軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第41話:インフラの共有とダンジョンの変化

中層の奥深く、地下水路区画からさらに分岐した先にある『泥濘の迷宮』。

私はそのかなり手前で足を止め、首から下げていた防毒マスクを顔面へと押し当てた。

後頭部のストラップを左右均等な力で引き絞り、顔の輪郭に密着させる。

吸気口を掌で完全に塞ぎ、ゆっくりと息を吸い込んだ。

マスクが顔に吸い付き、外気が一切流入しないことを確認する。

「……よし」

私は改めて歩行を再開し、湿り気を帯びた岩肌に沿って進む。

足元の岩盤は徐々に途切れ途切れになり、やがて重い粘性を持った泥へと変わっていく。

エリアに到達していなくともモンスターは徘徊していて、突然現れることがある。

それ以外にもダンジョンにはトラップが存在していて、気を抜くことはできない。

これまでそうしていたように、前後左右、さらに上下にも注意を払っていたからこそ、それに気づくことができた。

泥の表面に、不自然な凹凸が連続して刻まれていた。

モンスターの足跡ではない。

私が使用している安全靴のそれとは違う、トレッドパターン。

……誰かがいる。

この先、『泥濘の迷宮』に。

「……この泥の輪郭の崩れ方と、底に滲み出している水分の濁り具合から推測すると、通過してから、まださほど時間は経過していないですね」

さらに推測できる情報があるとすれば、単独ではないこと。

歩幅や踏み込みの深さの違いから、少なくとも三人以上の集団だと判断できた。

企業クランである『アルゴス』が『金剛石の回廊』で特殊機材を用いたシステムを機能させ、安定した稼働を続けているという事実は、すでに多くの探索者の知るところとなっている。

紺色の装備を身にまとった『アルゴス』を嘲笑う者は、もはや存在しない。

それと同時に、私がこの劣悪な環境下で着実な成果を上げ続けているという事実が、換金カウンターのやり取りなどから判明し、『泥濘の迷宮』が不採算エリアではないという認識が探索者たちの間に広まったのだろう。

遠くない未来にそうなるとは予想していたので、驚きはない。

私は息を吐き出し、意識を切り替え、移動を再開した。

複数のくぐもった話し声が聞こえてくる。

私は岩壁の陰から前方の空間を視界に収めた。

私が壁の基部に鉄の楔を打ち込み、合成樹脂板を渡して構築した移動用のインフラ。

その上を、防毒マスクをした三人組の若い探索者パーティーが慎重な足取りで進んでいた。

彼らの一人がしゃがみ込むのが見えた。

足場板を支える楔の一つが、地盤の緩みによって僅かに抜けかけている。

彼は腰からハンマーを取り出すと、岩の隙間へ向けて、楔を叩き込む。

板のガタつきが収まったことを靴底で確認し、仲間に向かって頷いてみせた。

『泥濘の迷宮』は私が領有しているわけではないし、私が構築した足場にただ乗りすることも問題はない。

利用者が増えたからといって、足場板そのものが即座に摩耗して崩壊するわけではないし、私も他の探索者がダンジョン内に設置したものを利用することもある。

彼らは保守点検を行い、現場の維持に貢献しようとする、極めて善良な利用者だ。

それでも、問題は発生する。

彼らが移動のたびに立てる装備の摩擦音、不用意な話し声。

それらが泥の海の奥へと拡散していく。

前方の泥の表面が不自然に波打ち、マッド・ゴーレムが姿を現した。

私には、ここでマッド・ゴーレムや水棲モンスターを繰り返し処理してきたことで、効率的な業務フローが完成していた。

岩を投げるなどして、微小な環境ノイズで安全な位置まで誘導。

化学凝固剤で迅速に拘束。

そして処理。

しかし、対象は探索者たちが放つ過剰な騒音と気配に反応し、こうして出現し、さらには別の方向からもまた違う個体が現れ、探索者たちに襲いかかる。

私が組み上げた業務フローが、同一エリアに発生した制御不能なノイズによって完全に機能不全に陥る。

文句はない。

彼らも私と同じ。

生き残るために、ただ必死なのだ。

私は自らが時間と経費をかけて構築した合成樹脂の足場を一瞥した。

「あそこに投下した初期投資への未練はないか?」

ない、とそう断言できる。

すでに機能しなくなったインフラに固執し、時間を浪費し続けることは、赤字を垂れ流すだけの致命的なエラーである。

私はバックパックから手帳を取り出し、開く。

今月の生活費と、今後の運用資金の残高。

このエリアを即座に放棄し、新たな採算ルートの選定と地質調査に一週間の猶予を費やしたとしても、私の生活基盤が揺らぐことはない。

「……なら、答えは一つ」

私は手帳を閉じ、戻すと、バックパックのベルトを締め直した。

「損切りです」

私は踵を返した。

ダンジョンには、探索者たちが見向きもしない不採算エリアや、未踏のルートがまだ無数に存在している。

私は本日の業務内容を、いつもの魔石の回収から、別エリアのデータ収集と環境調査へと切り替えた。

『泥濘の迷宮』から外れると、私は防毒マスクを外した。

事前の調査項目をすべて消化し、私は定刻通りに地上へと帰還した。

探索者協会のロビーは、夕刻特有の熱気と様々な臭いで満ちていた。

本日は調査業務だったため、移動途中でやり過ごすことが困難なモンスターを数体処理しただけであり、当然、魔石の数も、その数体分しかない。

換金カウンターの前に伸びる列に並び、私の番がやってくると、すでに馴染みと言って差し支えないほど顔を合わせてきた係員が、

「静河さん、今日の魔石は——え、これだけ、ですか? え、本当に!?」

私が出した数個の魔石に驚きを隠せないでいた。

その反応があまりにも大きかったため、さすがの私も少しだけ苦笑し、

「ええ、これだけです」

と応答し、査定を受けて、買取金を口座に振り込んでもらった。

ここ最近の納品数のことを思えば、確かに微々たるものだが、

「……初めてダンジョンに入った時は、こんなものでした」

小さく呟き、明細を受け取った私は出口へと向かう。

と、背後から、金属の装甲が擦れ合う騒がしい音が近づいてきた。

「師匠!」

こんなふうに私を呼ぶのは彼らしかいない。

足を止め、振り返れば、やはりそうだった。

使い込まれた装備を身に纏う若者たち、『蒼穹の翼』だ。

リーダーの青年である、 君塚(きみづか) 伊織(いおり) が口を開く。

「師匠、いつもみたいに魔石を納品してなかったけど、どこか調子でも悪いのか?」

「ありがとうございます。ですが、ご心配には及びません。ただ、本日は事前のデータ収集業務に切り替えたため、納品する魔石が少なかっただけです」

「そっか——って、データ収集? いつもの泥エリアは? あそこなら確実に稼げるって言ってただろ」

私は、今日あったことを彼らに伝えた。

すると、伊織くんだけでなく、他のメンバーの表情も一瞬で赤く染まった。

伊織くんはロビーに響き渡る声で叫んだ。

「ちょ、譲った!? 師匠が苦労して資材を運び込んで作った足場だろ! なんでタダでくれてやるんだよ! 俺たちなら絶対に利用料を取るか、力ずくでも追い出してるぜ……!」

なあ、と伊織くんがメンバーたちに問えば、彼らも口々に同意の声を上げた。

「師匠は心が広すぎるぜ!」

彼らの目を見ればわかる。

本気で言っている。

私自身が被った不利益に対し、彼らは自分たちのことのように怒り、熱を上げてくれている。

胸の奥に、彼らの熱が伝播した。

「ありがとうございます」

そう言うと同時に、私は静かに息を吐き出した。

「しかし、問題ありません。ダンジョンには、まだ誰も手をつけていない不採算エリアがありますから。新しい場所を開拓し、自分の手順を構築すればいいだけです」

私が告げると、彼らは毒気を抜かれたようにぽかんと口を開けた。

やがて、伊織くんが呆れたような、それでいて純粋な称賛の入り混じった笑みを浮かべた。

「やっぱり師匠はすげえぜ。見てるスケールが俺たちとは全然違う!」

彼らと別れた後、そのまま出口に向かうつもりだった私の視界に、壁面に設置された掲示板が入った。

「……あれは」

そこには、朝にはなかった数枚のプリントがあった。

近づき、見る。

一枚は、魔石買取価格の変動相場表。

もう一枚は、特定エリアにおけるイレギュラー個体遭遇の注意喚起だった。

私はバックパックから手帳を取り出し、二つのプリントに記された数値を並べて書き写していく。

同時に、頭の中でグラフ化する。

中層で産出される特定の魔石、その標準サイズの買取価格が、ここ数日で極めて安定した推移を見せている。

いや、違う。

安定というより、市場への過剰な供給によって価格の上値が完全に押さえ込まれている感じだ。

隣の注意喚起のプリントに視線を移す。

『金剛石の回廊』において、規格外の超大型個体、あるいは極端な小型個体といったイレギュラーなモンスターとの遭遇報告が増加傾向にあるというものだった。

「……なるほど」

『アルゴス』が当該エリアでシステムを稼働させ、標準的な体躯を持つフォートレス・アイソポッドを効率的に狩り続けている。

その結果が、この相場表の数字であり、注意喚起だった。

彼らのシステムは、マニュアルから外れた規格外の個体を対象外として弾き、処理を放棄している。

その結果、標準個体という競合が間引かれた環境で、放置されたイレギュラーな個体だけがエリア内に蓄積され、活発化し始めているのだろう。

私は協会の外へ出て、夕暮れというには暗い空の下、冷たい外気を胸いっぱいに吸い込んだ。

スーパーマーケットへ寄って帰ろう。

今日は特売の豚肉を買い、大根と一緒に鍋でじっくりと煮込むのがいいのではないか。

ダンジョンは固定された舞台ではない。

人とモンスターの物理的な干渉によって、常に変化し続ける流動的な現場だ。

『アルゴス』の局地的な最適化がどのような変数を生み出すか、すべてを予測することはできない。

だが、未来の変数がどれほど不確実であろうと、私の取るべき行動は変わらない。

温かい食事を摂り、睡眠を確保する。

その平穏な生活のサイクルこそが、私が守るべき唯一の事業なのだ。