軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第32話:仮説の証明と一次データの採取

朝の準備広場。

私はいつものベンチで、業務を行う前の最終確認を行っていた。

安全靴の紐を解き、指先の感覚を頼りにイアン・ノットで編み上げていく。

ポケットの中に、各種ポーション、予備のライトはあるか。

バックパックの中、カラビナ、ロープ、その他溶剤など、必要な資材はすべて揃っているか。

サバイバルナイフはどうか。歪みは、防錆油の被膜は。

これまでのところ、すべて問題はなかった。

そうして最後に、左腰から太ももにかけて装着したドロップレッグ・ホルダーに手を伸ばした。

数日間の予防保全と冷却期間を終えた『対極硬度用・高周波解離ユニット』を手に取る。

先端の振動ホーンを指先でなぞった。

前回の稼働による微細な偏摩耗が確認できるが、宿舎で行った、整備用に購入したノギスでの計測ではまだ許容公差内に収まっていた。

現在の仕様では、この振動ホーンの交換には六角レンチを用いた正確なトルク調整が必要となる。

死と隣り合わせのダンジョン内部で、そのような悠長な機材メンテナンスを行う余裕はない。

初期納品時、種田精密から受け取ったホーンの予備は3つあるが、それゆえに、それらはすべて宿舎の道具箱に保管していた。

現場で摩耗限界を迎えれば、その時点でこのユニットを用いた業務は強制終了だ。

しかし、今日の業務は、このホーンの残存寿命内で充分に完遂できると私は計算していた。

実際に私の計算通りかどうか、その見極めも今日の業務に含まれている。

私はバッテリーのインジケーターが満充電の緑色を示していることを確認し、スイッチを押した。

微細で均一な振動が指先から腕へと伝わってくる。

接合部の熱ダメージは完全に抜け、稼働に一切の不安はない。

「 全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 」

私は立ち上がり、ダンジョンへ向かう。

いや、向かおうとしたのだが、私に向かって、近づいてくる足音があった。

赤茶色の髪をした颯真くんと、その少し後ろを歩く上近少年だ。

「よう、静河」

颯真くんが声をかけてくる。

「おはようございます」

私は短く返し、彼らの装備の具合を目視で確認する。

二人とも浮ついた様子はないが、その表情にはどこか弛緩したものが混じっていた。

「おっ、なんだそれ。見ない装備だな」

颯真くんの視線が、私の高周波解離ユニットに向けられた。

「解体用の特注工具です。対象の極めて硬い装甲を、高周波の振動による分子結合の解離原理を用いて、物理的に剥がすためのものです」

私の説明を聞き、颯真くんは目を丸くした。

「……なんか小難しくてよくわかんねえが、すげえ武器だってことか。それ、名前はないのか?」

「名前、ですか」

「ほら、グングニルとか。そういう感じのだよ」

どうやら彼の中で、このユニットが特別な神話的アイテムに変換されているらしい。

その隣では、上近少年も期待に満ちた瞳で私を見つめている。

私は彼らのあまりにも純粋な反応に、思わず苦笑を漏らしてしまった。

「ありません」

私の否定に、上近少年はあからさまにがっかりとした、颯真くんは予想していたみたいな顔をする。

「これはただの工業製品で、消耗品です。道具に個別の名前を与えれば、そこに不必要な愛着が生まれます。愛着は、機材の寿命を見誤らせ、廃棄すべきタイミングでの損切りを遅らせる。それは、ダンジョンという現場において、致命的な判断ミスというリスクを生むだけです」

私の運用論理を聞き、

「いかにも静河らしいなあ」

と、颯真くんは声を上げて笑った。

他者の価値観と自身の論理がすれ違っても、彼のように受け入れてくれる存在は、この殺伐とした環境において貴重だと言える。

「そういや、聞いたか?」

ひとしきり笑った後、颯真くんが声のトーンを落として話題を切り替えてきた。

「今日、第3区画から第5区画にかけての特定エリア、モンスターの出現数が減ってて安全らしいぜ」

「他のパーティーも、こぞってそっちのルートに向かってるみたいです」

颯真くんの言葉に、上近少年が続く。

彼らの言葉を聞き、私は脳内の環境データを参照した。

今朝のモニターの数値と、数日前から続いている地上の急激な冷え込み。

「……それは安全になったわけではありません」

私が漏らした呟きに、二人が怪訝な顔をする。

「上層からの冷気の流入により、当該エリアの気温が低下しています。変温性の特性を持つモンスターが、熱源を求めて地下水脈側に密集しているだけです」

つまり、と私は二人に向かって続けた。

「その水源付近に知らずに踏み込めば、高密度の群れと正面から衝突することになります。迂回を推奨します」

二人が顔を見合わせる。

「サンキュー、静河。危うく他の連中につられて突っ込むところだったぜ」

颯真くんが苦い笑みを浮かべながら、私に礼を言った。

「……僕の分析がまだまだだったということが改めてよくわかりました。静河さんの分析、手帳に記録させてください」

上近少年が素早くメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。

「……情報への依存はリスクを伴います」

あまりにも真正面から受け止められてしまったので、私は補足しておく。

「わかってる。自分の目でも確認するさ。けど、静河の読みに間違いはねえ。絶対にな」

「ですです!」

なぜだろう。

この二人を前にしていると、何とも言えない感覚に襲われる。

「またな、静河!」

「ええ、また」

颯真くんが先にダンジョンに向かい、

「またです、静河さん!」

「ええ、また」

上近少年もそのままダンジョンに行くかと思われたが、モニターや掲示板の前に向かった。

自分でも確認をするためだろう。

胸の奥から湧き上がる不思議な感覚にいつまでも身を任せていたい衝動に駆られながら、私は息を吐いて意識を切り替えた。

「今日を生きていくための業務を始めます」

数日ぶりの『金剛石の回廊』だ。

石英質の岩盤で構成されたそのエリアは、乾燥した空気と、足音が鋭く反響する硬質な環境だった。

そこに足を踏み入れた瞬間、私は鼻腔に違和感を覚えた。

「これは……」

鉄錆のような血臭、それに油が焦げたような刺激臭が、それぞれ微かに匂ってくる。

私はヘッドライトの光量を一段階落として周囲の状況を観察した。

岩壁には、本来生息しているフォートレス・アイソポッドの挙動ではあり得ない、無数の鋭い切り傷や打撃痕が深く刻み込まれていた。

視線を足元へ落とす。

そこには、赤黒く変色した血痕と、原型を留めないほど粉砕された幾本もの魔剣の残骸が散乱していた。

私がここでA品の魔石を大量に納品したという情報が広まり、一攫千金を夢見る多数の探索者がこのエリアに殺到した。

彼らは自分たちの魔剣が通用しない対象に対し、無謀な攻撃を繰り返し、装備を破壊され、怪我を負って撤退したのだ。

そして、

「……ビーコン化の痕跡」

私は地面に残された魔剣の破断面をライトで照らす。

刃のコーティングが剥がれ、内部に練り込まれた魔石の成分が露出していた。

破損した魔剣から漏れ出した魔力が強力なビーコンとなり、血の匂いと相まって、スパイダースカベンジャーなどの凶悪な捕食モンスターをこの階層に大量に呼び寄せた。

岩肌に残る細かい無数の爪痕と、壁にへばりついた不快な粘液の乾いた跡が、その激しさを如実に物語っている。

耳を澄ませても多数の多脚が這い回るような音は聞こえないし、魔力漏洩特有のオゾンのような焦げ臭さはすでに薄れ、風化しつつある。

脅威は去ったと考えても問題ないだろう。

「ですが……」

もし、私が魔石の採掘効率に目が眩み、連日このエリアでの稼働を強行していれば、競合過多による人災か、あるいは捕食モンスターの群れによる災害のどちらかに間違いなく巻き込まれていた。

数日間の意図的な冷却期間を設けたことは、機材の予防保全だけでなく、この環境リスクを完全にやり過ごすための最適な安全マージンとして機能したのだ。

「……撤退判断は正しかった」

私は手帳を取り出し、この事象を素早く書き留めた。

目の前の惨状は、リスク管理を怠った者たちが支払った代償の可視化だ。

私はバックパックのベルトを締め直し、完全に生態系がリセットされた静寂の回廊へと歩を進めた。

岩壁に同化するように身を潜め、数日ぶりに姿を現したフォートレス・アイソポッドの多層装甲の継ぎ目に、高周波解離ユニットの先端を押し当て、スイッチを入れる。

微細な振動が装甲の分子結合を解離させ、隙間が広がる。

そこにサバイバルナイフを滑り込ませた。

対象が光の粒となって消散し、魔石が落ちる。

私はそれを回収し、再び、フォートレス・アイソポッドの出現に備え、身を潜める。

それらを幾度か繰り返してから、私は電源を落としたユニットに視線を向ける。

摩擦による熱が微かに残る先端の振動ホーン。

これまでの稼働と本日の負荷により、朝の計測時よりも明確に摩耗の偏りが進行していた。

私は胸ポケットから手帳を取り出し、稼働時間と摩耗率の相関データを記録する。

「……現場で使用した感触を正確にフィードバックし、機材を継続的にアップデートしていく試行錯誤のサイクルは欠かせません」

朝の準備段階で再確認した、工具を用いた交換の煩雑さ。

それを解決するための、先端アタッチメントのワンタッチ換装機構の実装。

そして、摩耗が避けられない消耗部品の量産単価の削減。

これら次期装備拡張の研究開発を進めるため、明日の夕方には種田精密との打ち合わせの予定がすでに組まれている。

現場の一次データを職人の技術とすり合わせることで、この専用機材の投資対効果はさらに洗練されたものになるはずだ。

私はユニットをホルダーに納め、本日の業務を定時で終了した。

ダンジョンから出て、探索者協会のロビーに向かえば、疲労と汗の臭いが充満していた。

私は換金窓口の前に立ち、ハードケースから取り出した魔石をトレイに並べる。

テスターの微かな駆動音が響き、緑色のランプが点灯した。

極上品質の証明である。

提示された明細の金額を目視し、本日の目標収益が達成されていることを確認する。

「今日も素晴らしい仕事でした。お疲れ様でした」

係員の賛辞の声に短く会釈し、その場を立ち去る。

そのままロビーを出ようとしていると、背後から、荒い呼吸を伴う足音が急速に近づいてきた。

振り返るより早く、声が届く。

「静河!」

泥にまみれた颯真くんと上近少年だった。

その顔には明らかな興奮と、微かな恐怖の残滓が張り付いていた。

「静河の言った通りだったぜ。水源付近にモンスターがうじゃうじゃ密集してやがった!」

颯真くんが、息を整えながら告げる。

「知らずに突っ込んだ別のパーティーが、半壊して逃げ帰ってくるのを見ました。静河さんのおかげで無傷で済みました!」

上近少年が深く頭を下げる。

「事前の環境変数から導き出せる、当然の推移です」

ですが、と私は言葉を区切った。

「二人が無事で何よりでした」

颯真くんがニッと笑い、上近少年がはにかみ、朝、感じたような不思議な感覚に襲われる。

「なるほど。現場の事象を点ではなく線で読み、生還という結果を出したわけか」

低い、重みのある声が、私たちの背後から響いた。

ロビーの喧騒が、潮が引くように静まり返る。

振り返れば、使い込まれた装備を身に纏う初老の男がいた。

深層を主戦場とするベテラン探索者、黒木氏だった。

彼が歩み寄ってくるたび、周囲の探索者たちが道を空ける。

黒木氏は私の前で立ち止まり、その鋭い双眸で私と、私がたった今換金を終えた明細書を一瞥した。

「……その上で、専用の道具を用いて確実に利益を上げる。その知見と生存能力を活かす現場に来ないか。深層の観測手を頼みたい」

ロビーにいる者たちが、息を呑む気配がわかった。

誰もが一目を置く黒木氏からの、公衆の面前での直接のスカウトだったからだ。

颯真くんや上近少年も、目を丸くして私を見つめている。

私は静かに黒木氏を見返した。

頭の中で、現在の業務スケジュールとリソースの配分状況を参照する。

深層への移行。

それは現在の安定した収益モデルの完全な破棄を意味する。

私は無言で、右胸のポケットから使い込まれた手帳を取り出した。

黒木氏の目の前で、そのページを開く。

そこには、進行中のタスクを示す赤い付箋が、等間隔に何枚も枚貼られていた。

「光栄なお誘いですが、お断りします」

私の口から出た拒絶の言葉に、周囲の探索者たちがざわめきを漏らす。

「中層に、まだ片付けていない案件が複数残っています」

私は赤い付箋を指で叩いた。

「これを残したまま環境を変えれば、記録の継続性が途切れます。それは困ります」

業務の継続性。

それは、私がここで生きていくための土台だ。

英雄の名声や深層の富は、その土台を揺るがす不確定要素に過ぎない。

私の答えを聞き、黒木氏はしばらく無言のまま私を見つめていた。

張り詰めた沈黙。

やがて、彼は小さく息を吐き出した。

「その撤退判断の速さが、命を繋ぐ」

明確な肯定の言葉だった。

その瞬間、私は手元の手帳の新しいページを開き、ペンを走らせる。

「メモを取るのか」

黒木氏が怪訝そうに眉をひそめる。

「深層からの生還実績を持つ方の経験則は、極めて信頼性の高い一次データです。将来、事業領域を深層へ拡大せざるを得なくなった際のための、先行研究として記録します」

私の言葉に、黒木氏は呆れたように、しかしどこか満足げに口元を緩めた。

「気が変わったら、いつでも声をかけろ」

彼はそう言い残すと、上機嫌な様子で立ち去った。

私はペンと手帳を戻す。

ベテランの誘いを断ったことへの未練は、一ミリも存在しない。

それよりも、今日の業務において、環境変数に基づく自らの仮説が正しかったことの証明を得た。

事前の分析通りに専用機材を再稼働させ、確実な利益を出した。

さらに、深層の生存者から有益な一次データを無償で取得することができた。

「……私はこれでいい」

私はまだ呆気にとられている颯真くんと上近少年に一礼して、協会の出口へ向けて歩き出す。

外に出れば、夕暮れの冷たい風が心地よかった。

「さて、今日は何を食べましょうか」

スーパーの特売が何だったかを思い出しながら、進む足取りは軽かった。