作品タイトル不明
10話 ツキシマとサクラ
「ごめんなさい、エリザベート様……」
私の問いにサクラが、小さく頭を下げた。その声はか細く震え、申し訳なさが滲んでいる。
ほんのわずか肩を縮めた仕草から、ツキシマのあの頑なさに、彼女自身も戸惑いを覚えているのだと分かった。
「サクラが謝らないで! 態度が悪いのはツキシマで、サクラには関係ないじゃない」
思わず手を振り、言葉を遮る。
けれどサクラは、微かに俯いたまま、相変わらず申し訳なさそうな表情を崩さなかった。
「いえ。ツキシマがあのような態度を取るのは、……私のせいなのです」
「サクラのせい? どういう事?」
私が問い返すと、サクラは小さく息をつき、ゆっくりと話し始める。
「実は……以前、エリザベート様と同郷の商人の方がこちらに来られたことがありまして……」
その商人の交渉の際も、帝国語が話せるということで、サクラが進んで翻訳役を務めたのだという。彼女は少し緊張しながらも、真摯な態度で通訳に当たった。
しかし、腹を空かせていた商人に、サクラが心を込めて握ったおにぎりを差し出したところ――
「手で握った!? こんな野蛮な食べ物を食べる訳がない!」
と、冷たく踏みつけられてしまった。
ツキシマはその様子を目の当たりにして、怒り心頭で、
「姫様の善意を踏みにじるなど……!」
と激昂したそうだ。
「元々、海外の方に良い感情を抱いてはいなかったようなのですが……。それ以降は、さらに嫌悪感が強まったようでして……」
サクラは痛ましげに眉を寄せる。
その言葉の端々には、悔いとやるせなさが滲んでいた。
「なので、海外の方に敵意をむき出しにするのは……私を案じてのことなのです。だからといって、エリザベート様とあの商人を一緒するなど……本来、許されることではないのですが……」
「いえ、そんなことがあったのなら――ツキシマが私を警戒する気持ちも理解できるわ」
胸の奥がじんと痛んだ。
まさか、そんな出来事があったなんて。彼の粗暴な態度の裏に、サクラを守ろうとした忠誠心があったのだと思うと、胸にあった怒りはしぼんでいった。
茶屋の店主が言っていたのを思い返す。以前、和菓子を泥団子だと言われたと。
……この国の人達も文化も、外から来た者から嘲られた経験は、決して一度や二度ではないのだろう。
そう思うと、この国の人々がよそ者を拒絶するのも、無理もないかもしれない。
「こちらこそ……同郷の者が本当に申し訳なかったわ」
静かに頭を下げると、今度は彼女が慌てて手を振る番だった。
「いえ、エリザベート様が謝罪なさることでは――」
「その商人の名を教えていただける?」
私はまっすぐに彼女を見据える。
「私が代わりに、正式に抗議するわ」
その一言に、サクラの瞳がはっと見開かれた。
「えっ! いえ……そんな、大げさな。もう昔のことですし、大事にするのは忍びなくて……」
けれど、私は首を横に振った。
「いいえ、そんなことはないわ。サクラの優しい心を傷つけるなんて、決して許されることではないもの。それにね、私たちの国の者が行った愚行を許したままにしては、今後の交流に影を落としかねないの。罪は罪として正さなければ、信頼のある関係は築けないわ――」
自分でも驚くほど、言葉に力がこもっていた。
胸の奥から湧き上がるのは、怒りでも義務感でもない。この美しい国と、サクラという少女を尊重したいという、純粋な思いだった。
サクラは息を呑んだように、私を見つめていた。
その瞳が静かに潤み、光を帯びた。戸惑いと――言葉にできない感謝の気持ちが、彼女の黒曜石のような瞳に滲んでいる。
「ありがとうございます。私のために、怒ってくださって……。私、本当に……嬉しいです」
「いいえ、当然のことよ」
私が穏やかに微笑むと、サクラは涙を隠すように俯いて、指先で目尻をそっと拭った。
「――ところで、少し失礼なことを伺ってもいいかしら」
サクラがぱちりと瞬きをし、顔を上げる。
少しだけ緊張しているのが表情から伝わってきた。
「な、なんででしょう……?」
「いえ、先ほどの……そのおにぎりのことなの。私を出迎えた時にもおにぎりを持っていたでしょう? その、どうして、いつもおにぎりを持参しているのかしらと、少し気になってしまって……」
私の問いかけに、サクラははっとして、頬をわずかに染めた。
指先で袖の端をいじりながら、困ったように微笑む。
「……あれは、ええと……昔からの習慣のようなものでして」
「習慣?」
「はい。幼いころから、ツキシマによく差し入れをしていたのです」
サクラの声が、懐かしさを帯びてやわらかくなる。
胸の奥にしまわれていた記憶の引き出しを、壊さぬようそっと開くように――彼女は一言ずつ、丁寧に言葉を紡いでいく。
「子どもの頃、私はよく……ツキシマのいる鍛錬場へ通っていました。あの人は……私が物心ついた時には、もうずっと護衛として側にいてくれて……」
わずかに視線を伏せ、思い出をなぞる仕草は、ひどく慎ましく、それでいて愛おしい。
「どんな時に行っても、必ずそこにいて……木刀を振っているんです。朝も夜も変わらずに。汗で髪が張りついても、手のひらが擦り切れても……時には先輩に厳しくしごかれても、それでも休むことなく、ただひたすらに腕を磨いていて……」
その光景を思い浮かべているのだろう。サクラの声音に、かすかな熱が宿る。
「幼い私には、それがとても大変そうに見えて……。私を守るためだと分かっていても、どう声をかけたらいいのか分からなくて。だからせめて、と思って……差し入れに、おにぎりを握って持っていったんです。まだ形もいびつで、うまく握れなくて……何度も崩れてしまったりもしましたけど……、それでも、あの人は受け取ってくれて」
ふっと、淡い笑みがこぼれた。
「……嬉しそうに食べてくれたんです。あの通り、無口な人ですから、多くは語らないのですけれど……それでも、ほんの少しだけ、表情がやわらぐのが分かって」
その記憶は、今も彼女の中で確かな温度を持っているのだろう。
「だから私は……ほんの少しでも、あの人の支えになれたならって……。今では、鍛錬の代わりにお仕事で忙しくしているツキシマに、あの頃と同じように、おにぎりを差し入れしているんです」
その声には、幼い日の情景が透けて見えるようだった。
木刀を振るう少年と、それを遠くから見守る小さな少女。湯気の立つ白い米を、不器用な手で懸命に握る姿。
その温もりまでも、目に浮かぶようだった。
「ふふっ、ふたりは、いわゆる“幼なじみ”という関係なのね。仲が良いのね」
私がそう言うと、サクラは小さく頬を染め、はにかんだ笑みを浮かべた。
「……はい。……泣きそうになった時も、転んでしまった時も、いつも手を引いてくれて……危ない時は、必ず助けてくれました」
指先をそっと重ねながら、彼女は小さく息を吐いた。
「どこへ行くにも、必ず一緒でした。街へ出る時も……夜に雷が鳴った時でさえ、気づけばそばにいてくれて。危ないことがあれば、何も言わずに前に立って、私を庇ってくれて。……だから、気づけば一緒にいるのが当たり前になっていて……」
その声には、守られてきた時間の温もりが静かに滲んでいた。
「ツキシマがどう思っているかは分かりませんが、私にとっては――兄みたいな。そう、家族のような存在で。とても、大切な人なんです」
一呼吸おいて、小さく、独り言のように続ける。
「……いえ、家族、と言うと……少し、違う気もして」
「違う?」
「はい。家族であれば、離れていても……きっと、こんなに気にならないと思うのです。ツキシマが側にいないと、何かが足りないような気がして。声が聞こえないと、どこかそわそわして。……おかしいですよね」
そこまで言って、サクラははっと口を押さえた。
頬がみるみる赤く染まっていく。
「……す、すみません。お聞き苦しいことを」
「いいえ」と私は微笑んだ。少しも、聞き苦しくなどなかった。
むしろ、微笑ましく思った。
自分の気持ちを言葉にしながら、その言葉が追いつかないことに戸惑っている。そんなサクラを見ていると、懐かしい気持ちになる。きっとサクラ自身は、まだ知らないのだろう。胸のそわそわに、名前があることを。声を探してしまうあの感覚が、何を意味するのかを。
――"幼なじみ"などという言葉では、到底収まらない。
ふたりのあいだにあるのは、もっと長い時間をかけて編まれた絆なのだろう。
私は確かに、そう感じた。