作品タイトル不明
第31話:有識者会議と現場の証明
私は朝の探索者協会ロビーに足を踏み入れた。
空調の効いた内部は乾いた紙と微かな埃の匂いが混ざり合っている。
私は環境モニターの前に立ち、
「湿度、気圧、ともに規定値内」
今日のダンジョン内環境数値を手帳に書き写す。
続いて私は壁際のベンチに腰を下ろすと、出発前の最終工程へと移行した。
まずは足元。
「……問題なし」
次に、装備のポケット。
止血剤、ポーション、予備光源。
「……問題なし」
そしてサバイバルナイフ。
腰から引き抜き、欠けや歪み、防錆油の被膜が適切に機能していることをチェック。
そして最後に、バックパックのショルダーベルトのテンションを微調整し、重心を背中の中心に固定する。
「 全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 」
立ち上がる。
昨日は私の成果に便乗しようとした多数の探索者たちが、『金剛石の回廊』に殺到、自滅した。
現在、あそこは彼らが放棄した、破損した魔剣から漏れ出すノイズによって、より凶悪な捕食モンスターが密集しているに違いない。
正義感あふれる探索者、あるいは英雄願望のある探索者なら、自ら志願し、モンスターを処理したりするのかもしれない。
だが、私は私が生きていくために探索者になった。
だから、ダンジョンがその生態系によって自然浄化されるまでの数日間、安定している既存のエリアを探索する。
それが私の選択だった。
ダンジョンに向かっている途中で、声をかけてくる人物がいた。
「静河さん。ちょっといいだろうか」
足を止め、振り返る前に、権藤さんであることは、その声でわかっていた。
彼は小脇に、分厚い紙のファイルを抱えていた。
普段、窓口で見せる顔とは異なる、硬い表情をしている。
私は昨日、業務終了時にかけられた言葉を思い出した。
『後日、少し知恵を貸してほしい事案がある』
「昨日、言っていた件ですか?」
私の問いかけに、彼は頷いた。
「何でしょうか。私で力になれることならいいのですが」
権藤さんは小脇に抱えていたファイルを、私へと差し出しながら言った。
「見てほしい」
受け取り、表紙に視線を落とす。
そこには『中層安全管理規則(改訂案)』と太字で印字されていた。
権藤さんに促され、私は数百ページにも及ぶファイルのページをめくった。
そこに書かれている内容に、私の思考は急速に冷え込んでいく。
いや、正直に言おう。
目眩すら起きそうだった。
『全中層における重装甲の義務化』
『一定時間ごとの強制帰還アラートの鳴動』
パッと見開いた最初の数ページだけでも、現場を一切理解していない机上の空論が目に飛び込んでくる。
さらにページをめくれば、欠陥仕様がびっしりと羅列されていた。
『高出力・魔石ランタンの常時点灯義務化』
『火炎魔道具によるルート上の植生・カビの事前焼却』
『指定メインルート以外の完全通行禁止(バリケード封鎖)』
『軽傷時におけるポーションの即時使用義務化』
『特定時間におけるモンスターの強制排除ノルマ』
『探索者の休憩場所および休憩時間の画一化』
……これ以上は見ていられなかった。
これが安全管理規則?
あり得ない。
「これは……この仕様が施行されれば、現場は——探索者たちは全滅します」
「同感だ。だからこそ、ダンジョンのリアルを知る君の実測データが必要なんだ」
権藤さんの声が、一段低くなった。
「数日後、協会本部でこの規則の策定委員会の会議がある。それに、現場の有識者として出席し、これを止めてもらえないだろうか」
「わかりました」
私は即答した。
すると、権藤さんは虚を突かれたような顔をした。
「どうしました?」
「……いや、即答されるとは思っていなかったのでね。我ながら無茶な頼み事をしているという自覚があったものだから」
彼は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「これが権藤さん以外からの申し出であれば、時間をもらっていたと思います」
ですが、と私は続けた。
「あなたには恩がある」
「恩? そんなものがあったか?」
どうやら彼は本気でわかっていないらしい。
「両親が現れた時のことですよ」
「……ああ、あの時。確かに間に入ったが、静河さん一人でも対処できただろう」
そうかもしれない。
だが、
「彼らの泥沼の感情論に巻き込まれていた可能性だってありました。何せ、あの人たちに言葉は通じないですから」
私の言葉に、権藤さんは苦笑した。
「数日後、出席します」
「ありがとう、静河さん」
権藤さんは私に頭を下げた。
恩がある。
それは正しい。
だが、この安全規則とはかけ離れた致命的な欠陥仕様の放置は、私自身の生存をおびやかしかねないものになるのは、間違いなかったから。
数日後。
私は協会本部の会議室にいた。
革張りの重厚な椅子と、長大なマホガニー調のテーブル。
微かに香る、淹れられたばかりのコーヒーの匂いが、現場の泥臭さとは対極にある安全圏であることを主張していた。
私の横に、権藤さん、ベテラン探索者の黒木氏。
対面には、仕立ての良いスーツを着た男たちが並んでいる。
彼らが管理部門の人間だろう。
そして私たちと、管理部門を左右に置く形で、協会上層部の人間が座っていた。
管理部門である彼らの前には、先日私が目を通した改訂案が誇らしげに置かれている。
「この改訂案こそが、探索者を守るための完璧なルールです!」
管理部門のうちの一人の自信に満ちた声が、会議の始まりを告げる合図だった。
「現場の死亡事故は、自己責任という名目で、個人の裁量に任せた結果です! 数百項目に及ぶこれらの規則を徹底し、管理下に置くことで、探索者の死亡事故率は劇的に下がるはずです! 間違いありません!」
空調の低い駆動音が響く中、私は持参した手帳を開いた。
ページをめくり、私が記録し続けてきた実測データを視界に収める。
「発言してもよろしいでしょうか」
私が挙手をして、発言の許可を求めると、管理部門の人間が睨んでくる。
だが、上層部の人間が、
「どうぞ」
と許可を出したので、私は発言する。
「まず、彼らが提示した数百項目すべてを一つ一つ指摘して欠陥仕様であることを説明していては、時間がいくらあっても足りません」
「け、欠陥仕様だと!? お前、何を根拠に——」
「今は彼の——静河氏の発言を聞いている」
上層部の人間にそう言われ、管理部門の人間が私に敵愾心を向けてくるが、構わない。
「なので、特に致命的な2点に絞って、述べさせていただきます」
「聞かせてください」
「この2点は、施行されたその瞬間から、エリア全域の生態系を確定で暴走させ、不可逆的な環境汚染、すなわち広域災害を引き起こすトリガーです。最も悪性度の高い欠陥と言ってもいい」
私は手元の数字を淡々と読み上げる。
「第一、重装甲の義務化について。中層の菌床地区の平均湿度は80%を超えます。そこで重装甲を強制着用した場合、発汗による脱水症状と疲労の蓄積が急激に加速します。生存率は逆に30%低下し、熱中症による行動不能者を量産。その結果、モンスターの捕食場と化し、死臭がエリア全域に深刻な環境汚染をもたらします」
管理部門の男たちの顔から余裕の笑みが消える。
「な、何を根拠に……!」
「第二、強制アラートの設定周波数。これが最も致命的です」
私はページをめくり、別のデータを提示する。
「指定されたアラートの音域は、中層に生息する共鳴蝙蝠を呼び寄せるトリガーとなります。個人の裁量に関わらず、これが一定時間ごとに鳴り響けば、壊滅的な二次災害を引き起こす広域ビーコンとして機能し、対象エリアの生態系を強制的に暴走させます」
物理法則と実測データに基づく冷徹な事実。
彼らの理屈が、広域災害を引き起こす欠陥仕様であることを私は指摘した。
手帳のページを閉じる。
論理的な反論の余地はない——そのはずだった。
しかし、管理部門の男は顔を赤くして立ち上がった。
「こ、個人の偏った意見だけで規則を決めるべきではありません! 広く現場の意見を聞くべきです……!!」
彼はそう宣言し、控えていた人間に会議室の扉を開けさせた。
入ってきたのは、腕や頭に痛々しい包帯を巻いた、見覚えのある顔だった。
先日、私に『金剛石の回廊』への同行を強要してきた中堅パーティーのリーダーだ。
管理部門の男は彼らが私に反感を持っていることを事前に把握していたのだろう。
「彼らのような実力ある探索者の声こそ、真実です! そこにいる探索者のような非正規な対策よりも、重装甲義務化のほうが探索者を守れるはずです……!」
管理部門の男による、あからさまな誘導。
探索者の男は、会議室の空気に戸惑ったようだが、すぐに私を睨みつけた。
彼の瞳には、明確な感情が宿っている。
「ああ、俺はこいつのことが大嫌いだ!」
野太い声が会議室に響く。
「生意気だし、一人勝ちしてるのも気に食わない!」
管理部門の男が勝ち誇ったように口角を上げる。
自分の用意した舞台装置が、期待通りに機能したと確信した顔だ。
だが、探索者の男はそこで言葉を切ると、今度は管理部門の男を鋭く睨み返した。
「けどな」
彼が一歩、前に踏み出す。
「俺たちが今もこうして生きていられるのは、おたくらの机上の空論のおかげじゃない!」
彼は明確な意思を持って、私を指差した。
「こいつが壁に貼ったテープと、岩に打ち込んだ杭のおかげだ!」
先日の災害の時、彼もあの誘導灯に導かれた一人なのだろう。
静まり返る会議室に、彼の荒い息遣いだけが響き渡る。
「探索者として言わせてもらえば、理論だとか、理屈じゃなく、こいつの案が一番正しいに決まってる!!」
予想外の証言に、管理部門の男は言葉を失い、倒れ込むように椅子に崩れ落ちた。
誰もが口を閉ざす中、沈黙を破ったのは、黒木氏だった。
「……彼の指摘は正確だ。現場のリアルを知らない規則は、ただの凶器にすぎん」
続いて権藤さんが、これまでの生存率データをまとめた書類を提示した。
「静河さんの対策が導入されて以降の、中層での生還率の推移です。結果は火を見るより明らかでしょう」
事態を静観していた協会の上層部が、深く頷いた。
「現場に即した静河氏の論理を、全面的に採用することにしよう」
感情的になり会議を妨害した管理部門の男は、その場で安全規則の策定委員から更迭されることが決定した。
管理部門の男たちは青ざめた顔で会議室から退出していく。
「現場の意見も一致しましたね。では、すべての欠陥仕様を白紙とし、改訂案を確定させましょう」
権藤さんが告げ、異論を唱える者はいなかった。
会議が終了し、解散となった後の廊下で、権藤さんに呼び止められた。
「静河さん。君のおかげで、最悪の事態は免れた。感謝する」
「いえ。私も、私自身の安全な作業環境を守りたかったですから」
私がそう返すと、権藤さんは少しだけ口元を緩めた。
「それでも、だ。本当にありがとう」
「……頭を上げてください」
私が告げれば、権藤さんは素直に頭を上げてくれた。
「それから、君が独自に設置していた蓄光テープや杭などのインフラについてだが」
彼は手にしたファイルに視線を落とす。
「上層部に訴え、あれらの有用性が承認された。今後の設置や保守にかかる部材の費用は、申請してくれれば協会の経費として補填されることになった」
会議を終えた後、権藤さんが上層部の人間と何か話していると思ったが、まさかそのことだったとは。
「君が探索者登録に来た日には、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった」
「……そうですね。私自身も、そう思います」
「もう一度言わせてほしい。本当にありがとう」
権藤さんが差し出してきた手を、私は見つめる。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
その手を、私は握り返した。
協会を出れば、外はすでに夕暮れの気配が濃く、冷たい風が頬を撫でた。
私はスーパーマーケットに向かった。
本日の長時間の頭脳労働と対人折衝で消耗したカロリーを補うには、疲労回復に最適なビタミンB1が豊富な豚肉が適している。
特売の豚ロース肉と、生姜をカゴに入れた。
宿舎に戻り、狭いキッチンで、豚肉の生姜焼きを作る。
甘辛いタレと豚肉の脂が口の中に広がり、確かな満足感が胃袋を満たしてくれる。
「……米がすすむな」
いつもどおり作ったはずなのに、いつもより美味く感じた。