軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第46話:スタンピードと、直感への信頼

ダンジョン探索者協会のロビーに足を踏み入れれば、空調によって管理された乾燥した空気が私を迎い入れた。

本日の主目的は、『金剛石の回廊』における安全マージン算出のための一次データ収集だ。

私は左に固定したドロップレッグ・ホルダーに触れる。

内部に収まっているのは『対極硬度用・高周波解離ユニット』の改良型である。

対象を処理するためではなく、万が一不測の事態に直面した際に経路を確保するために使用する、いわば保険だ。

環境データを得るため、モニターに向かう私の前に、特徴的な紺色の防塵コートを羽織った二つの人影が立ちはだかる。

企業クラン『アルゴス』のデータアナリストである涼下氏と、リーダーの瀬能氏だ。

私が歩みを止めると、涼下氏が姿勢を正し、深く頭を下げた。

「……静河さん。よろしくお願いします」

彼のその姿勢からは、明確な焦燥が読み取れた。

一方、その隣に立つ瀬能氏は、微動だにしなかった。

私に向ける視線は冷ややか。

彼女にとって私は、自社のエラーを尻拭いさせるための、安上がりな外注業者でしかないという強固な意志表示なのだろう。

かつての『私』の記憶が蘇る。

自らの見通しの甘さを棚に上げ、理不尽な要求を押し付けてきたクライアントの顔だ。

それが彼女のそれと重なる。

年齢も性別もまったく違うはずなのに。

私は息を吐き、意識を切り替える。

他者の傲慢さはこちらの精神的リソースを無駄に削り取る不確定なストレス要因でしかなく、無意味な対人衝突はこれから始まる業務への集中を妨げるだけだ。

私は短い会釈のみで、彼らの横を通り過ぎた。

環境モニターに立ち、その数値を視界に収める。

「……これは」

探索者になって初めて見る、気圧や湿度の異常な数値。

「センサーのエラーでしょうか?」

「じゃないか? だっていくら何でもこんな上がったり下がったりするなんて、普通じゃ考えられないだろ?」

受付カウンターの奥、協会職員たちの会話が聞こえてくる。

センサーのエラー。

なるほど、その可能性は確かに考えられる。

——だが、本当にそうだろうか?

何かが起こっている、その可能性もあるのではないか?

だとしたら、その何かとはいったい——。

考え続けていた私の思考が途絶する。

ダンジョンへと繋がる連絡通路の奥から、探索者パーティーが息を弾ませ、血相を変えながらロビーへと駆け込んできて、叫んだからだ。

「『金剛石の回廊』から……アイソポッドが、アイソポッドの群れが溢れ出してきた!」

ロビーにいた探索者たちが息を呑み、ありえないくらいの静寂が訪れる。

私も例外ではなかった。

だが、かつての『私』が思考を強制的に再起動させる。

今は、そんなことになっている場合ではないだろう、と。

「……なるほど、これか」

環境データの異常な数値はこれを表していたのだ。

私の視界に、権藤さんがカウンターの奥で動くのが見えた。

「改訂規則だ!」

それは私も制定に関わった、事前のデータに依存しすぎず、現場の一次情報を最優先とした撤退判断。

的確な初期対応だと私も思ったのだが、それが無意味であると、探索者のさらなる言葉が告げる。

「奴らは上を! ここ、地上を目指して……壁を登ってきてるんだ!!」

再び訪れる静寂の中、誰かの掠れた声による、

「スタンピードだ……」

という呟きが大きく響き渡る。

それはダンジョンから無秩序にモンスターが溢れ出す、最悪の災害。

探索者たちの、いや、ここにいるすべての者たちの中にあった、「ここは大丈夫だ」という安全神話が崩壊する。

「おい、おいおいおいおい! どうするんだよ!?」

「ど、どうするって——そんなの俺にわかるかよ!」

恐怖が伝播し、普段は勇猛果敢にモンスターたちに立ち向かう探索者たちが恐慌状態へと陥っていく。

想定を超えた事象の発生に、権藤さんでさえも一瞬、次に出すべき指示を見失い、強張った表情で絶句を余儀なくされていた。

「——というか、アイソポッドなんだよな、ここに向かってきてるのって。なら、『アルゴス』のせいじゃねえのか?」

その一言は探索者たちの心に波紋を広げた。

「あいつらがアイソポッドを狩りまくったから——」

「イレギュラーな個体が増えてるって注意喚起の張り紙が——」

「そうだ、あいつらが余計なことをしたから——」

探索者たちの視線が『アルゴス』に、瀬能氏、涼下氏、それ以外の部隊の者たちに突き刺さる。

涼下氏は顔色を悪くして瀬能氏を見る。

彼女は唇を強く噛み締めていた。

「——ッ」

何かを言おうとした。

だが、それは言葉になることはなく、ただ息として漏れるだけだった。

「お前らがやったことなんだ。ならお前らが責任を——」

誰かが決定的な一言を口にしようとしたその瞬間、暴力的なまでの大音声が轟いた。

「そんなこと言ってる場合じゃねえだろうが……ッ!!」

背中に大剣を背負った颯真くんだった。

腹の底から放たれたその声は、まるで物理的な衝撃波となって、人々の思考を支配し始めていたパニックの連鎖を強制的に断ち切るようだった。

「権藤さん、どうするッ!?」

彼は余計な言葉を挟まず、視線と短い問いだけで、現場の最高指揮官へと次なる判断を促した。

この一連の激しい喧騒の中、私はずっと思考していた。

『金剛石の回廊』からの最短距離、そしてフォートレス・アイソポッドの移動速度から割り出せる登攀速度。

変数を脳内のテーブルに並べ、対象の群れが地上に到達するまでの猶予時間を算出する。

「……残された時間は決して多くはない」

だが、

「ゼロでもない」

私が呟くと同時に、颯真くんの叫びによってプロフェッショナルとしての意識の切り替えを行った権藤さんが、備え付けられたマイクを力強く握りしめた。

『全探索者へ緊急通達! 中層境界線、および大竪穴上部に絶対防衛線を構築せよ! これは全探索者に対する協会からの緊急防衛命令である……!』

スピーカーから放たれた声と同時に、天井に設置されていた赤色灯が激しく回転を始める。

『アルゴス』を——瀬能氏や涼下氏を睨みつけている探索者は、まだ一定数いた。

だが、彼らはそれぞれの武器を手に走り始める。

協会の命令を遂行するために。

そんな彼らを横目に捉えながら、私はいつものベンチに赴く。

状況は最悪に近い。

だが、焦りは取り返しのつかないミスを生む。

腰を落ち着け、安全靴の紐に指をかけた。

張力をミリ単位で確認し、結び目を限界まで固く締め直す。

さらに、いつものルーティンを行なっていく。

ただし、いつもと違って迅速に。

防衛線が突破され、地上へと脅威が溢れ出すのを阻止することは、名誉のためでも、誰かを救い、英雄になるためでもない。

私がようやく手に入れたこの平穏な日常と生活基盤が物理的に消滅するのを防ぐための必須の業務である。

ドロップレッグホルダーの中に収められた改良版『対極硬度用・高周波解離ユニット』の確かな感触を確認。

「 全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 」

私は立ち上がり、防衛線となる境界線へと向かって、静かに一歩を踏み出した。

中層境界線付近の通路は、すでに異常な空気に支配されていた。

視界の先で、最前線の防衛線が構築されている。

探索者たちの中には、大剣を振るう颯真くんが、上近少年が、『赤き戦斧』が、『蒼穹の翼』がいた。

その後方には、『アルゴス』の部隊が壁のように横一列に展開していた。

地響きとともに通路の奥から押し寄せてくるモンスターの群れ。

フォートレス・アイソポッドが地上を目指すことで、追い立てられたのだろう。

探索者たちが、高コストな魔石駆動兵器である魔道具を次々と使用する。

炎属性の魔石を粉末にし噴出。

それに着火することで、普通では考えられない凄まじい勢いでモンスターを焼き尽くす火炎放射器。

氷属性の魔石を臨界爆発させる投擲弾——氷結グレネード。

莫大な資金を消費する魔道具による攻撃が、前方の空間を蹂躙する。

先頭のモンスターたちが光の粒となって霧散していく。

魔石が落ちるが拾っている余裕も、隙もない。

何より、落ちた魔石は、新たに現れたモンスターたちによって踏み躙られ、砕け散る。

防衛線は機能している。

このまま迎撃を続けていけば、なんとかなるのではないかという希望が、探索者たちの間に生まれる。

実際、彼らの顔にはロビーの時にあったような悲壮感はなく、余裕すら漂い始めていた。

「お前ら、余裕こいてんじゃねえ! こいつらは余波だ!」

颯真くんの言うとおりである。

本隊はこのモンスターの後からやってくる。

まずやってきたのは唸りだった。

やがて空気を震わせる地響きに変わって——。

「……来やがった」

颯真くんの声に緊張感が走る。

本隊が、フォートレス・アイソポッドの群れが現れた。

探索者たちは顔から余裕を消し、再び魔道具を使用する。

火炎放射器が——。

各属性の魔石を使用した、爆炎、氷結、暴風、崩岩グレネードが——。

次々とアイソポッドを処理していく。

「いける……! 勝てるぞ……!」

誰かが呟き、他の探索者たちがそれに応答する。

防衛線の士気は高い。

それ自体はいいことだ。

だが、私はそのアイソポッドの濁流の動きに違和感を覚えていた。

本来、スタンピードとはパニックに陥った群れの無秩序な暴走だ。

実際、先程までのモンスターの群れはそうだった。

目の前の群れの動きはどうだ。

前列が倒れれば次列が。

その列も倒れればさらにその次の列が。

的確に隙間を埋めていく。

そして、防衛線の薄い箇所へ圧力をかけるという、明確な指向性が存在していた。

「群れは……統率されている」

少し離れた場所で、端末の画面を凝視していた涼下氏が呻くように言った。

『アルゴス』のシステムが収集したセンサーのデータが、私の観察結果を裏付けた。

私はさらに群れを詳しく観察した。

巨大なイレギュラーたちの密集地帯があった。

彼らはまるで自らを盾にするように陣形を組み、中心にある何かを守護しているかのようだった。

だがいったい何を守護している?

目を凝らす。

陣形の隙間に見えた。

その姿が。

標準個体とは比較にならないほど、極端に小さな個体だった。

あれが、この暴走の根源ではないか。

その時、中堅探索者の一人が、その密集地帯へ向けて大型の爆炎グレネードを投擲した。

空気が急激に圧縮され、強烈な閃光と爆発が通路を駆け抜けた。

極小個体を護っていたイレギュラーたちが、その衝撃に耐えきれず、次々と吹き飛ばされていく。

土煙が舞い、視界が隠される。

「やってやったぜ……!」

探索者の誰かが叫び、土煙が晴れた時、その場にいた全員の呼吸が凍りついた。

クレーター状にえぐれた地面の中心。

極小個体が鎮座していた。

全くの無傷で。

むしろ巨大な個体が排除され、露わになったその個体の表面装甲は見たことがないほど艶やかだった。

立て続けに別の魔道具が放たれるが、結果は同じだった。

最前線の攻撃の手が、その事実から発生した衝撃によって完全に停止する。

その数秒の空白の間に、後方から巨大な個体の群れが現れ、先ほどよりもさらに分厚く、強固な防壁を極小個体の周囲に構築する。

私は思考を止めず、加速させる。

強固な守護陣形と、異常な耐久力。

あの極小個体がこの暴走の中心——他の個体を統べる『統率者』である確率は、極めて高い。

ならば、あの『統率者』を処理すれば、この暴走は収まる。

魔道具による攻撃は届かなくても、物理的な分子結合の解離を行う私のユニットを使用すれば、処理できるだろう。

探索者たちによる魔道具の波状攻撃で、再び中心を露わにして、突入する。

そしてこれまでそうしてきたように処理すればいい。

——だが、あれは本当に『統率者』なのだろうか。

——万が一、あれが単なる囮で、真の『統率者』が別に存在していたら?

突出した私の生存確率は絶望的だ。

……データが足りない。

涼下氏を見れば、彼も私を見ていた。

その瞳には焦りがあり、『アルゴス』の解析力をもってしても解を導き出すことができないようだ。

——実行すべきか、否か。

答えが出ない。

ゆえに、一歩が踏み出せない。

その時だった。

最前線で大剣を振るってアイソポッドを倒し続けていた颯真くんが、猛然と叫んだ。

「あいつが親玉だッ!」

彼の怒号が、戦場を切り裂いて私の鼓膜を叩いた。

根拠のない断言。

客観的データに基づかない、純粋な直感。

かつての『私』なら、そのような不確定な要素を意思決定のプロセスに組み込むことはあり得なかっただろう。

だが、私は知っている。

彼のその直感が、ダンジョンという死が常に隣りにある環境下において、どれほど正確に最適解を導き出してきたかを。

でなければ、彼は今、ここにいない。

未帰還者リストに名を連ねている。

「魔道具は役に立たねえ! けど、静河! お前なら! お前の 秘密兵器(グングニル) ならやれる……ッ!」

私は、彼の直感を極めて精度の高いデータとして採用した。

「……言ったはずです。これはただの工業製品だと」

小さく呟いたはずだった。

なのに颯真くんが楽しげに笑うのが見えた。

「……処理を実行します」

その言葉に、涼下氏が驚愕に目を見開いていたが、どうでもいいことである。

私がユニットを取り出せば、『統率者』に向かう道を作るため、颯真くんの指示で、探索者たちが魔道具による波状攻撃を行う。

再び、『統率者』が剥き出しになる。

「『アルゴス』! 静河の壁になれッ!」

颯真くんが叫ぶ。

それは巨大な個体が『統率者』を守護しようと三度集まるのを阻止せよという命令だった。

私の行動に驚いていた涼下氏が我に返り、叫ぶ。

「お前に自分たちの指揮権はない!」

その言葉に彼女は——瀬能氏は同意した。

「ええ、そうね」

涼下氏が頷いた、その瞬間、瀬能氏が告げる。

「だから、わたしが命令します! 彼の言う通りにしなさい……!」

『アルゴス』の部隊が、巨大な盾を構えたまま前進を開始。

『統率者』を守護しようと左右から押し寄せようとしていたアイソポッドの質量を、強固な装甲で受け止める。

颯真くんや上近少年、『赤き戦斧』、『蒼穹の翼』——その他、多くの探索者たちが、それを援護するように群れの、『統率者』の意識を引き付ける。

「行け、静河——ッ!」

颯真くんが叫ぶ。

私は走り、『統率者』の死角に向かう。

装甲の継ぎ目がないかのように滑らかな表面。

だが、そんなことはあり得ない。

「……ここだ!」

見つけた継ぎ目に、私はユニットの振動ホーンを押し当て、スイッチを入れた。

魔道具による攻撃を無効化する外殻も、物理的な分子結合の解離には抗えなかった。

硬質な音とともに、装甲の一部が反り返るように浮き上がった。

生じた僅かな隙間。

私はもう片方の手でサバイバルナイフを抜き放ち、その深部へと刃を突き立てた。

柄まで沈み込んだ確かな手応え。

極小個体の動きが完全に停止する。

やがて、『統率者』は光の粒となって霧散し、小さな魔石だけが床に転がった。

『統率者』を失った群れは崩壊した。

整然とした陣形は意味を成さなくなり、互いにぶつかり合い、ただ本能のままに這い回る烏合の衆へと成り下がる。

「システムの安全装置を解除しなさい」

瀬能氏の指示が響いた。

「代表それは……! 本社の機材保護命令はどうするのですか……!?」

『アルゴス』の機材は、おそらく数億円規模だ。

ダンジョンという環境で、その安全装置を解除するということは、その機材に決して無視できない深刻なダメージを与えるはずだ。

「本社の命令は無視しなさい!」

涼下氏の制止を振り切った瀬能氏の命令により、『アルゴス』の機材群から、リミッターを外した排気音が吹き上がった。

「制圧しなさい!」

機材が発する過剰な排熱の唸り。

生き残った個体——イレギュラーも含めたそれらが、文字通り一掃されていく。

残存していたアイソポッドたちは、為す術もなく次々と光の粒へと変わっていった。

スタンピードは鎮圧された。

生き残った探索者たちから、地鳴りのような歓声が上がる。

アルゴスの部隊員たちは、限界を迎えた機材の横で、その場にへたり込んでいた。

私はユニットの電源を落とし、ホルダーへ収めた。

床に落ちていた極小個体の魔石を拾い上げ、布片で汚れを拭う。

大役を果たしたという達成感はない。

生活基盤を脅かすものを排除するという、本日の追加業務を完了したに過ぎないのだから。

颯真くんが私を見て、頷いた。

私も頷き返す。

そして私は、探索者たちの喧騒から離れる。

「……今日の夕食は鶏肉と根菜の黒酢炒めにしましょう」

夕食の献立を決め、私は私の日常へと向かって、淡々と歩みを進めた。