軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第94話:異物排除の免疫と、棚ぼたの祝宴

環境の変容に対応するため導入した小型超音波センサーは、容易く欺かれた。

以来、私は新しい機材への信頼を保留にしていた。

だが、使い込んできた資材なら、まだ信じられると思っていた。

その瞬間までは——。

中層の岩場区画を壁面に沿って、私は歩いていた。

ハンマーを握り、数歩進むごとに岩壁を軽く叩く。

打音検査だ。

すでに変容に完全に対応できないことは知っている。

その音だけを盲信するようなことはしない。

返ってくる音の響きに加え、岩肌の微細な変色、気流の乱れ、壁面に触れる空気の温度差。

また、そこに虫や植物が存在しているかどうか。

些細な見落としも許されない。

得られるすべての情報を統合し、岩盤の強度を推測し、進んでいく。

神経が消耗する。

それでも、行わないという選択肢は存在しなかった。

複数の横穴が交差する地点の手前で、壁が低く鈍い音を返してきた。

足を止め、岩肌を注意深く観察する。

微細な亀裂が走っている。

ライトの光を当てれば、その奥が広範囲にわたって空洞化しているのがわかった。

強酸性のガスによるものか、あるいは別の変容によるものかはわからない。

放置して通ることは、崩落のリスクがある。

私はバックパックのサイドポケットから、発泡ウレタン充填剤のボトルを取り出した。

ボトルのキャップを外し、ノズルを亀裂の奥へ深く差し込み、トリガーを引いた。

圧縮された薬剤が岩の隙間へと流れ込み、音を立てて膨張していく。

硬化したウレタンが亀裂を完全に塞いだ。

周囲の岩盤を固定した。

はみ出した余分なウレタンをナイフで削り落とし、表面を均した。

「……よし」

ボトルをしまい、バックパックの位置を直す。

安全は確保された。

私が歩き出すのとほぼ同時に、足元の岩盤が不規則に震え始めた。

地震ではないことは、すぐにわかった。

前方、背後、そして左に口を開けた横穴の奥から、重い足音をさせながら、何かが岩を擦る不快な摩擦音が一斉に湧き上がってきたからだ。

異常な数の何かが急速に接近してくる。

いったい何が起こったというのか。

……今は考えている時ではない。

私は唯一気配のない右の横穴へ向かって駆け込もうとした。

だが、そこには先客がいた。

桜色した、まだ真新しい防具を身に纏った、「見て盗む」と私に宣言したあの少女だ。

彼女は迫りくる異変に気づいていない様子で、この危険な交差点へと向かってこようとしていた。

「来るな! 逃げろ……!」

叫びながら自分に向かってくる私に気づき、彼女は驚いたように目を見開き、立ち止まる。

そして、周囲の異変に今さらながら気がついたようで、慌てた様子で踵を返して全力で走り出した。

私もそれに続こうとしたのだが、間に合わなかった。

天井付近に穴が空いていて、そこから土属性の大型モンスター—— 剛腕巨猿(グラナイト・エイプ) が複数、地響きを立てて私の目の前に落ちてきたのだ。

ここには身を隠せるような場所がない。

仕方なく先程までの場所に私が戻るのと同時に、すべてのルートからモンスターがなだれ込んできた。

左右の横穴からは 石像兵(ストーン・ゴーレム) が岩の体を軋ませながら重い足音を立てて姿を現し、壁面や天井からは無数の 岩擬蜘蛛(ロック・スパイダー) が這い出してくる。

完全に囲まれてしまった。

冷たい汗が全身から吹き出す。

心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。

これだけの数を同時に相手にする?

できるのか、そんなことが。

本当に?

「——考えを止めるな」

思考を止めた瞬間が本当の終わりだ。

抜け出すのだ、ここから。

——ロープを使って頭上の岩壁に支点を作るか?

……強度が確認できていない上に、打ち込む時間がない。

——化学凝固剤はどうだ?

……対象の数が多すぎるし、そもそも思う通りの効果を発揮するか未知数だ。

——閃光玉で視覚を奪って隙を突くのは?

……四方を囲まれた状態で、視覚を奪ったところで突破口にはならない。

他に何か、何かないのか。

今日を生き延びるための手順が、どこかにあるはずだ——。

その時、背後から迫っていた石像兵の一体が、私の手前にあった人ほどの大きさの岩に激突した。

凄まじい衝撃音が響き、粉々に砕け散った。

鋭い破片が私の頬を掠め、皮膚を薄く切る。

圧倒的な暴力を見せつけられる。

だが、それでも私は諦めない。

その瞬間まで、思考を止めるつもりはない。

サバイバルナイフを引き抜き、最初に飛び込んでくる個体の急所を突いて少しでも退路をこじ開けるための段取りを、頭の中で幾度も組み直した。

そして、先頭の剛腕巨猿が私に迫った。

結論から先に言おう。

モンスターたちのターゲットは私ではなかった。

彼らは私ではなく、私がつい先程亀裂に充填したウレタンの塊へと殺到した。

剛腕巨猿の鋭い爪が、白い塊を壁から乱暴に引き剥がす。

石像兵の硬い腕が、硬化したウレタンを力任せに叩き潰す。

さらに岩擬蜘蛛が亀裂の細部に入り込み、細かな塊を掻き出す。

その姿は、まるでウレタンを排除しようとしているようにしか見えなかった。

変容し続けるダンジョンは、人工的な化学物質を脅威とみなしたのだろうか。

だとしたら、このモンスターたちは、それを排除するための免疫機能なのかもしれない。

ウレタンの排除が終わっても、彼らの興奮状態は収まらなかった。

それどころか、互いを外敵と見做したかのように、同士討ちを始めた。

石像兵の重い質量によって、巨猿の肉が押しつぶされる音がする。

剛腕巨猿の拳により、岩擬蜘蛛が砕かれる音がする。

さらにその拳は、石像兵の体を粉々に打ち砕く音を響かせた。

それらが狭い通路に響き渡る中、私は呼吸を殺し、岩の窪みに身を沈めていた。

やがて、争いの音が徐々に小さくなり、最後には静寂が訪れた。

完全に破壊音がなくなり、それから数分待って、新しい音が発生しないことを確認してから、私は窪みから歩み出た。

あれだけいたモンスターの姿は一つもなかった。

ただ、魔石が無数、転がっているだけだった。

『 淀みの窪地(スタグナント・ホロウ) 』で見た光景と重なる。

あれは新しい脅威の出現などではなく、今回と同じことが起こった結果だったのかもしれない。

……決めつけるのはよそう。

そのための判断材料を、私は持っていない。

新しい脅威は出現していないなどと、安易に決めつけるべきではない。

ともあれ、私は魔石をすべて拾い、ケースに収めた。

思わぬ臨時収入だ。

だが、素直に喜ぶことはできなかった。

これまで信用してきた資材が、これからはダンジョンの免疫機構を刺激する危険な引き金になり得る可能性が高いという事実を、突きつけられたのだ。

これ以上の業務継続は致命的な事態を招くと判断した私は、帰還することにした。

探索者協会のロビーへと戻ってみれば、人だかりができていた。

そして、その中心から、切迫した声が聞こえてくる。

「助けて! あの人が大変なの!」

声の主は、先ほどダンジョンで遭遇した少女だった。

彼女の装備には、先程まではなかった泥汚れがあった。

必死の形相で、周囲の探索者たちに訴えかけている。

彼女の視線の先には、見知った顔がいくつかあった。

上近少年に、大剣を背負った颯真くんだ。

他にも、彼らの周囲にいる他の探索者たちの姿も、もちろん見覚えがあった。

彼女は言葉を詰まらせながらも、必死に状況を伝えようとしている。

「岩場区画で……ものすごい数のモンスターが湧いて……! あたしを逃がすために、あの人が一人で残って……!」

「まずは落ち着け。——あの人ってのは、誰だ?」

颯真くんが、彼女をなだめるように尋ねた。

「……えっと、ほら! いつも一人でいる——」

「静河、か?」

颯真くんの言葉に、少女が大きく頷く。

「そう、その人! 早く行かないと、死んじゃう……!」

少女の悲痛な叫びに、しかしロビーの空気は弛緩した。

「静河さんなら大丈夫だよ」

上近少年が、肩の力を抜き、はにかむ。

それに同調するように、颯真くんが豪快な笑い声を上げる。

「だな。あいつなら心配なんかいらねえ」

「な、何言ってるの……!? あんなにたくさんのモンスターに囲まれてたんだよ……!」

少女が毅然として怒り出す。

「大丈夫だ。静河なら何とかする。これまでだって、あいつはそうして生き残ってきたんだ。ここで——ダンジョンで」

颯真くんの言葉に、周囲の探索者たちも、

「違いない」

「ていうか、彼なら今頃抜け出してるんじゃないの?」

と口々に同意を示している。

誰一人として、私が未帰還者リストに名を連ねるなどと微塵も疑っていない。

その事実を胸に秘めながら、私は彼らの輪へと歩み寄った。

最初に気づいたのは颯真くんだった。

「よう、相棒」

その言葉に少女が振り返り、私を見た。

彼女は驚いていいのか、安心していいのか、何をすれば、どうすればいいのかわからない、そんな表情をして、

「え、なんで……どうして……本当に無事、だったの……?」

震える声で尋ねてくる。

ダンジョンは自己責任の世界だ。

彼女が私を置いて逃げたのは完全に正しい。

だが、彼女は地上に戻った後、私のために救助を求めて声を張り上げてくれた。

「……ありがとうございます」

私は頭を下げた。

「私のために声を挙げてくれて」

そして、私は周囲を見渡した。

颯真くん、上近少年、そしてその場にいた探索者たち。

私が生還すると信じて疑わなかった彼ら。

胸に秘めた事実が、熱い。

私は、バックパックの中、ケースに収められた大量の魔石の存在を思い出した。

同士討ちの果てに残された、思わぬ報酬。

それは、言わば棚ぼたの利益だ。

「……ちょうどいいですね」

私が小さく呟けば、颯真くんが眉を上げた。

私は彼らを——その場にいた者たちを見回し、少しだけ口元を緩めて言った。

「みんなで、食事に行きませんか?」

私の突然の提案に、その場の全員が完全に硬直した。

颯真くんが信じられないものを見るように目を瞬かせ、上近少年が驚きの声を上げる。

「今日の報酬は、想定外の利益でしたから。私がご馳走します」

まず最初に颯真くんが我に返り、ロビーに響き渡る声で大笑いした。

「静河の奢りだぞ! 遠慮するな、行くぞ!」

その声に釣られるように、上近少年も、戸惑っていた少女も、他の探索者たちも笑顔を見せた。

街の裏路地にある居酒屋。

奥の座敷席に陣取った私たちは、次々と運ばれてくる料理とジョッキを前にしていた。

颯真くんが中心となって、今日の出来事やダンジョンの話で大いに盛り上がっている。

上近少年も少女も、緊張が解けたのか、楽しそうに笑い合っていた。

私は彼らの輪から少しだけ離れた席に座り、ウーロン茶のグラスを手にしながら、その光景を眺めていた。

頭の片隅には、今日得たデータがあった。

発泡ウレタンが排除されたという事実だ。

既存の工業製品を使うことで、今日みたいな事態を再び引き起こす可能性を排除できない。

ダンジョンでは、もう資材は使用できないのか。

それとも、別の資材ならば問題はないのか。

考えなければいけないことはいくらでもあった。

だが、今は……。

私は、唐揚げを、お好み焼きを、焼き鳥などを頬張り、思い思いに注文したドリンクを飲み、楽しげに笑う彼らの姿を見る。

一人の、静かな食事があってもいい。

だが、

「……こういう日が、あってもいい」

私が呟き、ウーロン茶を口に含んだところで、颯真くんが私に気がつき、笑った。

私も、笑顔を返した。