作品タイトル不明
15話 ふたりきりのデート
陽春のひととき。
ヒノモトの朝は、しんと澄んだ空気に満ちていた。やわらかな光が木格子の窓を通り抜け、桜色の光となって畳に滲んでいる。
その光の中で、わたしはひとつ、深く息をついた。
絹の衣擦れが、かすかに音を立てる。
今日は普段のドレス姿ではなくてーー、目を引くほどの鮮紅に染め上げられた着物だ。繊細な絞り染めと金糸の刺繍が、春の花園を思わせる模様を描き出し、動くたび、波打つように裾が揺れた。
背中を支える帯は、まるで芸術品のよう。鳳凰と波紋の意匠が緻密に織り込まれた豪華な丸帯で、丹念に結ばれた文庫結びが、私の背で凛とした佇まいを見せていた。
「……なんだか、変な気分ね。見慣れないわ」
鏡の奥の自分が、現実のものとは思えなかった。
異国の衣装に包まれながら、どこかで懐かしさすら覚える――まるで、胸の奥にしまっていた記憶が、ふと呼び覚まされるような感覚。
「……そういえば。あれから何日か経つけれど……。カミルは結局、あのときのことを聞いてはこなかったわね……」
脚気の話をしたあと、彼は確かに何か言いかけていた。けれど結局、「それで、治すことはできるのかい?」とだけ問い直して、それ以上は何も言わなかった。
二人きりになれば、きっと尋ねられるだろうと思っていた。どうしてそんな知識を知っているのか。どこでその病を知ったのか、と。
けれどカミルは、何も聞かない。そのことにどこか引っかかりを覚えながらも、問いただされないことへの安堵と同時に、隠し事を抱えているような落ち着かなさが胸の内で入り混じっていた。
「私、いつまでこんな……。……ううん、今日はせっかくのデート。気を切り替えなくちゃ」
鏡越しに自分の姿を見つめながら、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
背後から声がした。
「エリィ。君は、どんな姿でも見惚れるほど美しいけれど……今日は、一段と綺麗だね」
声の主は、カミルだった。
いつもの白衣ではなく、今日は彼もヒノモトの正装に身を包んでいる。藍色の袴に淡い灰の羽織。簡素だが、細部まで仕立ての良さがうかがえ、彼のしなやかな身体にしっくりと馴染んでいた。
私は、ふっと笑みを漏らす。
「まぁ、カミル。よく似合っているわ」
今日はサクラもツキシマも連れず、カミルとふたりきりで城下町へ出かける。
もちろん、完全な自由というわけではない。護衛たちが少し離れた位置から、さりげなく周囲を警戒しているのが分かった。けれど――そのわずかな緊張感すら甘い高揚に変わる。
誰にも邪魔されず、こうして彼を独り占めできる時間。
それだけで、足取りが自然と軽くなる。
「今日は、どこに行きましょうか」
石畳を踏みしめながら隣を歩くカミルをちらりと見上げると、陽の光を受けた横顔がやけに眩しくて、くすぐったい気持ちになった。
カミルは横目でこちらを見て、柔らかな笑みを浮かべる。
「うーん。そうだね……せっかくだから、ゆっくり観光をしたいな」
穏やかな声が、春の風に溶けるように響く。
「まだ、ふたりでちゃんと歩いたことはなかっただろう?」
そう言いながら、彼の歩幅がほんの少しだけゆるむ。
「……いいわね。こうしてふたりきりで過ごすのも、久しぶりだものね」
気づけば、ふたりの間には指一本ほどの距離まで縮まっていた。触れそうで、触れない――そんな、くすぐったい空気。
並んで歩く石畳の道は、朝の陽射しを受けて淡く輝く。
両脇には瓦屋根の家々が連なり、軒先からは色鮮やかな暖簾が揺れている。
通りの向こうでは露店が並び、傘や日用の雑貨が売られていた。その横では、野菜を並べた農家の女が威勢よく声を張り上げ、買い物かごを抱えた町人たちが足を止めて品定めをしている。
石畳に響く足音、遠くから聞こえる子供たちの笑い声、瓦屋根に反射する光――すべてが、今日のデートの特別な時間を彩っているように感じられた。
石畳の道を並んで歩いていると、一本の細い路地が目に入る。その奥に、小さな小物屋を見つけた。
木の格子戸の隙間から、漆塗りの櫛や手鏡、色とりどりのかんざしがちらりと顔を覗かせている。
「ちょっと覗いていかない?」
私がそう言うと、カミルは軽く頷き、二人で店の中へ足を踏み入れた。
棚には、小さな香炉や和紙細工、金銀の細工を施した装飾品まで、まるで宝石箱をひっくり返したように、けれど整然と並んでいる。
私は奥の棚にある手鏡に目を留めた。白百合が丁寧に描かれた、淡い色合いの鏡。
「この手鏡、とても可愛いわ。今頃サロンで頑張っているリリィに、お土産に持って帰ろうかしら」
思わず手に取ると、ひんやりとした木の感触が掌にやわらかく馴染んだ。視線を棚の端へ滑らせると、小ぶりな螺鈿細工の飾りが目に入った。
「アメリアにはあちらのほうが似合うかもしれないわ。華やかすぎず、でも地味でもない、あの子らしい品の良さがあるわ」
思わず口元がほころびかけたとき、不意に、カミルが一歩近づいてきた。
彼の手が、そっと私の隣へ伸びる。
「このかんざし、君によく似合うと思う。君の瞳と同じ色だ」
指先がかんざしに触れた。それからゆっくりと、私の髪へとあてがわれる。
ブロンドの髪に、紅玉の赤がきらりと瞬いた。
途端に頬へ熱がさっと広がり、私は視線を逸らした。
「……そ、そお?」
「うん、とても似合うよ。ああ、これも」
今度は翡翠のかんざしをそっと髪に添える。
冷たい石の感触が髪をすべり、心臓の奥がきゅっとなる。落ち着かない気持ちになり、手のひらを軽く握りしめた。
「どうかした?」
「……こういうの、慣れてないのよ」
元婚約者だった殿下から、私のためだけに選ばれた贈り物をもらったことは、ただの一度もなかった。カミルから贈り物を受け取ったことはある。
でも、こうして目の前で、私のために選ぼうとしてくれるのは――はじめてのことだった。
「じゃあ、慣れるまで付き合おう。このかんざしはどうかな?」
カミルの指がまた髪にそっと触れる。かんざしが光を弾くたびに、胸がきゅっとなった。私は小さく頷きながら、手に握っていた手鏡をそっと持ち上げた。
そのとき、店主が穏やかな笑みを浮かべながら近づいてきた。
「お嬢さん、そちらのかんざしも手鏡も、ご興味がおありですか?」
「ええ、この白百合の柄がとても素敵で……」
「お目が高い。どれも職人の手作りでございまして、花の陰影の一筋まで、丁寧に仕上げておりますよ」
その説明を聞くと、さらに愛着が湧いてくる。
カミルもかんざしを店主に差し出し、髪に当てた感触を確かめながら尋ねる。
「こちらも、同じく手作りですか?」
店主は目を細め、嬉しそうに頷いた。
「左様でございます。この地で採れた翡翠を、職人が一から丁寧に磨き上げたものでして。翡翠は持つ方の運気を高めると申しまして――大切な方への贈り物としても、よく選ばれる品でございますよ」
「そうなんですね」
カミルはかんざしをもう一度光にかざしてから、私のほうへ視線を向けた。
「気に入った?」
「……ええ、綺麗だと思うわ」
カミルはそんな私をちらりと見て、ふっと笑う。からかうような笑みではなく、どこか優しく、くすぐったそうな笑みだった。
「じゃあ、やっぱりこれがいいかな」
そう言って、彼の指先が私の髪を軽くすくい上げ、翡翠色のかんざしをそっと差し込んだ。
さらり、と髪が肩を滑る。
その指先がほんの一瞬、耳元に触れた気がして――胸がどきりと高鳴った。
「……うん」
カミルは少し離れて、私を眺める。
「やっぱり、よく似合うよ」
「……本当に?」
「うん。君はなんでも似合ってしまうけどね。……この翡翠、僕の瞳の色に似ていると思わないかい? ……僕の色を身に纏ってくれると、嬉しい」
さらりと言ってのけるものだから、胸の中が忙しくなる。返す言葉が見つからなくて、私はそっと視線を手鏡へ落とした。
鏡の中には、翡翠のかんざしを挿した自分の姿。
ブロンドの髪の間で、淡い緑が静かに光っている。……彼の瞳と、同じ色。
そう思った途端、また頬に熱が戻ってきて、私は鏡から目を逸らすしかなかった。
「……じゃあ、この手鏡とかんざしを。それから、あちらの螺鈿細工の飾りも」
店主にカミルが告げると、三つの品が丁寧に紙で包まれていく。それを受け取れば、胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じた。
店を出て路地を抜けると、活気ある広場に出た。煮物の甘い香り、香ばしく焦げた煎餅の匂いが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。
屋台には赤い布をかけ、木製の器に盛られた料理が並んでいる。店主たちの呼び声や笑い声が飛び交い、人々の熱気が心地よく胸に届く。
「あっ、この香り……」
足が、自然と止まった。
炭火で焼かれる団子の屋台。こんがりと焼き色のついた団子が、串に刺さって艶やかに輝いている。傍らでは子供たちが頬を膨らませて、夢中で頬張っていた。
「やっぱりお団子だわ!」
香ばしい醤油の焦げた香りが、春風とともに漂ってくる。
「買い食いなんて行儀悪いけど……。旅の間くらい、いいわよね?」
カミルに笑いかけると、彼は肩をすくめながらも手を差し出した。
「うーん、貴族らしくないと言えば、そうだけど……今更じゃないか。それに本国の奴も見てないしね」
カミルは屋台でみたらし団子を二本買って、その一本を渡してくる。
わたしがひと口頬張ると、とろりとした甘じょっぱいたれが舌の上に広がり、香ばしい焦げ目が奥行きのある味わいを添えた。
「美味しい……! もちもちしてて、最高だわ!」
気がつけば、通りの人々がこちらをじっと見つめている。
異国の男女が、慣れない着物を纏い、並んで立ちながら団子を分け合っている。確かに人目を引く光景だろう。
じわりと顔に熱が集まる。私は串を最後まで齧り取り、そそくさとその場を後にした。
ふたり並んで歩く道は、にぎやかな通りを抜けると、だんだんと人影がまばらになり、周囲は次第に静けさを取り戻していった。
土の道の両脇には菜の花が咲き、春の匂いを乗せた風が髪をなでていった。
「この先よ」と私は小さくつぶやき、ゆるやかな坂を上り始める。
しばらくすると、古い瓦屋根と朱塗りの門が、木立の向こうに姿を現した。
立ち並ぶ石灯籠や重厚な門の造りは、長い歴史の積み重ねを物語っているようだった。
「此処が神社か」
「ええ」
自然と、カミルの手が私の指をそっと取る。そのまま私たちは、手を繋いで神社の境内へ足を踏み入れた。
両脇には桜の木がずらりと並び、苔むした石段を上りきった先に広がる景色に息を呑む。
私は目を見開き、ふわりと微笑んだ。
「……すごい。視界いっぱい、桜だわ」
ずっと昔、もう前世の事になるけれどーー。桜は七分咲きが最も美しいと、とある本に書いてあったのを覚えている。
でも、満開の桜も嫌いじゃない。
風に乗って桜の花びらがはらはらと舞い散る中を歩くのは、まるでピンク色のシャワーを浴びているみたいで、気持ちが良かった。石畳の道には花びらがうすく積もり、風が吹くたび、薄紅の波がさらさらと足元を流れていった。
「わあ、大きな桜の木だわ!」
境内の中心にそびえるその一本桜は、まるで空に届くかのように高く、大きく枝を広げていた。
無数の花が咲き誇り、春の風に乗って花びらが舞い落ちる様子は、まるでこの世のものとは思えないほど幻想的だった。
「綺麗……」
私は吸い寄せられるようにそのもとへ近づく。太い木の幹に手をついて空を仰げば、視界一面が桜色に埋め尽くされた。
この世界の桜は、春の間じゅう咲き続けるという。日本の桜よりずっと長く。けれど、今の満開を見ていると、そろそろ終わりが近いことがわかった。
「ねえ、カミル。見て……」
振り返ろうとした瞬間、不意に背後から抱きしめられる。
「な、なに。どうしたの、カミル」
「エリィが桜に攫われてしまうと思って……」
低く切なげな声が、耳元で震える。ぞくりと背筋に甘い衝撃が走った。
「もう……なにそれ。ずいぶんロマンチックなことを言うのね、カミル。……カミル?」
桜に攫われるだなんて、前世で言う少女漫画の台詞みたいよ。思わず笑いながら返すのに、彼はなぜか黙ったまま。振り向こうとするけれど、腕の力が強くて動けない。
「カミル……?」
ずっと黙ったままのカミルに不安を感じて、再び名前を呼ぶ。
自分の体を抱きしめる腕にそっと手を重ねれば、かすかに震えているのが分かった。
「貴方は……不思議な人だ」
長い沈黙を破った後、カミルがぽつりと言う。
「エリィ……。君が何か隠し事をしているのは……知っている」
「っ……!」
胸の奥がどくん、と跳ねる。
「僕は医者だけど、君が話すことには知らないことが多すぎる。医学の知識も、言葉も……そして、その目だ。君は時々、遠い場所を見ているみたいになる」
脈が早鐘を打つ。
ヒノモトの風景に懐かしさを重ね、前世――日本への想いに浸っていた。
知らず知らずのうちに、それが表に出ていたのだろう。
「エリィがなにか秘密を抱えているのは、大分前から薄々……気づいてた」
その言葉に、血の気が引いた。
「ち、違うの、カミル……。隠すつもりじゃ……なくて……!」
今まで、何度打ち明けようとしたことか。
ただ、信じてもらえるか不安だった。前世の記憶があるなんて、あまりにも突飛な話だもの。
もし変に思われたら? もし距離を置かれたら?
そんな想像ばかりが先に立って、言葉を飲み込んできた。
たとえ、カミルがそんな人じゃないと分かっていても。
……臆病だったのは、他でもない、私自身だった。
「僕は、君がくれた知識に何度も救われたし、きっと我が国の未来も変わるだろう。……けど、そのぶん、君がどこか遠くへ行ってしまいそうで。気づいたら消えてしまいそうで、怖いんだ」
でも、その臆病さがーー知らないうちに、彼をこんなにも不安にさせていた。
重ねていた手を、私はぎゅっと握りしめる。
「カミル……、ごめんなさい。信じてないわけじゃないの。ただ、貴方を愛してるからこそ……言えなかったの」
胸の内に秘めていたものが、ようやく言葉になる。
カミルの腕の中は、あたたかくて、柔らかくて。
けれど、心は凍えそうだった。
今、このぬくもりを失ってしまったらどうしよう。
この言葉が、全てを壊してしまったら――。
それでも、もう逃げたくなかった。
彼の切実な想いに触れて、やっと、私も向き合おうと決めた。
「カミル……わたし……本当は……」