軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

番外編 マルグリットのダイエット奮闘記Ⅸ

サロンでの毎日は、相変わらず戦場のようだった。

朝は柔らかな陽光がガラスの天窓から降り注ぎ、磨かれた床の上で私たちの影が幾重にも重なる。

ストレッチにウォーキング、筋トレ。もう慣れたと思っていたけれど、息を吐くたびに肺がひりつくほどに痛い。

「マルグリット、あと五回だ。呼吸は止めるなよ」

低く響くジャンの声が耳に届く。

そのたびに、身体が反射的に動くのが悔しい。言われた通り腕を上げ、脚を踏み出すけれど、どうしてもジャンと視線は合わせられなかった。

言い過ぎたあの日から、私たちの間に流れる空気はどこかぎこちない。

それでも、数字だけは裏切らなかった。

体重計の針が少しずつ軽くなり、鏡に映る自分の輪郭が細くなっていく。

ダイエットは順調。

……けれど、私には今、別の悩みがあった。

その日の午後、サロンは紅茶の香りに満たされていた。

トレーニングを終えた令嬢たちは、テーブルを囲んで優雅に談笑していた。笑い声とティーカップの触れ合う音が、午後の静けさに溶けていく。

わたしは汗を拭いながら、その光景をどこか上の空で眺めていた。胸の奥に、拭っても消えないもやのようなものが、静かに渦を巻いている。

そんな時、背後から穏やかな声が降ってきた。

「マルグリット、また難しい顔をしているわね。何か悩み事でも?」

その声音には、まるで全てを見透かすような優しさがあった。

思わず顔をしかめる。……図星だ。

「じ、実は……」

「まあ、そうなの? 力になれるかはわからないけれど、話なら聞くわよ?」

相談すべきか、一瞬ためらったものの、気づけば口が動いていた。

「……夜会の招待状が届いているのですが…、参加を迷っていて」

「あら、折角なのだから行ってみたらいいじゃない。努力を続けてきた、その成果を披露する良い機会よ」

「けど……エスコートしてくださる方がいなくて。父に頼むのも、なんだか違う気がして」

「まぁ、そうなの」

少しだけ首を傾げるエリザベート様。その金糸の髪が光を受け、柔らかく揺れた。

沈黙の後、彼女はふと何かを思いついたように、白い手を軽く打つ。

「そうだわ――ジャンはどうかしら?」

その名が出た瞬間、周囲の空気がかすかに動いた。

トレーニング器具を片づけていたジャンが、わずかに肩を強張らせる。

「エリザベート様!??」

「ジャン。良かったら、マルグリットをエスコートしてあげてくれない?あなたも、この子の努力を一番近くで見てきたでしょう?」

突然の提案に、ジャンは目を瞬かせた。

いつもの落ち着いた瞳が、少しだけ動揺を宿している。

そして、その視線が一瞬だけ、こちらへと向いた。

「エリザベート夫人、オレは――」

「だって、あなたが彼女の変化を誰よりも知っているはずよ。マルグリットも、あなたなら安心できるでしょう? ねえ、お願いできないかしら?」

エリザベート様はにこやかに微笑む。けれどその笑顔には、逆らえないほどの静かな力が宿っていた。

一瞬の沈黙のあと、ジャンは深く息を吐き、目を伏せる。

そして、ゆっくりと頷いた。

「……エリザベート夫人の頼みでしたら」

その言葉に、心臓がどくんと鳴った。

ジャンが小さく頷いたとき、胸の奥がくすぐったくなるような誇らしさを覚える一方で、なぜか素直に喜べなかった。

エリザベート様は満足げに微笑んだ。

「マルグリット、あなたはどう?」

「えっ、あ……はい。ジャンが良いのなら……」

震える声で答えると、ジャンがわずかに口元を引き結ぶ。

「決まりね。きっと、素敵な夜になるわ!」

***

そして、夜会当日。

屋敷の扉を開けると、そこにはジャンが待っていた。

黒の燕尾服に身を包んだ彼は、いつもよりずっと大人びて見える。

訓練のときの無骨な雰囲気とは違い、きっちりと整えられた髪が月明かりに照らされて光っていた。

「……似合ってる」

ぽつりと漏れたその一言に、心臓が跳ねる。

思わず目を伏せ、スカートの裾を指でつまんだ。

「そ、そう? ありがとう。……ジャンも、その、素敵よ」

「おう。……エリザベート夫人に言われた通り、今日はちゃんとエスコートするつもりだからな」

不器用に頭を掻きながら差し出された手。

その手を取ると、掌に伝わる体温が妙に熱く感じられて、鼓動が速くなる。

馬車の窓越しに見える王都の夜は、まるで宝石箱のようだった。

街灯が幾重にも連なり、行き交う馬車の音が華やかなざわめきに溶けていく。

私は小さく深呼吸をして、心を落ち着けようとした。

大丈夫。わたしはもう、あの頃のマルグリットじゃないわ。

会場の扉が開かれると、無数の視線が一斉にこちらに注がれた。

煌めくシャンデリアの下、音楽と笑い声が渦巻く大広間。

その中央に、ジャンとわたし――。

あの日、サロンに初めて足を踏み入れた自分とは、もう違う。

ほっそりとした輪郭に、肌は血色を取り戻し、背筋も自然と伸びている。

淡い桜色のドレスは、光を受けてやわらかく輝き、レースの裾が歩くたびにふんわりと揺れた。

あの頃の太っていたわたしを知る人たちが、驚いた顔でこちらを見ている。

その反応が、怖いようで、少しだけ誇らしかった。

そんなとき――視線の先に、見覚えのある顔があった。

かつて婚約していた彼。

そして、彼の隣には、私を笑い者にしていた元親友たちの姿があった。

喉の奥がひやりとした。

だが、もう怯えはしない。

ジャンの隣で、私は背筋をすっと伸ばした。

「……マルグリット?」

元婚約者の声が震えている。

信じられない、とでも言いたげな表情だった。

彼の視線が、細くなった私の体を舐めるように追う。

「久しぶりね、ラウル様」

にっこりと笑ってみせると、彼は一瞬、言葉を失ったようだった。

周囲の貴族たちが、私と彼を交互に見やる。

ざわめきが波紋のように広がる中、ラウルは焦ったように口を開いた。

「……マルグリット、本当に君なのか? こんなに……変わるなんて……」

その声には驚きと後悔――そして、手遅れになった男の浅い未練が滲んでいた。

「何故、婚約を破棄したんだい?」

その問いに、私は静かに瞬きをひとつ落とす。

――まるで、その言葉自体が滑稽に思えるほどに。

「……わたしが何も知らないと思ってるの?」

静かに問い返す。

彼の顔に、わずかな狼狽が浮かんだ。

「あんなデブが婚約者だなんて嫌だって、言ってたでしょう。破棄されて、ちょうど良かったんじゃない?」

「な、なんで、それを……!? いや、あれはほんの冗談で……それに今の君は……その、驚くほど綺麗だ。まるで別人みたいで――」

「わたしを馬鹿にするような人とは、結婚できないわ」

彼の喉がつ、と詰まる音がした。

そんな彼の背後から、くすくすと笑う声が聞こえた。元親友たちが、わざとらしく扇子を口元に当てている。

「まぁまぁ、マルグリット。レオン様も貴方の事を心配してたのよ。それにしても――あなたがここまで痩せられるなんて、びっくりしちゃったわ」

「ええ、本当に。以前のままでも可愛かったのに」

その声音には、上辺だけの優しさと嘲笑が混じっていた。

わたしは微笑を崩さず、静かに首を振る。

「……心にもないことを言うのね。陰ではわたしの事を馬鹿にしてたくせに。もう、貴方達との友情もおしまいよ」

そう冷たく告げた瞬間、女たちは目を瞬かせ、口をぱくぱくと開閉した。

「な、なによ。私達を悪者みたいに言って」

「そうよ、せっかく仲良くしてあげてたのに。マルグリットのくせに!」

その言葉に、かつての私なら胸を痛めていたかもしれない。けれど今は、彼女たちを相手にする気もなく、私はそっと背を向ける。

背後からはまだ何か言っている声が聞こえたけれど、もうどうでもよかった。