軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

9話 異国への憧れ

カミルは巻き込まれた人々を診る為に、そのまま現場に残った。

危険だからと、私たちは半ば強引に屋敷へ戻されるかたちとなった。

与えられた座敷に腰を下ろした瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れたように、全身から力が抜けていく。

畳の柔らかな香りが鼻先をくすぐり、ふう……と深く息を吐く。今になって、自分がどれほど緊張していたのか思い知った。

「……今日は、疲れたわね」

ぽつりと漏らすと、隣に座るサクラが控えめに頷いた。

「はい、本当に。今日は色々ありましたからね」

和菓子勝負に、突然の襲撃――。思い返せば、息つく暇もないほどの一日だった。

私は肩を竦め、近くで控えていた侍女に声をかけた。

「自国から持参した紅茶を淹れてくれる? 私とサクラの二人分、お願いね」

侍女は恭しく頭を下げ、滑らかな動きで部屋を下がっていった。

「紅茶……ですか?」

「ええ。サクラにはヒノモトの文化をたくさん教えてもらっているでしょう? だから今度は、私の国の味も知ってもらいたいと思ったの。……迷惑じゃなければだけど」

そう言うと、サクラはぱっと表情を明るくした。

「迷惑だなんてとんでもありません! 書物から知識はありますが……、実際に飲むのははじめてです。どんな味がするのでしょう。とても楽しみです」

「きっと、気に入にいるはずよ」

やがて、侍女が湯気を立てるティーポットと、私が持参した薄い桜色の磁器のティーカップを盆に乗せて戻ってきた。

畳の上を滑るように進み、音ひとつ立てず盆を置く。

ポットから注がれる琥珀色の紅茶。

細い湯気が立ちのぼった瞬間、ふわりと甘やかな香りが広がった。乾いた茶葉が湯の中でほどけ、花のような芳香が静かな座敷に溶けていく。

その香りに、サクラの肩が小さく跳ねた。

「……まあ。こんなに華やかな香りなのですね」

「種類にもよるけれど、花の香りがするの。私の好きな茶葉よ」

侍女が紅茶を注ぎ終えると、静かに一礼して下がった。

サクラは両手でそっとカップを包み込むように持ち、一瞬ためらってから、ごく小さく口をつける。

そして。

「……っ」

瞬きが二度。唇が柔らかくほころぶ。

「すごい。口の中で花が咲いたみたい……っ!」

その素直な感想に、自然と口元がゆるむ。

「気に入ってくれてよかったわ」

サクラはこくこくと頷き、嬉しそうに続けた。

「東洋の文化って、本当に素晴らしいですね。この紅茶も……それに、エリザベート様のお召し物も、とても素敵です」

「ふふ……ドレスのこと?」

「はい。まるでお花のように華やかで、生地も光沢があって……。刺繍だなんて、触れたら溶けてしまいそうなほど繊細で……。あの、失礼でなければお尋ねしたいのですが――」

「なにかしら?」

「その……歩きづらくありませんか? フリルもふんだんで、嵩張っているので……歩きづらそうだな、と」

思いもよらぬ質問に、私は堪えきれず吹き出してしまった。

「ふふっ! 正直に言うと……動きやすいとは言えないわね。階段なんて特に大変よ。子供の頃は何度、裾を踏んで転びそうになったことか」

「まあ……! その華やかな格好にも、苦労があるのですね」

「でも、慣れてしまえば案外どうということはないの。このドレスで社交ダンスだって踊るのだから」

「社交ダンス?」

サクラが目を瞬かせる。その声音には、純粋な好奇心が滲んでいた。

「ええ」

私は微笑み、指先でカップを軽く回す。紅茶の香りがふわりと広がった。

「音楽に合わせて男女が組み、ホールの中を優雅に舞うの。単に踊るだけではなく、社交そのものでもあるわ」

サクラは息を飲むように前のめりになった。

その黒い瞳に映る期待の光が愛らしい。

「舞踏会ではね、煌めくシャンデリアが会場全体を照らしていて、ドレスの刺繍や宝石が光を反射して揺れるの」

「……まあ」

「音楽が流れ始めると……空気が変わるわ。弦楽器の音が身の芯から響いて、鼓動までそのリズムに合い始めるようなの。そのまま手を取られ、ステップを踏んで回転すると……世界が、自分を中心に回っているみたいに感じるの」

サクラは頬に手を当てて、うっとりと目を細めた。

「なんて……素敵な世界なのでしょう」

「そうね、とても華やかよ。でも同時に、礼儀や格式も求められるの。その場に立つ者は、装いも振る舞いも、気を抜くことは許されないわ。舞踏会は貴族たちの社交の場でもあるの。ほんの些細なミスでも、足元を掬われてしまうのよ」

「華やかなだけの世界ではないのですね……」

サクラはふるりと震えた。まるで、その場の空気の重さを肌で感じてしまったかのように。

けれど。胸の前でそっと手を組み、惚ける様に吐息をついた。

「それでも……羨ましいです。そんな景色を見てみたい。光の中で踊るって、どんな気持ちなのか……私も感じてみたいです」

ぽつりと零れた声は、どこか淡い憧れを帯びている。

そして、こちらを見上げる。黒い瞳が、まっすぐこちらを映す。

「……エリザベート様の国の話、もっと聞かせていただけますか?」

その声音は、期待と好奇心に満ちていた。

まるで海の向こうの景色を、心の中で描こうとしている子どものよう。

私は頷き、カップを口元へ運ぶ。

「もちろんよ。どこから話しましょう――私の国の食文化? それとも、装いやその他の文化に興味があるのかしら?」

するとサクラは、少しだけ躊躇うように視線を落とし、どこか恥ずかしそうに言った。

「もし、ご迷惑でなければ……全部、聞きたいです」

「ええ。時間はたっぷりあるものね。順番に話してあげるわ」

そこから話題は尽きなかった。自国の食文化のこと、黒パンと白パンの違い、季節の祝祭の日にだけ卓に並ぶ甘い菓子の話。さらには、今年流行しているドレスの色や形、貴婦人たちが競うように身にまとう装飾のことまで。

語るたび、サクラは真剣な瞳で耳を傾けていた。ひとつひとつの言葉を取りこぼすまいとするかのように、必死に。

「サクラは海外に興味があるのね」

そう問いかけると、サクラは満面の笑みを浮かべた。

「はいっ!」

答えた声は弾むように軽く、抑えきれない興味と好奇心が滲んでいた。

「……街並みも文化も、食べ物も衣装も――全部違う世界があるなんて、考えるだけで胸が高鳴るんです。知らないものに触れるたびに、“世界ってこんなにも広いんだ”と実感します」

そう言うサクラの指先は、ティーカップのふちをそっと撫でていた。言葉だけでなく、全身が海の向こうへの憧れを表しているようだった。

「だから、こうしてエリザベート様から直接お話を聞けること……本当に嬉しいんです」

声のトーンが、ほんの少し変わった。

「……小さいころから、異国のことを調べるのが好きだったんです。書物を見つけるたびに読み漁って、地図を広げては知らない国の名前を指でなぞって。どんな街並みなのか、どんな言葉を話すのか……考えるだけで、胸がいっぱいになって」

「素敵な子供時代ね」

「でも――」

サクラは小さく苦笑した。カップを持つ指先が、わずかに強張る。

「女の癖に、って周囲の人間には言われました。異国のことなど調べてどうするつもりだ、と」

囁くような声だった。怒りでも嘆きでもなく、ただ事実として告げるような。それがかえって、胸の奥にすとんと落ちてきた。

「……そう」

私は相槌を打ちながら、カップを静かに置いた。

「それでも、やめなかったのね」

サクラは驚いたように顔を上げ、それからゆっくりと頷いた。

「……はい。やめられなかったんです。だって、知りたかったから」

その言葉に、私はかすかに目を細める。

女だから、と線を引かれることには――私も、覚えがある。だから、その言葉の重さがわかる。

「知りたいと思う気持ちに、女も男も関係ないわ」

自然と、そう口をついていた。

サクラはぱっと顔を上げた。その、黒い瞳が、少し潤んでいる。

「……そうですね。ありがとうございます」

頷いたその声は、柔らかかった。

サクラは異国を、まるで希望を見るように語る。未知に手を伸ばし、変化を恐れず、それどころか全身で歓迎している。その姿が、眩しかった。

そんなサクラを見つめているに、ふと疑問が沸きあがった。

この子はこれほどまでに、異国に対して純粋な憧れを抱いている。それなのに、どうして。あの男――ツキシマは、まるで壁でも作るように、頑なに拒絶の色を見せるのだろう。

「ねえ、サクラ」

気づけば、口を開いていた。

「あなたは異国に惹かれ、好意すら抱いているようなのに……どうしてあなたの護衛、ツキシマは、あれほどまでに冷たい態度を取るのかしら?」

あくまでも責めるつもりはなく、ただ確かめるための問いかけだった。

この国には、外国人にあまり良い感情を抱いていない者が少なくない――それは今日、嫌というほど思い知った。それでも……ツキシマの態度は、少し度が過ぎているように感じてしまう。

それに――先ほど、身を挺して私たちを守ってくれたばかりだ。だからこそ、余計に不思議だった。

……決して、あの態度のままの冷たい人ではない、と感じていた。