作品タイトル不明
第16話:未読の『利用規約』
協会のロビーに入った瞬間、私の肌にまとわりついたのは、不快な湿気だった。
外は快晴だ。
空は青く、絶好の探索日和に見えるだろう。
しかし、私の感覚が、かつて空調の壊れた職場で徹夜をした時のような、淀んだ空気への警戒心が、警鐘を鳴らしていた。
私はいつものルーティンに入る前に、ロビーの隅に設置された、誰も見向きもしない旧式の環境モニターの前に立った。
手元の手帳に、数値を書き写す。
「湿度82%。気圧、低下傾向」
この数値が示す意味は一つだ。
『 胞子霧(スポア・ミスト) 』の発生条件を満たしているということ。
ダンジョン内において、高湿度はカビや菌類の爆発的な繁殖を促す。
それは視界を奪う濃霧となり、さらには、湿気を好む昆虫系モンスターの活性化を招く。
いわば、海における嵐だ。
漁師が嵐の日に船を出さないように。
現場監督が台風の日にクレーンを動かさないように。
ここでの正解は決まっている。
そう、
「中止だ」
私は手帳を閉じた。
私は受付カウンターへと向かった。
「おはようございます、静河さん。今日は早いですね」
顔馴染みになった女性職員が微笑むが、私は首を横に振った。
「いえ、本日の探索は荒れそうなので中止します」
「荒れる……ですか? こんなにいい天気なのに……?」
混乱している女性職員に、私は告げた。
「ダンジョン内部の環境数値が、私の安全基準を超えているんです。なので、環境注意を行っていただけますか?」
私は先程自分で確認した事実を彼女に伝えた。
内容にすれば、こういうことだ。
——湿度上昇による視界不良、昆虫系モンスター活性化の恐れあり。注意せよ。
「……わかりました。すぐに対応いたします」
混乱はすぐに収まり、彼女は私が伝えた言葉を一字一句そのままにPCに入力。
プリントアウトして掲示板に貼った。
その迅速な対応に少しだけ驚いていると、
「知っていますからね、あたしたち職員は。いつも丁寧な仕事をされている静河さんが、冗談でこんなことを言うはずがないって。なら、あたしたちもきちんと対応する必要があります」
はにかんだ彼女に、私はしばし言葉を失ったが、
「……ありがとうございます」
「いえ、お礼を言うのはこちらの方です!」
私は彼女が注意書きを貼ってくれた掲示板を見る。
ロビーにある掲示板。
そこには『高価買取!』『新規メンバー募集!』といった、極彩色の派手なポスターが所狭しと貼られている。
注意書きは、その隅の『その他連絡事項』のスペースに、確かに貼り付けられていた。
「では、お疲れ様でした」
「はい、また明日!」
元気な声に見送られて、私は踵を返す。
今日の私の業務は、開始から十数分で終了した。
ロビーを出ようとする私と、これから意気揚々とダンジョンへ向かう探索者たちがすれ違う。
「おい、見ろよ。臆病者がもう帰るみたいだぜ?」
「さすがビビリ。俺たちとは格が違う。天気がいいのに休みとか」
「なら、あいつがいつも使ってるルート、今日は俺たちが使わせてもらおう。掃除屋がいないなら獲物も残ってるだろ」
彼らの嘲笑が背中に刺さるが、それは私にとって工事現場の騒音と変わらない。
私はそのまま、真っ直ぐに帰路についた。
宿舎に戻ってきた私は、ベランダに新聞紙を広げ、バックパックと予備の靴を並べた。
日常的な防水対策はすでに施してある。
だが、今日の数値は異常だった。
湿度80%超えの環境下では、通常の撥水加工だけでは防ぎきれない微細な湿気が、縫い目から侵入するリスクがある。
「今日はいい機会だ」
私は道具箱から、ワックスとドライヤーを取り出した。
普段のルーティンでは時間がなくて省略している、縫合部分への目止め処理を行う。
ワックスを塗り込み、ドライヤーの熱で溶かして繊維の奥まで浸透させる。
手間のかかる作業だが、これをやることで防水性能は段違いに向上し、カビの根付きも防げる。
探索に出ない今日という時間を、装備の機能強化に充てる。
より過酷な環境に耐えうるための必要なコストだ。
丁寧にワックスを塗り込みながら、私は窓の外を見た。
空はまだ青いが、私の予測が正しければ、ダンジョン内は今頃、酷いことになっているはずだ。
「……よし」
嵐の海に出る愚を犯さず、陸で船底を補強する。
それもまた、立派な仕事の一部である。
次の日の朝、私はいつもどおり、探索者協会のロビーに足を踏み入れた。
昨日の湿度も下がり、環境モニターの数値は正常値を示している。
だが、ロビーの空気は重かった。
包帯を巻いてソファに座り込む者、あるいは担架で医務室へと運ばれていく者。
その中には、昨日すれ違った探索者たちの姿もあった。
「……ひどいな」
全身が赤く腫れ上がり、目をガーゼで覆っている。
胞子霧の中で視界を失い、活性化した昆虫系モンスター、あの様子から察するにキラービーの群れに襲われたのだろう。
典型的な環境災害だ。
私が彼らの横を通り過ぎようとした時だった。
「おい! ビビリ!」
包帯を巻いた男の一人が、私に気づいて立ち上がった。
「お前、知ってたのか!? 昨日、あんなことになるって! だから帰ったんだろ!?」
その大声に、周囲の視線が集まる。
「お前がいつも使ってるルートだ、なんで一言も言わずに帰った!」
「そうだ! 見殺しにする気だったのか!?」
自分たちが被害者で、私が加害者であるかのような口ぶりだ。
プロジェクトが炎上した際、「仕様書に書いてなかった」と騒ぎ立てるクライアントの顔が重なる。
私は動じることなく、彼らを見据え、そして口を開いた時、
「報告済みですよ!」
と言ったのは私ではなく、昨日、対応してくれた女性職員だった。
彼女は私たちの間に立つと、彼に対して言った。
「昨日の朝、あたしが静河さんから報告を受けて、その情報は掲示板に貼りました!」
正確には昨日の8時5分に、と彼女は続けた。
全員の視線がそこに向く。
派手なポスターの隙間、『その他連絡事項』のスペース。
そこに、昨日、私が伝え、女性職員が貼ったA4の紙が、そのまま残っていた。
——湿度上昇による視界不良、昆虫系モンスター活性化の恐れあり。注意せよ。
「こ、こんな地味な紙、気づくわけねえだろ!」
男が顔を赤くして叫ぶ。
「もっと大きく書くとか、直接言うとか、あっただろ!」
「いいえ! 静河さんは協会の規定通り、リスク情報を共有してくださいました!」
そして、と彼女は彼を見据えて冷徹に告げた。
「情報を確認して、それを活用するかどうかは、各個人の『業務』です!」
正直、驚いた。
私に応対してくれている時とはあまりにも違う、その冷たい態度に。
しかし同時に、頼もしくもあった。
「『利用規約』を読まずにサービスを利用して、トラブルが起きたからといって無関係の人に言いがかりをつけるなんて、あまりにも子どもじみています!」
彼女の口から出た正論に、ロビーが静まり返る。
だが、感情的には納得できない彼らが、拳を握りしめた時だった。
「まさか、なにかするつもりだろうか」
低い声が響いた。
権藤さんだった。
「掲示板の確認は、探索者規約第3条に明記された『探索前の義務』だ。つまり、君たちがただ単純に目の前の情報を見ていなかったというだけなのに」
彼は探索者たちを見据え、
「それを静河さんや彼女のせいにするのは間違っていると思うのだが。そう思うのは自分だけかね?」
権藤さんの視線が、男たちを射抜く。
「……君たちは自己責任という言葉の意味を、もう一度学び直した方がいい」
彼らは気まずそうに視線を逸らし、ソファに沈み込んだ。
私は腕時計を見る。
いつもどおりの、出発時刻だ。
「嵐は過ぎましたので、今日の業務を開始したいと思います」
私は女性職員と権藤さんに一礼した。
昨日入念にワックスを塗り込み、湿気に対する防御力を増したバックパックを背負い直して、私はいつもどおり、ダンジョンへと向かった。