作品タイトル不明
2話 桜の国
ただ、いざ意気込んでヒノモトへ向かったものの――
船旅は、想像をはるかに超えて過酷だった。
貴族令嬢の優雅なクルーズ旅行。そんな幻想は、出港初日のうちに無残にも打ち砕かれた。
前世のイメージでは、甲板で海を眺めながら紅茶を楽しむ……そんな優雅な時間を夢見ていたのだけど。
現実の海は荒々しく、容赦がなかった。
リューベンハイト王国の港から出航した大型商船は、うねり狂う波に翻弄され、潮風が頬を叩く。
船体が軋むたびに、胃の中まで揺さぶられるようだった。
「う……うぅ……胃の中身が……上下左右に、ぐるぐる回って……気持ち悪いわ……」
私は甲板の手すりにしがみつきながら、必死に耐えた。
潮の匂いが鼻を刺し、髪は風に煽られ、せっかく侍女が美しく結い上げてくれた髪型は見る影もない。
唇からは血の気が失せ、顔色は青白かった。
「……こんなはずじゃ、なかったのに……! でもっ……これも、すべてはお米のため……っ……!」
波の音とともに、私の嘆きが風にさらわれていった。
カミルは、そんな私の様子を見かねて、すぐに薬を調合してくれた。
「これを少しずつ飲んで。胃の動きを穏やかにする薬だよ」
「ありがとう……」
それを飲んだ後は、胸のむかつきが和らいで、呼吸も少しずつ落ち着いていった。
さらに彼は、私の服装にも気を配ってくれた。
「腰を絞るコルセットはよくないんじゃないか。今だけは外して、体を休めることを優先しよう」
彼の助言に従って、簡素なドレスに着替える。髪をほどき、船室で横になり、じっとしていた。
――航海は、一か月にも及んだ。
長い旅のあいだ、体調が安定しない日も多かったが、それでも私は学びを怠らなかった。
ヒノモトの文化、礼儀、言語。覚えるべきことは山ほどある。
本を開くとすぐに目が回ってしまうため、寝台に横になったまま、カミルに言葉のやり取りを教えてもらった。
「これは、“こちらの件、ご対応いただけますでしょうか?”という意味だ」
「“いただけますでしょうか”……敬語ね」
「そう。ビジネスの現場で使われる言葉だ。これできる? では失礼に当たるから、こちらの言葉を使うべきだとあるね」
波に揺れる小さな船室の中で、私たちは何度も何度も繰り返した。
カミルの落ち着いた声は、果てしない旅の中で唯一、心を穏やかにしてくれるものだった。
そしてある朝、夜明けとともに、見張りの声が甲板に響き渡った。
「――陸だァーっ!」
その声を聞いた瞬間、私は飛び起きた。
寝癖のついた髪も気にせず、勢いのまま船室を飛び出そうとしたところを、カミルに慌てて止められる。
「落ち着いて、エリィ。その恰好で人前に出るのは止めた方が良い」
「そ、そうね。私ったら、気が急いたばかりに……」
急いで身支度を整え、今度こそ甲板へ向かった。
朝霧に包まれた甲板の向こう――
水平線の先に、深い緑の島々がぽつりぽつりと浮かんでいた。
淡く白む空と、翡翠のように透き通る海。
その境目から、陽の光がゆっくりと差し込み、島々の輪郭を黄金色に縁取っていく。
波が少しずつ穏やかになり、船体が優しく揺れる。
白く泡立つ波間を抜けて、やがて陸の影がはっきりと現れたそのとき――
私は、思わず胸元を押さえた。
風が、変わった。
それは旅立ちの港で感じた潮風とはまるで違う。
潮の香りに混じって、草と土の匂い、花のような甘い香気が漂ってくる。
空気そのものが柔らかく、どこか懐かしい。
「エリザベート様、あれが……ヒノモトの港です」
甲板に立つ私の傍らで、随行の騎士が声を落とす。
指さされた先――その向こうに広がるのは、ただの港ではなかった。
「あっ、……あれは……」
眼下に広がっていたのは、一面の桜の花だった。
それは、絵画のような光景だった。
いや、絵画でさえ、この美しさを捉えることはできない。
山の斜面を覆い尽くすように咲く淡紅の花々。
港の並木道にも、屋敷の庭にも、町の路地にも。
まるでこの国全体が、桜という名の夢で覆われているようだった。
「綺麗な……国ね……」
呟きは風に溶けた。頬に当たる風が、どこか柔らかくて、ほんのり甘い。
船が着岸し、舷梯が降ろされる。
私は裾を持ち上げ、ゆっくりと、はじめの一歩を踏み出す。
踏みしめた板の感触が、しっかりと伝わってくる。長い旅路を越えた足が、確かにこの異国の大地に触れている。
そして――
桜の花びらが、はらりと舞った。
ひとひら、またひとひら。
春風に乗って、空から降り注ぐように。
それはまるで、祝福のような、洗礼のような、美しい雨だった。
私は思わず、顔を上げる。
「……まるで、夢のなかのようね……」
どこまでも静かで、どこまでもやさしくて。
けれど確かに、ここは現実だ。
私は、健やかな美を育む食材を求めて――。前世の面影が残る、この桜の国にやってきたのだ。
新しい始まりの香りの中、
私の胸に、ひとつの誓いが芽吹いた。
“絶対に米や醤油や味噌といった調味料を持ち帰って見せる!”
けれど、喜びも束の間。上陸した私たちを待っていたのは、歓迎ではなく、門前払いだった。
「――即刻、立ち去られよ」
港町の関所には、一人の男が待ち構えていた。
黒髪を後ろでひとつに束ね、背へと静かに流している。切れ長の瞳は鋭く細められ、その奥に宿る感情はほとんど窺えない。愛想の欠片もない、冷えた面差しだった。
着物と袴を着こなし、腰には一振りの刀を携えている。
その立ち姿は――前世の言葉で借りるなら、まるで“侍”だった。
「ここは貴様らが足を踏み入れてよい場所ではない」
「……随分なご挨拶ね」
内心むっとしながらも、私は何事もないように一歩前へ出る。
裾を整え、背筋を伸ばし、淀みなく口を開いた。
「私はエリザベートと申します。この度は異文化交流を願い、遠路はるばる参りました。どうぞ、よろしくお願いいたします」
ヒノモトの言葉で、丁寧に名乗った。優雅に一礼してみせる。
だが侍の男は、眉一つ動かさない。
「異邦の者、ましてや貴族の女など、通すわけにはいかぬ。ヒノモトは、外来の者に寛容な国ではないのでな」
「なにか誤解があるようですわ。私はあなた方の文化を心から尊敬していて、学びたく――」
「口先だけの敬意など、いらぬ!」
突きつけられた拒絶に、流石にカチンとくる。
まだ、まともに会話もしていないのに、敬意がないって決めつけて。一体、どういうつもりかしら。
そのときだった。
「ツキシマ、やめなさい!」
柔らかな声が、ツキシマの背後から割って入った。
視線をやれば、藤色の着物を着た少女が、手籠を抱えて立っていた。歳は15、16だろうか。腰まで流れるまっすぐな黒髪、同じ色の瞳は凪いだ湖面のように澄んでいる。
飾り気はない。けれど、指先の揃え方や、わずかに首を傾げる仕草の端々に、育ちの良さがにじんでいた。素朴でありながら、凛とした品を湛えた佇まいだった。
「わたしの従者が失礼しました」
深々とお辞儀をする。
驚くほど、滑らかな帝国語だった。異国の訛りをほとんど感じさせない。
「はるばる遠方より、ようこそお越しくださいました。私、この藩主が娘――春日桜と申します。通訳を仰せつかっておりますので、どうぞお見知りおきを」
ふわり、と。
花がほころぶように、やわらかな笑みが浮かぶ。
「長旅でお疲れでしょう。さぞお腹も空いていらっしゃるはず。ささやかではございますが、お食事をご用意しております。――どうぞ、我が館へ」
「……そうね。恥ずかしながら、今朝もほとんど食べられなくて……」
船酔いが酷くてまともに食事が摂れない日々が続いていた。
サクラは「あらまあ」と相槌を打つ。
「それはお気の毒に……。あの、よろしければ、軽食にと持ち合わせたものなのですが」
サクラがいそいそと差し出したのは、笹の葉に丁寧に包まれた、手のひらに収まるほどの黒い食べ物だった。
カミルが身をかがめ、興味深そうに覗き込む。
「はじめて見る料理ですね。これは一体、なんというのですか?」
「料理という程では……おにぎりと言って、米を握ったものです。それを海苔で包んでます」
「姫様。外ツ国の者に姫様の手製の料理を渡さずとも……っ!」
ツキシマが慌てて身を乗り出し、サクラを制そうとする。だがその声が届くより早く、私は笹包みに手を伸ばしていた。
……ずっと探し続けてきた“米”が、いま、ここにある。気づけば、指先が伸びていた。ただ、ひと口でいい、この味を確かめたかったのだ。
「お言葉に甘えて、ひとつ……いただくわ」
両手で持って、がぶっと大きくひと口かじる。
「……っ」
その瞬間、熱い雫が頬を伝う。
思い出したのは、かつての記憶。遠足の日に、母親が張り切って作ってくれたお弁当。受験勉強の夜中、母が差し入れてくれた温かな夜食の味。
それらは今では、すっかり朧になってしまった前世の記憶だ。母の顔を思い出そうとしても、霞がかかったようにぼやけてしまう。
前世を思い出してから、どれほどの長い時間が流れただろう。ダイエットを成功させ、殿下との婚約を終わらせ、そしてカミルというかけがえのない伴侶を得た。もう前世に未練はないつもりだった。
それでも、なお。――懐かしい。温かい。愛おしいほど、美味しい。
「……美味しいわ……」
私が泣きながらおにぎりを食べる姿に、ツキシマは面食らったように目を見開いた。
確かに、傍から見たらおかしな光景だっただろう。私はあわてて目元を押さえながら、微笑みを返した。
「ああ、ごめんなさい。……つい、嬉しくって」
サクラは困惑しながらも、心から嬉しそうに微笑んだ。
「お口に合って良かったです。ゆっくり召し上がってください」
恥ずかしさに、思わず手のひらで顔を覆いながらも。その言葉に甘えて、私は最後のひと口までおにぎりをゆっくりと味わった。
「……ええ。本当に、美味しいわ。本当に……御馳走様でした」