作品タイトル不明
第95話:ダンジョンの法則と、封印される最適解
中層の湿潤な通路を、気流の変化と匂いに五感を集中させながら、慎重に進んでいた。
岩壁に張り付く発光苔が、足元の泥のぬかるみを微かに照らし出している。
前方の泥の表面が、不自然に波打った。
水滴が落ちた波紋ではない。
泥の奥底から、何かが急速に浮上してくることによるものだ。
私が後退しようとするのと同時に、泥の中から 酸性粘体(アシッドスライム) が跳躍するように姿を現した。
過去のデータよりずっと早い。
それはつまり、変容個体であるということだ。
対象が私に肉薄する。
回避する、そんな猶予はなかった。
私は腰のポーチへ手を伸ばした。
指先がプラスチックのボトル、化学凝固剤を捉えた。
……使っていいのか? これを。
昨日、岩の亀裂を塞ぐため、発泡ウレタンを使用した。
その結果、どうなった。
ダンジョンの免疫反応とも呼べるモンスターの殺到を引き起こした。
発泡ウレタンも、化学凝固剤も、同じ化学薬品である。
これを使うことで、あの時と同じように、周囲のモンスターを呼び寄せてしまう可能性を否定できない。
だが、今ここで対象の動きを止めなければ、確実に私が飲み込まれてしまう。
考えている時間はなかった。
私は対象に向け、化学凝固剤を使用した。
急激な化学反応が起こり、対象の体組織が石膏のように白く硬化していく。
動きを封じられた対象が、重い塊となって足元の泥に落下した。
普段ならば、迷わず処理していた。
だが、化学薬品をダンジョンに散布してしまった今、発泡ウレタンを使用した時のように、四方八方からモンスターが殺到してくるはずだ。
私は処理を行わず、放置して、素早く岩陰へと身を滑り込ませた。
息を殺し、その瞬間を待った。
岩壁の奥から岩を削る音が。
遠くから地響きが迫る音が。
それぞれ近づいてくる、その瞬間を。
跳ね上がる心拍数を可能な限り、無視をして。
数分が経過した。
通路には、泥の中から聞こえる、気泡が弾ける微かな音だけが響いていた。
モンスターが押し寄せてこない。
その気配がまるでない。
息を吐いた。
気づけば、ずっと息を止めていた。
胸の奥で鈍く跳ね続けていた鼓動が、少しずつ落ち着いていく。
私はゆっくりと岩陰から歩み出た。
前回と今回、いったい何が違うのか。
……考えるのは後でいい。
それよりも今はまず、目の前のリスクを排除しなければいけない。
粘性体は化学凝固剤で固めただけであり、放置すれば必ず復活して脅威になる。
サバイバルナイフを引き抜き、処理をする。
粘性体は光の粒となって霧散し、魔石になった。
私はその魔石を拾い上げ、簡単に拭ってケースに収めながら、周囲を探った。
やはり、モンスターが押し寄せてくる気配はない。
岩壁を確認し、安全であることを確かめてから、そこに背中を預けて、私は改めて、昨日の出来事と今の状況を比較することにした。
昨日は岩壁の亀裂、つまりダンジョンの構造そのものに対して発泡ウレタンを注入した。
そして今回は、モンスターに向けて凝固剤を噴射した。
ダンジョンという環境を一つの巨大な生命体として仮定する。
鉄の楔を打ち込むといった物理的な干渉に、ダンジョンは過剰な反応を示さなかった。
しかし、自らの肉体である岩壁に化学的な異物で深く干渉した時、それを排除するため、まるで白血球のようにモンスターを集中させるのではないか。
一方で、ダンジョンそのものではない、体表面で活動するモンスターに対して化学物質を使用したとしても、全体としての免疫反応は機能しないのではないか。
乾いた岩盤のように見せかけて、その実、泥沼になっていた場所に粉チョークを撒いたこともあるが、粉チョークの主成分は炭酸カルシウムであり、自然界の岩石と非常に近い成分だ。
であれば、ダンジョンそのものに化学物質を使用することで、昨日のようなモンスターの殺到が引き起こされると考えた方がいいだろう。
これが事実であれば、今後の生存戦略に極めて重要な意味を持つ。
この仮説を検証するため、私は退路が完全に開けている少し広い空間へと移動した。
周囲を見回す。
ここなら大丈夫だろう。
私はポーチからスプレー式の定着液を取り出す。
壁際の、目立たない岩盤の表面へ向けて、透明な溶剤を少量だけ吹き付けた。
私はすぐにその場を離れ、十数mはある死角となる岩陰に身を潜めた。
だが、数分経っても、何も起きなかった。
私の仮説は間違っていたのか?
……いや、そうではない。
昨日は、ダンジョンの亀裂にノズルを差し込み、発泡ウレタンを注入した。
表面ではなく、内部にだ。
私はポーチから、地盤補強用に持参していた浸透性の低粘度エポキシ樹脂を取り出した。
壁際の、目立たない岩盤に生じた細い亀裂へ向けて、その溶剤を数滴だけ注入した。
私は同じ定着液を、亀裂を探して、その中に染み込むように噴射した。
すぐにその場を離れ、岩陰に身を隠す。
結果、樹脂を注入した亀裂の周囲へ、巨大な顎を持つ 岩砕大百足(ロック・センチピード) が殺到した。
彼らは溶剤が内部に浸透し、付着した岩盤を削り取るように、狂乱した様子で攻撃を行った。
その後、昨日と同じように同士討ちを始め、モンスターの気配が完全になくなるまで待ってから、岩陰から抜け出した。
これだけでは、化学物質によるものか、確実とは言えない。
粉チョークや楔を使用して、同じようにしてみたが、モンスターは殺到しなかった。
つまり、化学的な工業資材をダンジョンそのものの内部に使用した時のみ、この事態は発生する。
私は先程拾い上げ、ケースに収めた魔石の数を思い出しながら考えた。
使用する量によっても、殺到するモンスターの数は違ってくるのだろう。
かなりの量の発泡ウレタンを使用した昨日は、多数のモンスターが殺到した。
だが、今日のモンスターは昨日よりずっと少なかった。
使用した化学物質が少量だったからだろう。
定時になり帰途につきながら、私は考え続けていた。
この法則を利用すれば、特定の場所にモンスターを誘導することができる。
あとは、安全な場所に身を潜めておけば、狂乱状態のモンスターたちが同士討ちを行い、その後、完全に脅威がなくなったことを確認してから、魔石を拾えばいい。
これまでの手順を根本から覆す、極めて効率的な回収方法だ。
変容前の水準どころか、それ以上の稼ぎを得ることができる、魅力的な方法だ。
だが、その方法を私が使うことはない。
企業クランである『アルゴス』が引き起こしたのと、同じ結果を生むからだ。
スタンピードである。
目先の利益のために、自らの生活基盤であるこの環境を破壊してしまえば、元も子もない。
だが、この事実は手帳に記しておくべきだし、協会にも報告しないといけないだろう。
私のように工業資材をダンジョンで使用する探索者は今のところほぼいないが、これから先、現れないとは限らない。
地上へ戻り、探索者協会のロビーへ足を踏み入れた。
換金カウンターへ向かおうとした私の視界に、見知った姿が入った。
ベテラン探索者の黒木氏だ。
工業資材をダンジョンで使用する探索者を私がほぼいないと言った理由が、彼だ。
深層を主戦場とする彼も、私と同じで、工業資材を現場に持ち込んでいる。
協会に報告する前に、彼にも伝え、情報を共有しておくべきだろう。
もし彼が深層でこの法則を知らずに化学資材を使用すれば、致命的な事態を招く。
私は彼のもとへ歩み寄った。
「……黒木さん」
声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。
「お伝えしておきたい情報があります」
黒木氏が鋭い視線で続きを促した。
私は今日、中層で確認したダンジョンの免疫反応の条件について、簡潔に伝えた。
「……よって、この方法は使用するべきではないと考えています」
私の話を聞き終えた黒木氏は、深い皺の刻まれた顔に、感心したような色を浮かべた。
「……さすがだな」
「……いえ。この法則自体、いずれ黒木さんも気づいていたでしょう」
「違う。俺が言いたいのは、それを使わないと決めたお前の判断だ」
彼は私を見据えた。
「安易な道に流されれば、いずれ必ず足をすくわれる。その一線を越えないのが、お前という男だ」
黒木氏は口元を僅かに緩め、視線をロビーの奥へ向けた。
私は、何も言わなかった。
「実は今日、俺も深層で異常な群れに遭遇した。脆い岩盤を補強しようと、岩の奥まで浸透する硬化剤を注入した途端、信じられない数のモンスターが押し寄せてきやがった。なんとか切り抜けたが、あわやというところだった」
彼は私を振り返り、続けた。
「ただの偶然かとも考えたが、お前の検証と符合するなら間違いない。俺はこれを、協会に報告しようと考えていたところだ」
「私もです」
私たちは並んでカウンターの奥へと向かった。
権藤さんの姿はない。
ダンジョンの変容への対応で、会議に出ずっぱりなのだろう。
代わりに、私たちは井葉さんに伝えた。
彼女は私たちの報告を真剣な表情で書き留めると、
「……わかりました。ダンジョンの構造内部への化学的資材の浸透が引き金になるということですね。権藤さんにも共有しますし、直ちに全探索者へ向けた注意喚起を手配します」
これで、意図せぬ事故によるスタンピードの発生は防げるはずだ。
私は井葉さんに礼を言い、黒木氏に会釈をして協会を後にした。
宿舎へ戻ってきた私は、夕食を作った。
今日は豚肉とニンニクの芽の炒めものだ。
調理しながら考えていたのは、今後の方針についてだ。
化学的な工業資材をダンジョンの内部へ浸透させることができないとなれば、今後のダンジョン内の補強の手法を根本から見直す必要がある。
亀裂の奥へ注入する発泡ウレタンやエポキシ樹脂は封印だ。
純粋な物理的手段である鉄の楔のみを複数打ち込むことで、応力を分散させる手法に切り替えるべきだろう。
……ちょうどいい。
疲労が溜まってきているし、変容し続けるダンジョンに対応するため、明日は休息しよう。
そして、ホームセンターへ行くのだ。
化学薬品を含まない、物理固定具の在庫を拡充しておくために。
そんなことを考えている間に、夕食が完成した。
香ばしい匂いが食欲を刺激する。
私は炊きたての白米とともに、炒めものを口へ運んだ。
豚肉の脂と、ニンニクの芽のシャキシャキとした食感。
「……美味い」
心ゆくまで堪能しながら、帰り際に見えた探索者の顔を思い出した。
一年前は幅を利かせていた彼。
大衆食堂で唐揚げ定食を食べ、「……美味えなあ」と溢していた彼。
彼の表情は、今日も昏いままだった。
ダンジョンの変容は暗い影を落とし続けていた。