作品タイトル不明
番外編 マルグリットのダイエット奮闘記Ⅹ
冷たい夜気が欲しくて、ひとりテラスへ抜け出した。
宴の熱と笑い声を背中に感じながら、夜風に目を細める。石造りの手すりは指先が痛いほど冷たく、それがかえって心地よかった。
遅れて聞こえる足音。振り返らなくてもわかる。ジャンだ。
「あいつらは……」
「わたしの元婚約者と元親友たち!」
元、という言葉を口にするのは、これで何度目だろう。苦みより、清々しさの方が今は勝っている。
「元……」
「うん。この間、婚約破棄してやったの」
唇に笑みを浮かべながらも、その言葉には少しだけ苦みが混じった。
「肥ってたわたしを裏では馬鹿にしてたのよ。彼も……彼女たちも」
「それは――そうか……」
ジャンは短く息をついた。眉がわずかに寄る。言葉を選んでいるのが、横顔からも伝わってきた。
「辛い思いをしてたんだな」
「うん。でもね、今はもう違うの」
そっと胸に手を当てる。夜空を見上げると、星が思ったより近かった。
「努力して、美しくなったことも嬉しいけれど……本当に大切なのは、そこじゃないと気づけたの。
わたしはずっと――両親にとって世界一のお姫様だった。それを思い出したの。だから、自分を大事にしてあげようって、ようやく気づけたのよ」
ジャンは何も言わず、ただ穏やかに頷いた。
その仕草が不思議とあたたかく、胸の奥に柔らかな灯がともる。
「だから、婚約は破棄したわ。――わたしを馬鹿にしてた人たちとは、今日でお別れ」
「……そうか」
彼の声は低く、でも柔らかさを帯びていた。
「うん。だから、わたし、もう大丈夫」
わたしは明るく笑ってみせた。
夜のテラスに流れる風が、過ぎた日の痛みを連れ去ってくれるようだった。
「……マルグリット、その、先日はすまなかったな」
「!? な、なにを急に……」
思わず肩が跳ねる。
え、今、謝った……? 心臓がほんの少し早鐘を打つ。突然の謝罪に、どう返せばいいのか言葉が詰まった。
「……謝らないでよ。……失礼なことを言ったのはわたしの方だもん」
「いや、オレはまた、間違いを犯すところだった」
「……?」
眉を寄せて首をかしげると、ジャンは続けた。
「また……目の前の人に向き合わず、思い込みでその人の努力を決めつけてしまうところだった。マルグリットの言葉は効いたよ」
彼の声は、どこか自分を戒めるように真剣だった。
「他人と比べたりしたらいけない。見た目で人を判断してはいけない。……以前、嫌というほど、思い知ったつもりだったのにな」
夜の風に揺れるテラスの木々を見つめながら、深く息をつく。
「エリザベート夫人に言われたんだ。自分にできることだからって、他人も同じようにできるとは限らない――って。
その人にはその人の事情があって、その人なりのペースや苦労がある。
どれほど努力しているかも、どれだけ悩んでいるかも、オレには見えない。だから……、勝手に決めつけてはいけなかったんだ」
彼の言葉が、夜風に乗ってそっとわたしの胸に届く。
“比べないで。”
先日の叫びは、わたしの心の底から溢れた本音だった。今、ジャンは真っすぐにこちらを見ている。目の前のわたしと、ちゃんと向き合おうとしてくれている。
「だから、……本当に申し訳なかった」
わたしは深く息をつき、彼を見つめ返す。
「ううん。わたしこそ、ずけずけと無遠慮に踏み込んでしまってごめんなさい」
しばらくのあいだ、二人の間に静かな沈黙が流れる。夜会の音楽が遠くからかすかに聞こえていた。
やがて、わたしは少し笑って言った。
「それじゃあ……今回はお互い様、ということにしない?」
「……ああ、そうしよう」
「ねえ、ジャン。わたし、エリザベート様のようにはなれなくても、わたしのペースで頑張るわ。他の……誰でもない、わたし自身のために!」
ジャンは頷いた。その口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
「それでいい。オレは、全力でお前をサポートしよう」
心がすうっと軽くなる。今までの涙も後悔も、すべてこの瞬間のためにあったのだと、ようやく思えた。
「うん、ありがとう! よろしくね!」
***
ラウルとの婚約を破棄する決心がついたのは――、
両親が「可愛いね」と微笑んでくれた、あの幸福な時間を思い出したからだった。
そんな幼い日のことを、ジャンと揉めた翌日、エリザベート様との会話の最中にふと思い出したわたしは、胸に秘めた勇気を振り絞り、両親に打ち明けた。
婚約者が、陰でわたしのことを嘲っていたのだと。
「……あんな人と結婚なんて、したくないの。ごめんなさい。婚約が簡単に破棄できるものじゃないのは分かってるけど……」
言葉を絞り出すようにして告げたわたしに、両親はしばらく黙っていた。
貴族にとって婚約とは、単なる恋愛の延長ではない。家と家とを結ぶ契約であり、盟約だ。
婚約破棄はそう簡単なものではなく、決して軽い気持ちで口にするものではないと分かっていたけれど――
わたしは唇をきつく噛みしめる。
静寂を破ったのは、母のやさしい声だった。
「……あのね、可愛い、可愛いマルゴ」
両手がそっとわたしの頬を包み込む。
幼いころから何度も聞いたその愛称に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「誰が何を言おうと、あなたは私達にとって世界で一番かわいい子なのよ」
「そうだ、世界で一番の宝物だ」
父の低く穏やかな声が、心の奥に深く沁みていく。
その言葉は重く、温かく、まるで長い旅路の果てに差し伸べられた手のようだった。
「マルゴ、あなたは素直で、誰よりも優しい子。そんなあなたを傷つける人たちを、私達が許すわけないわ」
胸がきゅっと締めつけられ、視界が滲んだ。
父がゆっくりと口を開く。
「貴族には確かに責務がある。だがな、マルゴ……たとえ“貴族失格”と呼ばれようとも、そんなものはどうでもいい。お前が幸せでいること――それが、私達にとっての一番の幸せなんだよ」
嗚咽が漏れ、わたしはもう堪えきれなかった。気づけば家族の腕の中に飛び込んでいた。母の手が背を撫で、父の掌が髪を撫でる。
その温もりが、砕けかけていた心をひとつひとつ丁寧に繋ぎ合わせていく。
――ああ、そうか。
わたしは、まだ「お姫様」だったんだ。
愛されている、かけがえのないお姫様。
わたしは両親に抱きしめられ、子どもに戻ったかのように、うわあんと泣き声をあげた。
***
夜会のあと、数週間後――相変わらず、わたしはサロンでダイエットに励んでいた。
サロンの中庭には、柔らかな春の光が降り注いでいる。
いつかの涙も、痛みも、今では遠い記憶のようだった。
汗に濡れた髪を結い上げながら、わたしは鏡の前に立つ。
映っているのは、世界一可愛いお姫様だった。
努力で身体を、そして自信を取り戻した――“わたし自身”だ。
「……よく頑張ったじゃないか」
背後から静かな声がした。
振り返れば、ジャンがいつもの無愛想な顔で立っていた。
けれどその目には、かすかな微笑みが宿っている。
「ありがとう、ジャン。あなたがいたから、ここまで頑張れたわ」
「……オレは何もしていない。お前が自分で掴んだんだ」
彼は短くそう言って、視線を逸らす。
その横顔に照れ隠しの気配が見えた気がして、思わずくすりと笑ってしまった。
風が吹き抜け、サロンの白いカーテンがやわらかく揺れる。
わたしは両手で胸に触れた。
脈打つ鼓動が、これまでのすべてを肯定してくれるようだった。
――もう、わたしは決めたのだ。
世界にどう見られようと、わたしは可愛いって。両親からもらったたくさんの愛を胸に、わたしはこれからの毎日を、自分自身のために生きていく。