初のページから、ゆっくりめくる。ヴァイスフェルト時代の記録。細かい字。余白のない、急いだ筆跡。誰にも見せるあてのなかった言葉たち。
途中から字が変わる。少し大きく、行間のある筆跡。エルデヴァイスに来てからのページ。青みの強いインクが、紙の上で違う色を見せている。
余白が埋まっている。白紙だったページが、一枚ずつ、わたくしの言葉で埋まっている。
最後のページを開いた。今日の会議の記録を書き終えた、その下の余白。
ペンを取った。
小さく、一行だけ。
「笑顔の値段——もう、誰にも決めさせない」
ペンを置いた。インクが乾くのを待つ。
窓の外を見た。雨上がりの夜空に、雲の隙間から星がいくつか見えている。エルデヴァイスの星は、ヴァイスフェルトで見た星と同じもの。同じ空の下にいる。けれどここでは、違う目でそれを見ている。
手帳を閉じた。
椅子の背にもたれて、ゆっくり息を吐いた。
笑おうとはしなかった。
笑おうとしなかったのに、唇が緩んでいた。誰に見せるためでもなく、何かを隠すためでもなく。ただ、そうなっていた。
——わたくしの笑顔は、わたくしのものです。
灯りを落とす。
蜜蝋の甘い残り香。窓の外の、雨に洗われた空気。
静かな夜だった。