作品タイトル不明
第65話:それぞれのやり方と、答えのない夜
透明な冷水だった。
それが足首から脛の高さまであり、絶え間なく流れている。
私は今回の業務のために用意した防滑スパイクのついた胴付長靴で水底の感触を確かめながら、慎重に進んでいく。
ここは中層の第11区画。
壁面や床面が鍾乳石や滑らかな石灰質の沈殿物に覆われている、半水没の回廊だ。
私は反響する水流の音に耳を澄ませた。
絶え間ない環境音の中に、微かな異音が混じった。
水の流れに逆らうような、不規則な揺らぎだ。
私は歩みを止めた。
環境音の中に混じっていた私自身が発するノイズを消し、異音に集中する。
……間違いない。
腰のサバイバルナイフを静かに引き抜いた。
透明な水面の下を、這うように近づいてくる影があった。
両生類型の小型モンスターだ。
飛びかかってくる軌道を読み、私はわずかに半身を引いて躱した。
空を切った対象の柔らかい腹部へ、ナイフの切っ先を浅く、だが確実に滑り込ませた。
対象は落ちて水飛沫を上げる間もなく、光の粒となって霧散した。
水底に魔石が沈んでいく。
私は水の中から拾い上げた。
布片で水気を拭い、専用のハードケースのウレタンの隙間に収める。
水温に異常はなく、水面の揺らぎも戻った。
異音もしない。
問題ない。
私はその後も対象を処理しながら、水路をさらに奥へと進んでいった。
不意に、視界の端に違和感を覚えた。
私は足を止めた。
水中に立つ、太い石灰質の柱。
その根元に、何かがある。
水流に逆らうように揺れながら、微かに青白く明滅する、未知の水生植物の群生だ。
「藻類……?」
その一種のようにも見えるが、協会が開示しているこのエリアの生態データに、そのような植物の記載はない。
不用意な接触はしない。
未知の毒性を持つリスクが否定できないからだ。
私は安全な距離を保ったまま、観察を続けた。
その時、柱の裏側から影が動くのが見えた。
モンスターを警戒し、私はナイフの柄に指をかけたが、すぐにその手を離した。
そこにいたのが、見知った顔だったからだ。
上近少年だ。
彼は私に気づくと驚いたような顔をして会釈をしたが、すぐに手元へと視線を戻した。
メモ帳に、夢中でペンを走らせていた。
数値を記録しているのだろうか。
そう思い、彼の背後から少しだけ視線を向けてみた。
だが、私の予想は外れてしまった。
彼がノートに書き留めていたのは文字や数字ではなかった。
未知の藻類だった。
水流によって広がる繊維の形や、明滅する光の加減。
それを懸命に写し取っていたのだ。
スケッチとして。
私の視線に気づいたのだろう。
上近少年は、少し照れたようにはにかんだ。
「……ここがダンジョンだってことはもちろんわかっています。他の人に見られた時も、ピクニックに来てるのかって笑われました。でも、子どもの頃からそうだったんです。僕、見たものを描かないと落ち着かなくて」
初めて出会った時、そんな様子はなかったと思い出していると、彼は私の考えに思いついたのだろう、こう言った。
「……あの時はとにかく必死だったので。スケッチしていたら静河さんに置いていかれちゃうって思って。でも、今は少しだけ、ほんの少しだけですけど、自分自身の足で立っているって、そんな感覚があるので」
上近少年がさらに恥ずかしそうに笑う。
「静河さんのようにデータももちろん収集しています。でも、こうしないと、僕は何か大切なものを見落としてしまうような気がして」
「……そうですか」
「笑わないんですか?」
「その必要はありません。探索者は自己責任の世界で、私には私のやり方があるように、あなたにはあなたのやり方がある。ただそれだけの話です」
「……ありがとう、ございます」
感謝されるようなことを言ったつもりはない。
だが、彼のうれしそうな顔を前にして、余計なことを言う必要がないことも充分理解している。
私は周囲を素早く見回し、脅威がないことを確認すると、バックパックから自分の手帳を取り出し、記録する。
発光の周期。
群生しているおおよその面積。
私は事実を数字と文字に変換する。
同じ対象に、まったく違うアプローチをする。
「……静河さん、笑ってます?」
「……そうかもしれません」
上近少年の言葉を肯定し、私は自分の中にある不思議な感覚を、あえて言語化することはしなかった。
手帳を閉じる。
青白く明滅する水生植物に目を向ける。
これが周囲の水質や生態系にどのような影響を及ぼしているのか、あるいは及ぼしていないのか、今の段階では何もわからない。
魔石の回収数は、まだ予定していたノルマに達していなかった。
だが、未知の水生植物という何もかも不明なものが存在するという不確定なリスクを抱えたまま、この先の水域へ進むことは、私の安全マージンを削ることになる。
今日のところは、このデータの採取をもって成果としよう。
「私は戻ります」
短く声をかけると、上近少年はスケッチから顔を上げ、しっかりと頷いた。
「気をつけてください、静河さん」
「あなたも」
はい、という元気な応答を受け、私は彼に背を向けた。
足元の見えにくい水路を、防滑スパイクで確実に捉えながら帰路についた。
定時より幾分早く地上へと戻ってきた。
探索者協会のロビーの空調の効いた乾いた空気が、冷え切った身体を少しずつ温めてくれる。
換金カウンターへ向かい、今日回収した魔石をトレイに置いた。
担当は権藤さんだった。
彼がテスターに魔石をセットしていく。
「権藤さん。第11区画の水路で、青白く発光する未知の水生植物の群生を確認しました」
私は手帳に記した一次情報を、彼に伝えた。
権藤さんの魔石を査定する手が止まった。
彼は表情を険しくした。
「……似た水生植物の報告が、別の湿潤エリアで二件入っているよ」
第11区画だけではない。
全部で三件。
私は手帳を取り出すと、その事実を書き留めた。
ダンジョンが、静かに変容し始めている——。
手帳を閉じた。
私が原因を深追いすることはない。
私がダンジョンに赴くのは、私が私として生きていくためだからだ。
静かに息を吐き出す。
私は権藤さんから明細を受け取り、カウンターを離れて出口へ向かおうとした。
その時、ロビーに入ってくる青年の姿があった。
颯真くんである。
私は彼に気づいたが、彼は私に気づかず、そのまますれ違う。
荒い息遣い。
装備に付着した泥や水分。
私が記憶している限り、中層でつく土の色ではない。
「……ああ、静河か」
かなり経ってから、すれ違った相手が私だと気づいたらしい。
颯真くんが立ち止まり、呟くように言った。
「…… 悪(わり) いな、気づかなくて」
「いえ」
「最近、面白えんだ」
彼の顔は、かつての『私』が見てきた同僚たちのそれと同じくらい、疲労の色が濃かった。
だが、瞳には揺るぎない強い意志があり、輝いて見えた。
無邪気な子どものようでもあり、一方で、歴戦の古強者のようでもあった。
矛盾している。
だが、その矛盾が、そこには完全に同居していた。
言葉通り、本当に楽しいのだろう。
それが痛いくらい、よくわかった。
「……そうですか」
ああ、と短く応答する颯真くんは、私に背を向けて立ち去っていく。
「気をつけて」
あの様子では聞こえないかもしれないと思ったが、彼は立ち止まり、無邪気な笑みを浮かべて言った。
「ありがとな、静河」
それが何に対する感謝なのか、私にはよくわからなかった。
「またな」
そう告げて、颯真くんは私に背中を向けた。
「……ええ、また」
私も彼に背中を向け、私は協会を後にした。
宿舎の自室に戻る。
装備の手入れを終え、シャワーで冷えた身体を温めた後、私は夕食の準備に取り掛かった。
まずはスーパーで購入した酒粕。
大根と人参を切り、鍋に水を張って火にかける。
根菜が煮える。
酒粕を椀に取り、出汁で少しずつ溶く。
鍋に流し込み、味噌を合わせる。
湯気が上がり、発酵した香りが部屋に満ちた。
今日、水の中にいたことが、少しだけ遠くなった。
椀によそって、テーブルに置く。
白米も忘れない。
「いただきます」
粕汁を一口すすれば、体の奥まであたたかくなってくる。
「……美味い」
いつか、颯真くんと一緒に、ここで食事をした。
今日見た、あの無邪気な笑顔は、あの時と同じものだった。
——ありがとな、静河。
颯真くんの、それが何に対する感謝だったのか、今もわからないままだ。
だが、それでいいと、私はそう思った。