作品タイトル不明
第36話:波及する論理
探索者協会の自動ドアを抜けると、空調の効いた、乾いた風が頬を撫でた。
壁面に設置された環境モニターの前に私は立ち、液晶画面の数値を手帳に書き写していく。
湿度、気圧、ともに正常。
「……変動の兆候はなし」
本日の業務に支障をきたすエラー要因は見当たらなかった。
背後から、控えめな足音が近づいてきた。
「おはようございます、静河さん」
振り返ると、使い込まれたメモ帳を手にした上近少年が立っていた。
少し遅れて、硬質な金属が規則性なく打ち合わされる足音が続く。
「さすが、師匠! 今日もやっぱり早いな!」
使い込まれた装備姿の『蒼穹の翼』のリーダーだ。
「おはようございます」
私が短く返せば、彼らは笑顔で応じ、それぞれ環境モニターに向き直る。
朝から騒がしい彼らだが、未帰還者リストに名が載ることもなく、こうして生き残って顔を合わせられるのは悪い気分ではない。
だが、まずは自らの業務準備を完了させることが優先だ。
私はいつものベンチに向かい、腰を下ろした。
いつもどおり、最終工程を確認していく。
上近少年が言う。
「僕、今日は第4区画に行こうと思ってるんです。あそこの魔石、少し相場が上がってるみたいで。環境データもまだまだ集めておきたいですし」
その言葉に『蒼穹の翼』のリーダーが反応する。
「お、奇遇だな。俺たちも今日は第4区画だぜ。昨日の夜、ネットでうまい獲物が出るって情報が出回ってたからな。稼ぎ時だぜ」
彼らがどこへ行き、いかにして利益を得ようとするか。
探索者である以上、それは彼ら自身の自己責任である。
しかし、彼らなりに情報を見極め、自らの足で立つための選択をし続けているその姿は、初めて会った時からは想像もできないものだった。
「……気をつけて」
人知れずこぼれ出た私の言葉に、上近少年は頬を上気させて、『蒼穹の翼』のリーダーは豪快に笑って、それぞれ応じて、ダンジョンの暗がりへと向かっていった。
「静河さんも気をつけてくださいね!」
「余計なお世話だろうけどな! またな、師匠!」
「ええ、また」
探索者たちは他にもいて、雑談に興じ、装備の確認をし、思い思いに過ごしている。
なのに、彼らがいなくなっただけで、とても静かになったように、私には感じられた。
そのことに、私はふっと息を漏らしてから、最終工程の確認を続けた。
「すべて問題なし」
全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) ——。
彼らに続いて私も、湿っぽく、カビ臭いダンジョンへと向かった。
浅層の乾燥した土の道を抜ければ、空気が湿気を帯びてくる。
中層への入り口、巨大なすり鉢状の空間を螺旋状に下る 大竪穴(スパイラル・ピット) へと到着した。
下層からさらに湿った風が吹き上げてくる。
一部のルートが完全に崩落したままで、ロープによる降下と登攀が必須となる難所だ。
私はロープを下ろすための支点となる岩角へ向かい、足を止めた。
崖下へと続くルートには、先行する探索者たちの列が見えた。
以前、ここで粗悪なカラビナが連鎖破断する事故が起きた。
彼らを見る。
浮ついた空気はない。
順番を待ち、岩壁の支点の強度を互いに確認し合い、手元のカラビナの動作を慎重に操作している。
一人一人が自己の安全マージンを確保するための工程を、確実に踏んでいた。
その手際を、私はただ視界に収める。
彼らが彼ら自身のために安全基準を引き上げた結果、私の巻き込まれ事故の発生確率は極小化されている。
業務環境において、極めて好ましい傾向だった。
順番が空き、私は腰からねじ込み式のカラビナを取り出した。
確かな重みを持つネジを限界まで締め込み、ロープを伝って降下を開始した。
大竪穴の底を抜け、目的地へと辿り着くためのルートを慎重に進んでいく。
途中、姿を現したモンスターに対してはやり過ごすこともあったし、処理することもあった。
そうして乾燥した空気が喉を焼く、石英質の岩盤が広がる領域へとやってきた。
目的の『金剛石の回廊』だ。
私は岩陰に身を潜めると、専用ホルダーからユニットを引き抜き、呼吸を整えた。
様子を窺う。
やがて、前方の通路から、多脚が移動する際の硬質な音が反響してきた。
フォートレス・アイソポッドだ。
対象が姿を現すのを、息を殺しながらジッと待つ。
——現れた。
戦車と見紛うほどの巨体。
多層装甲の甲殻類。
頭部で揺れる触覚センサーが、周囲の警戒を怠っていないことを示していた。
私は足元の小石を拾い上げ、反対側の壁へ向かって軽く放り投げた。
硬い音が響いた瞬間、アイソポッドは巨体に似合わぬ機敏さで反応した。
重装甲に覆われた前肢を大きく振り上げ、音の発生源である岩壁に向けて容赦なく叩きつける。
凄まじい破壊音とともに、石英質の岩が砕け散る。
まともに受ければ、それは人体などひとたまりもない質量兵器だ。
だが、その強烈な攻撃動作の直後、姿勢を戻すため、数秒間だが対象の動きは停止する。
同時に、可動域を確保するために普段は密着している多層装甲の継ぎ目が大きく開く。
私はこれまで繰り返してきたとおり、その瞬間を見逃さず、足音を完全に殺して死角へと素早く滑り込むと、露出した隙間へとユニットを押し当てた。
「……起動」
高周波振動によって分子結合が解離し、広がった隙間に私はサバイバルナイフを突き立てる。
対象は光の粒となって霧散、淡く輝く魔石が硬い岩盤の上に落ちる。
私はそれを拾い上げると、専用のハードケースのウレタンの隙間へと収めた。
ワンタッチ換装機構が実装された新モデルの挙動に、問題はない。
だが、
「……検証は継続します」
二体目、三体目と、私は処理を続けた。
その都度、ユニットの電源を落とし、ロック解除レバーを押し込み、金属パーツの摩擦抵抗を指先で確認した。
アイソポッドの個体差による装甲の厚みや体温の差異。
それにより、レバーが重くなるタイミングに数秒のバラつきが生じる。
私は岩陰に身を隠し、モンスターの視界に入りこまないことを確認してから手帳を取り出し、その事実を一次データとして記録する。
「データは多い方がいい」
現場での試行錯誤のサイクルが、機材の信頼性を高め、生存確率を引き上げる。
やがて、インジケーターの数値が安全マージンとして設定した閾値に到達した。
「今日はここまで」
他の探索者ならまだ続けたかもしれない。
だが、私は『金剛石の回廊』に背を向け、定時撤退を開始した。
ダンジョンからのスロープを登り切ると、広場からロビーにかけて、いつもより明らかに多い探索者たちが密集しているのが視界に入った。
……何かあったか?
私がいた『金剛石の回廊』、あるいはいつものルートである大竪穴など、特段の異変やエラーの兆候は見られなかったが。
状況を把握するため、視線を巡らせる。
血の匂いや、痛みに呻く声が聞こえるといったことはなく、各々が静かに事態の推移を見守っているような、奇妙なほど秩序立った光景が広がっている。
その中には、大竪穴で慎重にカラビナを操作していた探索者たちの姿があった。
彼らに怪我を負った様子はない。
……わからない。
私は疑問を抱えたまま、いつまでも立ち止まっているわけにはいかないと、換金カウンターへと足を進めた。
その途中、視界の隅に、上近少年と『蒼穹の翼』のメンバーたちが入ってきた。
上近少年は使い込まれた手帳を労うように撫でており、また別の場所では『蒼穹の翼』のメンバーたちがお互いに肩を抱き合い、安堵の息を吐き出している。
彼らの様子からも、また、何かしらあったことは推測できたが、やはり、実際に何があったのかはわからなかった。
ともあれ、彼らもまた怪我一つなく無事に本日の業務を終え、地上へ戻ってきたという事実だけは間違いない。
私は小さく息を吐き、カウンターの上にハードケースを置いた。
担当は権藤さんだった。
「いつもと様子が違いますが、何かあったのですか?」
彼はテスターに魔石をセットしながら低い声で告げた。
「……そうか、静河さんは今日、『金剛石の回廊』だったのか」
魔石を見て、そう判断したのだろう。
「実は中層第4区画で、局地的な冷気流入による異常活性化が発生したのだ」
「それは——」
「だが、被害者はゼロだ」
未帰還者リストに名を連ねることになる、新たな探索者は出なかったということだ。
「……ですが、権藤さん。今朝、環境モニターの数値はすべて正常範囲内だったはずです」
「そうだ。しかし、第4区画で探索を行っていた上近くんが気圧と湿度の異常を観測して撤退、ほぼ同時刻、『蒼穹の翼』もなんだか気持ち悪い感じがすると体感で撤退した」
そして、と権藤さんが続ける。
「改訂規則が稼働した。私の現場権限で、即座に第4区画の入場制限を行った」
改訂規則。
それは先日、私が有識者として会議に出席し、実測データと論理によって管理部門の欠陥仕様を排除した末に制定されたものだ。
事前のデータに依存しすぎず、現場の一次情報を最優先とした撤退判断。
私が私の現場で業務を行っている間に、広域災害は未然に防がれ、すでに問題は解決されていた。
私が自らの安全を確保するために行っていた業務の延長が、システムとしてダンジョン全体に機能し、現場の安全基準を底上げしているという事実。
私の今後の業務環境にとっても極めて好ましい傾向と言えるだろう。
「ありがとう、静河さん」
権藤さんはそう言うが、
「……その感謝は私ではなく、災害を未然に防いだ人に向けられるべきかと」
私は一礼して、口座に振り込まれた報酬の明細を受け取り、ポケットに収めた。
協会の外へ出ると、夕暮れの冷たい風が首筋を撫でた。
ポケットの中のスマートフォンが短い振動を繰り返した。
取り出してみれば、種田精密からの連絡だった。
新モデルに、私が気づいていない致命的な欠陥でもあったのだろうか。
通話ボタンをスワイプして耳に当てる。
「……おう。うちのかみさんが料理を作りすぎた。食いに来い」
種田氏の無愛想な声が、要件だけを告げて一方的に切れた。
言葉足らずで不器用な、職人らしい気遣いの形だ。
その裏にある温度を無下に切り捨てる理由は、今の私にはなかった。
種田精密にやってきて、引き戸を開けると、作業場の油の匂いに混じって、醤油と出汁の甘い匂いが漂ってきた。
「ああ、静河さん! お待ちしてました!」
作業着姿の若者に案内され、居間に通される。
種田氏、そして種田氏の、高齢の女性のご家族が小さな食卓を囲んでいた。
テーブルの上には、手作りだろう煮物や惣菜が所狭しと並べられている。
「そこに座れ」
勧められ、私が空いている座布団に腰を下ろすと、種田氏が無言で一升瓶を傾け、私の前に置かれたガラスの杯に酒を注ごうとした。
「飲め」
職人としての承認と歓迎の意図は理解できる。
だが、静河くんは18歳だという事実がある以上、その杯を受け取るわけにはいかなかった。
私は杯の上に静かに手をかざし、注がれるのを物理的に遮った。
「申し訳ありません。私はまだ18歳ですので」
一升瓶を傾けたまま、種田氏の動きが完全に硬直した。
私の向かいに座る形になっていた若者は、目を限界まで見開いて絶句している。
「静河さん、年下だったんですか……!? というか18歳でうちの社長と対等に渡り合うとか信じられな——いや、目の当たりにしてきましたけど! それでも……年下って……」
私は彼らの驚愕をよそに、種田氏のご家族に促され、箸を手に取る。
皿に盛られた里芋の煮物を掴み、口へと運ぶ。
中までしっかりと染み込んだ出汁の旨味と、柔らかく熱を持った芋の食感が、一日の労働で消費されたカロリーを優しく補填していく。
「……おいしいです」
「あら、ありがとう。自信作なのよ」
ご家族のあたたかい微笑みに、私が頷いていると、種田氏が長い硬直から復帰した。
「……ふん」
種田氏は短く鼻を鳴らし、自分の杯を煽った。
若者も、慌てたように箸を動かし始める。
「こっちの煮魚もね、うちの人がおいしいって言ってくれる自信作なの。ぜひ食べてちょうだいな」
「いただきます」
職人たちと囲む、温かな食卓。
静河くんが最期まで得られなかったものが、ここにはあった。
種田氏が酔いつぶれ、若者も「年下だったなんて」とくだを巻き始めたところで、種田氏のご家族に、
「またいらしてくださいね」
と見送られ、私は宿舎に戻る。
今日もまた、無事に生き抜くことができた。
それはこれまで続けてきた生存戦略が正しく機能し続けてきた結果である。
だが、ダンジョンは不規則で、予想していなかった事態が発生する。
今日がまさにそれだった。
「気を緩めては駄目だ」
私は私にできることをすべてやる。
明日もまた、この平穏を維持するために。