軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

SIDEカミルⅢ

きっかけは、妹の一言だった。

「エリザベート様のことで、少し相談があるの」

その声音に、どこか沈んだ響きがあった。

「実は、ずいぶん前から……ルチア様がエリザベート様に陰湿な嫌がらせを受けているという噂が広がっていて……」

確かに、過去にエリザベートは、婚約者のアルフォンス殿下に近づくルチア様に厳しい言葉を向けていた。

「婚約者に馴れ馴れしくしないでくださる?」

「その服装、まるで主役気取りですわね」

辛辣な言葉ではあったが、それは社交界における忠告の一種であり、陰湿な嫌がらせとは程遠い。けれど今、彼女はまるで“悪役令嬢”のように語られている。

誰かが彼女を貶め、ルチアを“被害者”に仕立て上げようとしているのだ。ルチアを「清らかな王妃候補」に仕立てるために。

ルチアはいつも控えめに微笑んでいる。そして、曖昧な言葉で周囲の誤解を誘う。

「わたくしが未熟でしたから……」

「ほんの少し、お洋服のことを言っただけなのですけれど……」

嘘ではない。けれど真実も語っていない。そうして周囲は、「可哀そうなルチア様」と「意地悪なエリザベート様」という構図を自然と信じてしまう。

噂は日に日にエスカレートしていた。

「夜会でドレスを汚された」

「背中を押された」

「陰口を広められた」

だが、それらに確たる証拠は何一つとして存在しない。

妹も、一時はその噂を信じかけていたという。

「でも、今ははっきり言えるわ。あの優しいエリザベート様が、そんな暴力まがいの真似をするわけがない」

そして、僕には確信がある。エリザベート様には、そんな暇などないのだ。

今、彼女は僕と共に、新たな事業の準備に奔走している。社交の場に顔を出す余裕すらない。ルチア様や殿下と会ったのも、もう何カ月も前の話だ。

だから僕と妹は動いた。それぞれの立場で。

「夜会にいなかった人が、どうやって嫌がらせを?」

当然の疑問を少しずつ広げていく。

そもそも、殿下が婚約者ではない令嬢を連れて城下を歩いていたことには、なぜ誰も疑問を抱かないのだろう。

「私は、エリザベート様に救われたの。あの方は、強くて優しい人。意地悪なんかじゃない」

妹は、そう言って令嬢たちに訴えていた。たとえ信じてもらえなくても、彼女の真実を少しでも知ってもらいたいと願って。

僕たちセルジュ家は、代々王家に仕える医家として、そして多くの貴族たちからも信頼を預かってきた。その重みが、僕たちの言葉に少しでも力を与えるなら――

彼女を貶める噂の波を、少しでも止められれば。それだけでも、動いた価値はあると信じている。

***

その日、王宮から届いた封書は、一目でそれとわかるほどに華やかだった。

漆黒の上質な封筒に、金糸で封を施された王家の紋章。まるで手に取る者の覚悟を試すような重みが、その一通にはあった。

中身を取り出し、目を通す。

何度か読み返すうちに、自然と眉間に皺が寄っていた。

「……王宮の夜会、か。どうやら盛大に催すらしいな」

表向きには“貴族間の親睦を深める社交の場”とある。だが、その真意は明らかだ。

これは――ルチアを、未来の王妃として世間に認めさせるための“お披露目”だ。

殿下自らが主催し、王家の名の下にその存在を確たるものにするための舞台。

――だからこそ、エリザベートの名も招待客のひとりとして記されるだろう。

「悪役」がいなければ、この茶番は完成しない。彼女が出席することで、舞台は整う。

僕は小さく息を吐いた。笑ったつもりが、それは苦さを含んだ溜め息になった。

「それでも……行かないわけにはいかない。なら、せめて――」

視線がふと書斎の机上に移る。そこには一通の手紙。エリザベートからのもので、何度も読み返した痕がある。

力強く、整った筆跡で綴られた文面には、事業の進捗報告と、次回の打ち合わせの日時、そして変わらぬ感謝の言葉が添えられていた。

――彼女を、あの場にひとりで立たせるわけにはいかない。

僕は立ち上がり、書斎の奥にしまってあった戸棚を開けた。

そこには、数年前の式典で一度だけ袖を通した礼装があった。深い藍に銀糸の刺繍が施された燕尾服。手に取った瞬間、布地の冷たさが指先に広がる。

「……また、窮屈な夜になるな」

それでも、僕の手は止まらなかった。

彼女の隣に立ちたい。ただその願いだけが、何よりも確かな願いとなって僕を動かしている。

口元に浮かんだのは、自嘲とも苦笑ともつかぬ微笑。

――らしくもないな、と自分をたしなめながら、それでも背を向けることはできなかった。

翌日。

エリザベートが新しい書類を携えてセルジュ家を訪れたのは、昼下がり。やわらかな陽光が庭の花々を照らし、春の香りを運んでいた。

玄関先に姿を見せたエリザベートは、今日もまた、どこか凛とした気配をまとっていた。

変わらず、芯のある眼差し。以前の彼女と違うのは、その瞳に濁りがないこと――どこか吹っ切れたような、迷いのない強さがある。

そんな彼女を前にして、僕はふと、自分の鼓動が早くなるのを感じていた。

「エリザベート嬢。個人的なことで、お話があります」

「……個人的な、ですか?」

小首を傾げる仕草が可愛らしくて、思わず目を逸らしそうになった。僕は何をこんなに緊張しているのだろう。

彼女が差し出した書類を受け取りつつ、僕はできるだけ自然な声を装って言葉を続ける。

「実は……王宮の夜会に、僕のもとにも招待状が届きましてね。あなたにも、来ているのではないですかか」

彼女が頷くのを見て、やっと一つ、息ができた気がした。

なのに……この先の言葉は、どうしてこんなにも喉につかえるのだろう。薬の調合も、貴族の懐柔も、王宮との交渉でさえ、これほど難しくはなかった。

ほんのわずかに視線を落とした。慎重に、しっかりと言葉を選びながら続ける。

「もし……よろしければ」

彼女から目を逸らしてはいけない気がして、思いきって顔を上げた。まっすぐ、彼女の瞳を見つめる。

「当日、僕と――踊っていただけませんか」

それは、決して軽い誘いではなかった。

王立薬学院を出てからは、貴族の屋敷を巡り、病を診て、調薬し、母校で教鞭も握り、休む間もなく働いてきた。感情に振り回されるような時間などなかった。いや、作らないようにしてきた。

そんな男が、ただ一人の女性に向けて差し出す、ささやかで誠実な申し出だった。

返事を待つ時間は、春の風に押されて、静かに、長く、流れていく。

だがその沈黙すら、僕にとっては後悔ではなかった。

たとえ彼女から了承を得られずとも、

彼女を独り舞台に送り出さないと決めた、その想いは、揺らぐことがなかったから――。