軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第40話:再参入、そして並走する二つの正解

朝の準備広場は探索者たちの熱気に満ちていた。

私はいつものベンチに腰を下ろし、業務開始前の最終工程へ移行していた。

一つひとつの確認作業を丁寧に、ミスなく行っていく。

そして最後。

本日向かうエリアに必須である、防毒マスクとその交換用フィルター、さらに化学凝固剤のボトルをチェックする。

「すべて問題なし」

全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 。

私がベンチから立ち上がった時だった。

広場の喧騒を切り裂くように、規則正しい足音が現れた。

紺色で統一された防具を纏い、胸元にエンブレムを光らせる集団。

企業クラン『アルゴス』だった。

ダンジョンで機材を熱暴走させた『アルゴス』はあれから一ヶ月近く、その姿を現すことはなかった。

彼らのダンジョンからの撤退を嘲笑う探索者もいれば、自分たちの生活が脅かされずに済んだと胸を撫で下ろす探索者もいて、その反応は実に様々だった。

私は、私が生きていくための、日々の業務を淡々と行っていた。

『アルゴス』が現れようが、現れまいが、私がやるべきことに変わりはないからだ。

だが、今日。

再び、彼らは現れた。

ここ、ダンジョンに。

先頭を歩く瀬能氏と涼下氏の顔には、以前のような浮ついた自信は見られなかった。

代わりにあったのは、研ぎ澄まされた緊張感だった。

周囲の探索者たちが一ヶ月近く前の、彼らの失敗を蒸し返して嘲笑の声を上げている。

また機械を熱暴走させにきたのか、と。

だが、私の見立ては違う。

以前の筐体とは異なり、放熱用のフィンが増設され、ケーブルの取り回しが歩行の邪魔にならないよう最適化されているのが目視できる。

彼らが考えた結果がそこにはあった。

私は息を吐き出し、意識を切り替える。

「……私がやるべきことをやりましょう」

ダンジョンに向かおうとしたのだが、こちらに向けられる視線に気がついた。

瀬能氏だ。

私を見つめ、だが何も言わず、進むべき方へと顔を向けてしまう。

そしてもう一人、私を見ている人物がいた。

涼下氏である。

彼も瀬能氏のようにするかと思われたが、列から外れ、私の前までやってきた。

「お久しぶりです、静河さん」

「ええ、お久しぶりです」

「ダンジョンの変数を組み込み、システムを最適化しました」

そう告げる彼の声に、表情と同じく、以前のような雰囲気は感じられなかった。

「……最適化、ですか」

それは机上の空論をダンジョンに適合させるための試行錯誤の完了を意味する。

私は彼を真っ直ぐに見返し、尋ねた。

「現場のオペレーターへの裁量権、つまり不測の事態における手動介入の権限は付与されているのでしょうか」

「規定値を超えた際の即時損切り権限を付与しました」

涼下氏の回答に、私は小さく頷いた。

彼らは莫大な資本による力押しを捨て、ダンジョンのイレギュラーを許容し、被害を最小限に抑えるための撤退ラインをマニュアルに組み込んだのだ。

涼下氏が会釈し、列に戻っていく。

『アルゴス』がダンジョンの暗がりへと飲み込まれていく。

他の探索者たちは、まだ彼らを嘲笑っている。

だが、私は事実を確認した。

彼ら『アルゴス』が本気でこのダンジョンという環境に適応したという、明確で強固な事実を。

上近少年と颯真くんが、探索者たちの中から抜け出し、私のもとへ歩み寄ってくる。

朝の挨拶を交わし、上近少年が聞いてくる。

「静河さん。『アルゴス』はまた無理をして熱暴走を起こすんでしょうか」

私は首を横に振った。

「いいえ。——以前、私はあなたに『彼らのシステムは遠からず立ち行かなくなる』と伝え、事実、初期仕様の彼らは一度破綻しました」

上近少年が頷く。

「しかし、私の予測には一つ、重大な計算違いが含まれていました」

計算違い? と上近少年だけでなく、颯真くんも声に出して聞いてくる。

私は再度頷き、彼らに告げた。

「『アルゴス』の企業としての在り方です」

上近少年が不思議そうに首を傾げる。

わからないのも無理はない。

彼は、かつての『私』ではないのだから。

「これでいけると上層部が一度承認した計画を、現場の都合で、やはり撤退しますと覆すことは事実上許されない。現場の状況を無視してでも、計画通りにやれと強行し続けるのが、一般的な巨大組織の病理です」

かつての『私』も経験したことだ。

「仮に計画を見直し、現場に撤退の権限を認めるには、各部署の承認や責任の所在確認など、組織特有のしがらみによって膨大な時間を要し、その結果、手遅れになる。だからこそ、遠からず立ち行かなくなると私は推測していました」

「……なるほど。現場の悲鳴より、上の顔色ってやつか」

颯真くんが呟く。

「しかし、彼らはその組織の硬直化を一ヶ月かからず突破し、致命的な欠陥をシステムから排除してきた」

これはかつての『私』の経験則を上回る、組織としての有能さに違いない。

「データが更新された以上、かつての自滅するという予測は棄却されます」

つまり、と私は新しい予測を口にした。

「彼らは今後もここ——ダンジョンで、機能し続けるでしょう」

「……なるほどな。あいつら、ただデカいだけの馬鹿じゃないってことか」

颯真くんが険しい表情になる。

「でも、静河。そんな有能な大企業が本気でダンジョンに適応してきたとなると、俺たちの居場所が危なくなるんじゃないか? あいつらがA品の魔石を大量に納品し続ければ、俺たちの稼ぎ口がなくなるんじゃ……」

颯真くんの懸念に、私は首を横に振った。

「危なくはありません。市場は構造的に完全に棲み分けられます」

私はバックパックから手帳を取り出し、書き留めた市場データの推移を彼らに見せる。

「第一に、彼らがシステムを最適化し、大量に納品しようとしているのは『金剛石の回廊』で採れるフォートレス・アイソポッドの魔石のみです。魔石には火や水、風といった属性ごとの需要がありますが、彼らのシステムは特定の環境と単一の属性に極端に局地最適化されており、市場の全需要を網羅できるわけではありません」

上近少年がメモ帳にペンを走らせながら、真剣な顔で頷く。

「第二に、品質の需要層の違いです。彼らが納品する極上品質のA品は、高級魔剣のコーティング材や精密魔道具などのハイエンド向けです。しかし市場の基盤を支えているのは、一般的な魔道具の使い捨て燃料となるB品や、低級燃料として消費されるC品の莫大な需要です」

私は彼らの背後に広がるダンジョンを一瞥する。

「第三に、コスト構造です。巨大な機材と多数の人員を動かす『アルゴス』のシステムは、維持コストが極めて高い。つまり、彼らは高単価なA品の魔石を狩り続けなければ採算が合わず、一般探索者たちが主戦場とするB品、C品クラスの低単価市場へ降りてくることは物理的に不可能です」

「要するに、大企業は、デカい魚しか食えないってことか」

颯真くんが納得したように言う。

「その通りです。先日、彼らの乱獲によって魔石全体の買取価格が一時的に暴落しましたが、それは市場のパニックに過ぎません。これら需要の分散により、遠からず価格は適正値へと戻ります」

私は手帳を閉じた。

「彼らが本気でこのダンジョンという環境に適応したという事実は、明確で強固です。ですが、彼らは彼らの現場で巨大なシステムを回し、私たちは私たちの現場で日々の業務をこなす。比較する必要も、焦る必要もありません。自分の計算を信じて、今日を生き残るだけです」

上近少年の顔から完全に不安が消え、いつものように使い込まれたメモ帳にペンを走らせる。

「情報のアップデートと、市場の論理。ありがとうございます、静河さん!」

彼らがダンジョンに向かう。

私も向かおう。

目的地である『泥濘の迷宮』へ向かう道中、私は立ち止まった。

そこは『金剛石の回廊』を俯瞰できる岩場。

「……『アルゴス』の最適化されたシステムがどのように機能しているのか」

気にならないと言ったら嘘になる。

だから、私は観察することにした。

通路の奥から黄褐色の巨体、フォートレス・アイソポッドが姿を現した。

しかし、その体躯は通常の個体の倍近くあった。

イレギュラーな巨大個体——変異種だ。

涼下氏の言葉を思い出しながら、私は彼らがどう対応するのかを注視した。

前衛が分厚い盾を岩壁の隙間に突き立て、強固な防御陣形のみを構築する。

その間、後衛に位置するオペレーターは、一切の躊躇なく、展開していた機材の電源を完全に遮断した。

イレギュラー個体が彼らの横を通り過ぎていく。

彼らは攻撃の意思を見せず、ただひたすらに嵐が過ぎ去るのを待つようにやり過ごした。

別の場所からそれを見ていた他の探索者たちが、「盾に隠れて情けねえ!」と揶揄しているのが聞こえてくる。

「……違う」

『アルゴス』はシステムの処理能力を超えるイレギュラーに直面した際、被害をゼロに抑える、完全な損切りを実行したのだ。

涼下氏の言葉どおりだ。

「巨大資本による局地的な工場化、と言ったところでしょうか」

これなら、私が『金剛石の回廊』に戻ってくることは、おそらくないだろう。

だが、問題はない。

私は誰も見向きもしない場所で泥にまみれ、地味な手作業を行えばいい。

私が生きていくには、それで充分だ。

私はその場から離れ、私の現場へと向かった。

中層深部、『泥濘の迷宮』。

私は防毒マスクを装着し、泥の上に構築した合成樹脂製の足場板の上を進んでいた。

マスクをしていなかったら、湿気と腐敗した土の臭いをダイレクトに感じていたことだろう。

地盤の緩みを確認し、必要に応じて鉄の楔を打ち直す保守作業を行いながら、さらに奥へと向かっていく。

「——ッ」

前方の泥の表面が異常な隆起を見せ、マッド・ゴーレムが現れる。

通常通り処理することができない。

その姿が私の知る生態データと明確に異なっていたからだ。

「……変異種」

泥で構成された体表から、陽炎が立ち昇るほどの高熱が発せられている。

さらに、泥から気泡が湧き上がり破裂するたびに、周囲の岩を溶かすような強酸性のガスが噴出している。

マスクのフィルターが急速に劣化していく嫌な感覚があった。

対象が放つ高熱により、自身の泥の体が焼き固められ、半ばセラミック状の硬質な外殻を形成しつつある。

この異常な高熱下で、通常のマッド・ゴーレムに使用していた化学凝固剤が正常に機能する確率は極めて低いはずだ。

だが、撤退行動に移るための数秒の足止め、あるいは想定外の化学反応による弱体化に期待し、私は最も取り出しやすい位置にあった凝固剤のボトルを引き抜いた。

対象の足元へ向けて溶液を散布するつもりだったが、しかし液剤は対象に触れるより早く、その周囲を取り巻く異常な熱量によって瞬時に白い蒸気となって消え去った。

「足止めにもなりませんか……!」

さらに付け加えるならば、呼吸の苦しさから、強酸性ガスによって防毒マスクのフィルター寿命が限界に近づいていることがわかる。

撤退すべきだ。

「……ですが」

対象の熱とガスが充満するこの狭い足場の上で、背を向けて逃げ切れる確証はない。

私は息を吐き出し、意識を切り替えると同時に、自身の道具による処理ではなく、環境利用へと戦術も切り替えた。

記憶の引き出しを開く。

ここの近くに、過去に地下水脈の水圧で崩落しかけ、危険箇所としてマッピングし、迂回ルートを設定していた場所がある。

私は足場の強度を確かめながら後退し、特定の岩壁の下へと対象を誘導した。

そこには、岩壁全体の応力を辛うじて支えている、ひび割れた要石が存在していた。

私はバックパックのサイドポケットから鉄の楔を取り出し、対象がそこに到達した瞬間、要石に向かって鉄の楔を正確に投擲した。

金属が岩に激突する硬い音が響き、要石が砕け散った。

私は結果を確認することなく、即座に近くの堅牢な岩陰へと身を滑り込ませた。

直後、岩壁が崩壊した轟音が響く。

裏側に滞留していた大量の地下水が、鉄砲水となって変異種の頭上に直接降り注いだはずだ。

轟音が止み、静けさが訪れ——数分。

岩陰から顔を覗かせれば、変異種は急冷の熱衝撃で流動性を失い、彫像のように硬直していた。

私は岩陰から出て、変異種のひび割れた組織の奥にある核をナイフで貫いた。

硬直した巨体が光の粒となって霧散し、後に魔石が残された。

それを拾い上げ、熱が完全に引いていることを確認してからハードケースに収めた。

私は長く息を吐き出した。

その後、通常のマッド・ゴーレムやこのエリアに生息する水棲モンスターを処理し、規定の魔石を回収した私は、ちょうど定時になったこともあり、地上へ戻った。

換金カウンターの列に並ぶ。

前方の窓口では、アルゴスの部隊が大量のA品の魔石を納品しているところだった。

彼らの最適化されたシステムが確実な成果を上げた瞬間に居合わせた探索者たちは、もう彼らを嘲笑うことができなかった。

手続きを終えた涼下氏が私に気づき、短く会釈をしてきた。

私は軽く頷き返した。

瀬能氏は、私を無言で一瞥したのみだった。

私の番が来た。

私はハードケースをカウンターに置き、中身を女性係員の前のトレイに広げた。

女性係員が魔石をテスターに通す。

ランプが緑色に点灯し、ディスプレイに詳細な数値が表示される。

係員の動きが止まり、目を見開いた。

「こ、これは……高熱と強酸を内包した変異種の魔石です! しかも、外部干渉が一切ない完全なA品……!! 他にも、水棲モンスターや泥の魔石もすべてA品で揃っています!」

彼女の声が大きかったせいで聞こえたのだろう。

瀬能氏がこちらを見て、目を見張る。

涼下氏も同じように目を見張りながら、しかし彼女と違い、小さく頷いていた。

無理もない。

彼ら『アルゴス』の巨大なシステムは、アイソポッドの魔石という単一の規格品を大量に処理することにおいては極めて有能だ。

だが、魔石には属性ごとの需要がある。

彼らの局地的なシステムでは、私が今日持ち込んだような水棲モンスターの魔石や、変異種のようなイレギュラーを拾い上げることは物理的に不可能だ。

アイソポッドのA品の大量生産と、それ以外の多様なA品の適応生産。

同じA品市場であっても、我々の間には明確な構造的棲み分けが成立している。

だからこそ、涼下氏は私の納品物を見て納得したように頷いたのだ。

私は提示された明細の金額を確認し、口座への振り込みを了承した。

「静河さん、お疲れ様でした!」

「ありがとうございました」

女性係員に短く礼を告げ、私は協会を後にする。

日が落ちるのが早くなってきた。

スーパーマーケットに立ち寄り、今日は変異種を処理したことで体力を想定以上に消耗したため、夕食は簡単にすることにした。

冷凍うどんと、惣菜コーナーの大きな野菜のかき揚げ。

宿舎の自室に戻り、天ぷらうどんを作る。

立ち昇る出汁の香りと、つゆを吸って甘くなったかき揚げの油分が、疲労した体に染み渡る。

巨大な資本が市場を効率化しようと、私の生存領域が侵されることはない。

「……明日も今日と同じように、私は私の業務を遂行するだけです」

私はうどんを完食し、温かいつゆまで飲み干した。