作品タイトル不明
第44話:職人の気遣いと次期案件の打診
本日の業務を終え、私は探索者協会直営宿舎の個室へと帰ってきた。
帰宅後に行う手洗いを含めたルーティンをすべて終え、夕食を作る。
完成したのはレバニラ炒めだ。
「……うまい」
これはかつての『私』が気に入っていた町中華の味を、かなり完璧に近い形で再現したものだった。
以前、颯真くんにも振る舞ったことがあるのだが、彼も気に入ったようで、一口頬張った直後、無言で完食する姿は圧巻の一言だった。
さて、食事とその後片付けを終え、次に私が取り掛かるのは、明日の業務に向けた予防保全である。
ダイニングテーブルは半分を食事用のスペース、残りのもう半分を耐油性のマットを敷き詰めた装備の手入れのための専用区画として割り当てており、防錆油、砥石、予備の電池、防毒マスクの交換用フィルターなどが並んでいる。
私は帰宅後、マットの上に置いたサバイバルナイフを鞘から引き抜き、刃こぼれを目視で確認する。
刃こぼれなどがあれば研ぐ必要があるが、
「……問題なし」
防錆油を少量垂らし、専用の布片で刃の根元から切っ先へ向けて、薄く塗り伸ばしていく。
毎朝、ダンジョンに入る前にも確認しているのに、夜も同じようにするのかと、もしこの作業を他の探索者が見ていたら口にするかもしれない。
だが、日々の業務によって疲労した脳と肉体で行う点検には、どれほど注意深く行ったとしても、人為的な見落としが混入するリスクを排除できない。
夜のメンテナンスだけで完全な安全が担保されたと見做すことができない以上、ダンジョンに入る直前にもう一度確認するのだ。
過酷なダンジョンで生き残るためである。
すべてのメンテナンスを終え、私はダイニングキッチンから、奥のリビングに移動する。
そこにあるのはベッドと、業務記録をつけるための簡素な机。
その机の前に座り、私は手帳を開いた。
本日の一次データと、明日のタスクを書き込もうとした時、机の端に置いたスマートフォンが短く震えた。
画面に表示された名前は、種田精密だ。
私が出れば、
「……できた。取りに来い」
通話はそれだけで切断された。
以前発注していた、アイソポッド用の『対極硬度用・高周波解離ユニット』の改良版が完成したらしい。
不器用な種田氏の声に、かつての『私』の感傷が蘇り、少しだけ苦笑する。
「明日、ダンジョンに向かう前に行きましょう」
そのことを、明日のタスクとして手帳に書く。
その後、今日得た一次データをすべて手帳に書き終えた私は、部屋の照明を落とすと、ベッドに入って明日の業務に備えて目を閉じた。
翌朝。
冬の気配が混じり始めた冷たい空気の中、私は種田精密へとやってきた。
「あ、静河さん、おはようございます!」
引き戸の前を、箒とちりとりで掃除していた作業着姿の若者が挨拶をしてくる。
私の年齢が彼より下だと知った後、彼は私のことを君付けで呼ぼうとしたのだが、
『あー、無理です! ごめんなさい!』
となぜか謝られる結果になった。
「社長なら中で待ってるので、どうぞ入ってください」
「ありがとうございます」
私は彼に挨拶を返し、引き戸を開けて中に入った。
いつ来ても、油と鉄の匂いに満ちている。
いつもの奥の作業スペースに向かえば、若者の言葉通り、そこには種田氏がいた。
私を一瞥した彼は、
「来たか」
そう言って、すぐに作業台の上に視線を移した。
「そこにある」
「改良版ですね」
「ああ」
私は近づき、『対極硬度用・高周波解離ユニット』を手に取った。
持ち手のグリップ感、重心のバランス。
手首への負荷を分散させるための設計が、寸分の狂いもなく実装されている。
そして今回の改良版の一番の特徴である、熱膨張対策として再設計された放熱フィンも、仕様書通りに最適化されていた。
改めて種田氏の職人としての技術の凄まじさを実感していると、
「聞いた」
と種田氏が言う。
ユニットから視線を移せば、
「『アルゴス』が市場を荒らしているらしいな」
彼は私を真っ直ぐに見据えていた。
「俺の道具が通用しなくなったせいで、逃げ出したわけじゃないだろうな」
挑発ではないだろう。
彼との付き合いは決して長くはないし、それこそ言葉をかわしたことも数えられるほどだが、それでも彼がそんな人物ではないことはわかっているつもりだ。
これは彼なりの不器用な気遣いに違いない。
胸の奥に湧き上がる感情はあるが、それをそのまま吐き出したりはせず、これまで彼と応対してきたままで告げた。
「違います。『アルゴス』の介入により、『金剛石の回廊』の環境リスクが私の許容値を超えた、ただそれだけのことです」
私の言葉に、種田氏は「……そうか」と言った後、
「……使わないのか」
「現在の主戦場では、使用しません」
私はユニットを丁寧に持参した布で包み、バックパックへ収めた。
「ですが、将来的な環境変動に備えた、確実な予備として手元で厳重に保管します」
ダンジョンは常に変動する。
いつか再び、あの極大硬度に対する解体工具が必要となる日が来るかもしれない。
その時のための、これは最高の保険だ。
種田氏はしばらく私を見つめていたが、やがて短く鼻を鳴らし、無言で頷いた。
「それよりも、種田さん」
私はバックパックのサイドポケットから、使い込まれた手帳を取り出した。
ページを捲り、以前赴いた極寒冷エリア『 白霜の凍谷(フロスト・キャニオン) 』での観測データを彼に示す。
「新たにデータ収集を行ったエリアの一次データです」
私は数値を指で示しながら、状況を説明する。
「極低温下における、既存バッテリーの深刻な電圧降下。猛吹雪によるコールドドラフトの発生。そして……」
私は先行探索者が行っていた戦闘行動の記録を示す。
「あのエリアに生息する白霜狼を熱で融解させ、直後に物理的な破壊を叩き込む 複合機材(パイルバンカー) の運用データです」
種田氏の目が、その記述に釘付けになった。
「あのエリアにおいて、既存の機材は対応できません」
私は手帳を閉じ、彼を見据えた。
「遠からず、あの過酷な環境に適合する、新たな専用機材の設計を打診することになるでしょう」
これは次期事業領域への明確な布石だ。
現場の変数を抽出し、職人の技術とすり合わせることで、新たな最適解を構築する。
種田氏は腕を組み、無言で宙を睨みつけた。
そして、ただ一言、彼は告げた。
「仕様書をまとめておけ」
「ええ。後日、改めて提出します」
私は深く一礼し、種田精密の重い引き戸を引いて外に出た。
ちょうど掃除を終えた若者に別れの挨拶をし、一度、宿舎に戻ることにした。
最高の保険を置いてくるためだ。
いつもより若干遅れて準備広場に到着すると、そこには相変わらずの喧騒が広がっていた。
装備の擦れる音や、探索者たちの雑談、噂話、情報交換する話し声。
私はいつものベンチへ向けて歩を進める。
一人の女性探索者とすれ違った。
小柄だ。
顔立ちもどこか幼く感じる。
だが、彼女の佇まいは古強者のそれだった。
彼女は協会の職員と挨拶を交わし、レンタルスペースのある方へと向かっていく。
おそらく、そこに彼女の装備があるのだろう。
私のように宿舎や自宅に持ち帰る探索者もいるが、レンタルスペースに装備を預けていく探索者もいる。
颯真くんはそのうちの一人だ。
私は彼女から視線を外す。
ベンチまでやってくると、腰を下ろした。
本日の業務を開始するための、最終確認工程へ移行する。
すべて問題なし。
「 全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 」
立ち上がる。
本日の業務を終え、無事に帰還できたなら、夕食は何にしようか。
冷え込みが厳しくなってきた。
白菜と豚肉を交互に重ねた、熱いミルフィーユ鍋がいいかもしれない。
生姜、あるいはニンニクを入れてもいい。
私は、私が私として生きていくための平穏な日常を維持すべく、確かな足取りでダンジョンへと足を踏み入れた。