軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第58話:誘導と称号

朝のダンジョン前の準備広場には、外気と地下からの冷気が混ざり合った特有の湿った風が吹き抜けていた。

壁際のいつものベンチに腰を下ろした私は、本日の業務へ向けた装備の最終確認工程へ移行する。

その作業の最中、広場にいる周囲の探索者たちの視線が、微かにこちらへ向けられている気配があった。

彼らは私の入念な確認作業を観察し、自らの安全基準の参考にしているようだ。

そう、彼ら自身の安全基準の参考だ。

私のやり方をすべて無批判に取り入れているわけではない。

自分の装備や目的に合わせて使えるものを選び、不要なものは省き、自らの責任において判断を下している。

それは、ダンジョンで生き残るための、極めて正しい適応の形である。

「おはようございます、静河さん」

声が聞こえ、視線を向けると、上近少年が歩み寄ってくるところだった。

「おはようございます」

「気づいていますか。静河さんが他の探索者たちに少なくない影響を与えているって」

彼は広場の様子を一瞥してから、少しだけ誇らしげな表情を浮かべて言った。

「僕もそうです」

端が擦り切れた使い込みのメモ帳を取り出し、私に軽く掲げてみせた。

「僕自身が考えて、僕の責任で、行動しています」

その瞳には、自らの足で立つ者としての確かな意志が宿っていた。

私は小さく頷いた。

「ええ、知っています」

「では、静河さん。また」

「……ええ、また」

上近少年は笑みを残し、踵を返してダンジョンの暗がりへと向かっていった。

彼だけでなく、私の準備を観察していた他の探索者たちも、それぞれの意志で決断を下し、次々とゲートの奥へ進んでいく。

私もベンチから立ち上がった。

装備はすべて問題なし。

全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 。

私は息を吐き出し、彼らの流れに続くようにダンジョンへのスロープを下っていった。

本日の目的地は、中層の湿潤エリアだ。

地下水脈の影響で壁面が常に濡れ、大気が重く淀んでいる区画である。

ここに生息する 鉄壁蝸牛(アイアン・スネイル) が、本日の獲物だった。

魔剣による斬撃すら容易く弾く硬度を持つ上、属性グレネードで倒したとしても得られる魔石が極めて小さいため、手間に見合わないとほぼすべての探索者に放置されている割に合わない存在だ。

だが、事前の調査と環境の理解があれば、無駄な資材を一切消費することなく確実に稼ぐことができる。

私は歩幅を狭め、足音を完全に岩肌の反響に溶け込ませながら進んだ。

天井付近のわずかな輪郭の歪みを視覚で捉え、対象の位置を特定する。

これまで幾度となく繰り返してきた業務において記録してきた地図により、この通路の天井の一部に水苔の群生地が存在していることを把握していた。

対象の鉄壁蝸牛は、岩盤を伝わる微細な振動を感知して移動する特性がある。

私は通路の床に転がっていた、握り拳ほどの大きさの石を拾い上げた。

水苔の群生地のさらに奥に位置する岩壁へと狙いを定め、正確な軌道で投擲した。

石が岩壁に激突し、鋭く硬い音が通路に響き渡った。

天井に張り付いていた対象が反応した。

獲物の発した振動音だと錯覚し、音源へ向かって岩肌を這い進み始めたのだ。

私は岩陰に身を潜め、その軌道を静かに見守る。

対象が水苔の群生地に進入した。

その途端、極端な滑りやすさと過剰な水分によって、対象を天井に固定していた粘着液が完全に無効化された。

自重を支えきれなくなった強固な装甲が、天井から剥がれ落ちる。

私はあらかじめ計算していた落下地点から視線を外さなかった。

そこには、鋭利に尖った岩の突起が上を向いて待ち構えている。

凄まじい質量の落下。

岩の突起に対象が激突し、硬質なものが砕け散る重い破壊音が響いた。

落下の衝撃と岩の鋭利さにより、魔剣すら弾く強固な装甲に亀裂が走る。

対象は仰向けのまま床に転がり、重い装甲が災いして自力で起き上がることができず、身動きが取れなくなっていた。

私は油断なく歩み寄り、サバイバルナイフを引き抜いた。

装甲の亀裂から無防備に露出した部分へ、刃を真っ直ぐに突き立てる。

対象は光の粒となって霧散し、小さな魔石だけが後に残された。

持ち込み資材はゼロ。

環境を利用し、確実に稼ぐことができる、完全に黒字の段取りだった。

予定していた目標を達成し、私は地上への帰路についた。

体力の消耗は計算の範囲内であり、帰り道の安全確認に意識を向けていた。

「これは……」

前方の岩場区画から、激しい交戦音と人間の怒声が響いてきた。

私は足を止め、岩壁に身を寄せて状況を窺う。

通路の先で、探索者パーティーがモンスターの群れに完全に包囲され、追い詰められていた。

洞窟猪鬼(ケイブ・オーク) の小規模な群れだ。

発達した筋肉と中途半端な知能を持ち、互いに特有の鳴き声による号令を交わすことで、高度な連携攻撃を行ってくる厄介なモンスターである。

さらには、過去の探索者たちが遺棄した武器や道具を不格好に振り回す個体も混じっている。

しかし、事前の生態データにおいて、彼らが出没するエリアはここから大きく外れていたはずだ。

群れの移動経路に何らかの変化が生じたのだろう。

私は後で手帳に記すべく、この環境変化の事実を記憶の端に留めた。

今は目の前の事態の処理が優先される。

放置すれば、あのパーティーは遠からず全滅する。

彼らが倒れれば、私の安全な帰り道が彼らの遺骸と血の匂いによって汚染され、さらなる捕食モンスターを呼び寄せることになる。

加えて、洞窟猪鬼たちが彼らとの戦闘から経験を得て、より高度な連携や武器の扱いを学習する可能性を摘まなければならない。

バックパックを下ろす時間はない。

私は腰の予備ポーチを開き、そこから複数の小さなプラスチック製の器具を取り出した。

ホームセンターで数百円で購入した、児童用の防犯ブザーだ。

私自身がダンジョン内で遭難し、身動きが取れなくなった際の救難信号として使用することを想定し、常備していたものだ。

私は両手に持った複数のブザーのピンを、親指で次々と引き抜いていった。

甲高い電子音を発生させ始めたそれらを、洞窟猪鬼の群れと岩壁の隙間へ向けて一斉に投擲した。

そこは事前の観察で把握した、最も音が乱反射し、増幅されるだろう空間の座標である。

自然界には絶対に存在しない電子音が、狭い通路の壁面で幾重にも反響し、暴力的とも言える音圧となって空間を満たした。

鳴き声という音の連絡手段に依存して連携していた洞窟猪鬼たちは、その強烈なノイズによって連携が完全に崩壊した。

群れの動きがピタリと止まり、直後に平衡感覚を喪失したように激しくふらつき始めた。

連携の要であった連絡手段を絶たれ、見えない苦痛に襲われた彼らは完全にパニック状態へと陥り、無軌道に武器を振り回して同士討ちを始めた。

その連携の崩壊から生じた隙を、中堅パーティーは見逃さなかった。

彼らは包囲の緩んだ一点を強行突破し、自力での脱出に成功する。

彼らが安全圏へ離脱したのを確認した私は、腰からサバイバルナイフを抜き放ち、混乱の渦中にある洞窟猪鬼の群れへと踏み込んだ。

聴覚を封じられ、同士討ちで傷ついた個体の急所を、無駄な動きを一切省いて次々と突いていく。

最後の一体が光となって消え去り、通路には防犯ブザーの電子音だけが響き続ける。

私は床に転がるブザーを拾い集め、ピンを差し込んで音を止めた。

そして洞窟猪鬼の魔石も回収し、私は帰路へと足を進めた。

探索者協会のロビーへ帰還し、本日の成果を換金カウンターで処理し終えた直後だった。

先ほど岩場区画で助かった中堅パーティーの面々が、私のもとへ小走りでやってきた。

彼らは私の前で足を止めると、深く頭を下げた。

「助けてくれてありがとう」

人違いであると告げようにも、逃げる時、彼らは私の姿を見ていたらしい。

「あの音で洞窟猪鬼が混乱しなければ、俺たちは間違いなく全滅していた。本当に助かった」

彼らのリーダーらしき男が、もう一度頭を下げた。

そして、頭を上げた彼は興奮した面持ちで付け加えた。

「しかも、俺たちが逃げた後、あの群れを一人で全滅させた」

逃げ出した彼らが知りようがない情報をなぜわかったのか。

難しいことではない。

彼らは私が助けに入ったことを知っていた。

ならば、私がロビーに戻ってきた時、私に気づいたはずだ。

そして、私が魔石を換金しているところを見たのだろう。

鉄壁蝸牛の魔石だけでなく、洞窟猪鬼の魔石も。

魔石はモンスターによって微妙に形状が違う。

なので、魔石から私が倒したモンスターを推測したに違いない。

「あなたは命の恩人。そんなあなたに、俺たちはこの名前を贈りたいと思う。『オークスレイヤー』」

英雄に憧れ、目指す探索者の中には、喜ぶ者もいるだろう。

だが、私は違う。

探索者になったのは、この世界で生きていくため、ただそれだけだ。

英雄になりたいと思ったことも、目指したこともない。

「私は、私の帰り道の安全を確保しただけです。音によって生じた隙を突き、パニックにならずに脱出できたのは、あなた方自身の冷静な判断の結果です」

私は彼らが口にした呼び名にはあえて触れず、彼らの生存能力を評価する言葉で応じた。

彼らが何度か礼を繰り返している横を、見慣れた装備の男が通り過ぎようとした。

『赤き戦斧』のリーダーだった。

彼は私たちのやり取りを聞いていたのだろう。

私を見て口角を上げた。

「相変わらず、可愛げのないプロだな。いや、オークスレイヤーって呼ぶべきか」

嫌味で言っているのではないことはわかった。

そこには彼なりの、明確な敬意が存在しているのも感じ取れた。

だが、その芝居がかった呼び名は、日々のリスクを計算し、地道な業務を繰り返しているだけの私の実態とはあまりにも乖離しすぎている。

「その呼び方はやめていただきたい」

私が微かに眉を寄せて不快感を示すと、彼は不敵な感じで笑い、軽く手を挙げてそのまま去っていった。

私は小さく息を吐き出し、彼ら中堅パーティーにも会釈をして、協会を後にした。

宿舎の自室に戻り、夕食にする。

おでんだ。

前日から仕込んでおいた大根、こんにゃく、練り物が、土鍋の中でじんわりと出汁を共有しながら温かな湯気を立てている。

小皿に取り分け、大根を割る。

口へと運んだ。

熱い。

だが、美味い。

私が構築した論理やリスク管理は、他者の理不尽な要求や搾取から自分の身を守るための防波堤、一人で生き抜くための手段だった。

しかし今日、その論理と行動が、結果として他者の生存を助け、確かな敬意として私のもとへ返ってきた。

出汁が具材の奥深くまで染み込んでいくように、私の在り方がこのダンジョンという過酷な環境に、そしてそこで生きようと足掻く人々の間に、少しずつ浸透しつつあるのかもしれない。

不意に、そんな思いが頭をよぎった。

「……オークスレイヤーはやめてほしいですが」

誰もいない部屋で、思わずこぼれた呟きに、私は微かに口元をゆるめた。

「まあ、今日は悪くない日でした」

誰にも届かない呟きを溢し、私は二口目の大根を口へと運んだ。