軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第23話 変わり始めた小領地

朝の風が、ハル領の丘をゆっくりと渡っていく。

東の石切り場では、もう誰も怒鳴っていなかった。

危険な本坑道には縄が張られ、崩落した場所の周りには新しい支柱が運び込まれている。青輝石の木箱は布で丁寧に包まれ、荷札と一緒に兵の監視下に置かれていた。

前のように、借金で縛られた若者が青い顔で地下へ押し込まれる光景はない。

代わりにあるのは、決められた時間に始まり、決められた時間に止まる作業だった。

「その箱はそっちじゃない、乾いた台の上だ」

エドが声を飛ばす。

「布、巻けよ。素手で触るなって言っただろ」

前なら反発しかなかっただろうその声に、今は「わかってる」と返事が返る。

まだぎこちない。

でも、回り始めていた。

北村では、水路の脇に新しい緑が広がっていた。

青葉草だ。

まだ一面ではない。

試験区画として作った一角に、若い葉が揃って立っているだけだ。

だが、その一角だけでも、村の景色は確かに変わって見えた。

朝の水やりをしていたテオが、腰を伸ばして笑う。

「前はこの時間、親父みたいな顔した爺さんばっかり畑にいたのにな」

「誰が親父みたいな顔だ」

すぐ隣で老人が返し、周りから小さな笑いが起きた。

そのやり取りを見ながら、北村の村長は水路の流れを見下ろす。

応急修繕だった西水路は、今では木と石を使って少しずつ補強されていた。まだ完璧じゃない。だが「いつ崩れるかわからない水路」ではなくなっている。

「坊ちゃんの言う通りでしたな……」

誰に言うでもなく、村長が呟く。

「若いのが戻って、水が回って、草に値がつく。あの時は、まさかと思いましたが」

その視線の先で、女たちが摘んだ青葉草を日陰で束ねていた。

乾かしたものは王都へ送る試作品になる。料理屋へ売り込めれば、小麦よりずっと高くなる。

北村は、少しずつ「食っていける村」に変わり始めていた。

南村では、倉の匂いが変わっていた。

前に来た時の、鼻にこびりつくような腐敗臭はほとんどしない。

袋は壁から離して積まれ、床には木板が噛ませてある。乾燥棚には麦束が風を受けて並び、選別された豆袋には印が付けられていた。

「これが今日売る分、こっちが干してから回す分、こっちは保存用!」

村の女たちが手際よく声を掛け合う。

若い男たちは荷車道の轍に土を入れ、溝を切り、ぬかるみを避ける流れを作っていた。前よりも荷車が揺れず、積荷の傷みが減っているのは、村の誰の目にも明らかだった。

南村の村長は、倉の戸口に立って帳面を見つめる。

「先月は、豆が三袋、芋が四箱、倉の中で駄目になった」

ぽつりと言ってから、次の頁をめくる。

「今月は、まだゼロだ」

その一言に、近くにいた若い衆が思わず顔を見合わせた。

南村は大きく変わったわけじゃない。

だが、同じだけ働いて、前より減らない。前より安く叩かれない。

それだけで、人の顔色はずいぶん違ってくる。

その日の夕方。

ハル家の屋敷の執務室では、机の上に三つの帳面が開かれていた。

石切り場。

北村。

南村。

ミアが、いつになく真剣な顔で数字を読み上げる。

「石切り場は、事故ゼロが継続です。地下坑道は封鎖中ですが、地上作業と仕分けだけでも前より損耗が減っています」

「うん」

俺は頷いた。

「北村は?」

「青葉草の試験区画、定着見込み良好。戻った若者三名が中心になって水路沿いの区画を管理しています。通常畑の収量はまだこれからですが、労働負担は確実に下がっています」

「南村」

「損耗見込み、大幅減少です。倉の腐敗率は前回報告より大きく低下、商人の買い取り価格も少し持ち直しています」

父ガルドが、その報告を黙って聞いていた。

病で痩せた顔はまだ本調子ではない。

それでも、以前より目に力が戻っている。

「……帳面を貸せ」

短く言い、ミアから南村の帳面を受け取る。

しばらく数字を追い、それから今度は石切り場、北村へと目を移す。

やがて父は、小さく息を吐いた。

「本当に、数字が動き始めているな」

俺は机の端に肘を置いた。

「まだ小さいけどね」

「小さいからこそ価値がある」

父は帳面を閉じた。

「無理に税を上げたわけではない。村を追い込んだわけでもない。作ったものが減らず、流れたものが戻り、若い人手が動き始めた。これが一番強い」

母エマが、その横で静かに微笑む。

「ようやく、息をし始めた感じね」

「うん」

俺もそう思った。

まだ豊かな領地とは言えない。

でも、死にかけた小領地ではなくなってきている。

父は新しい羊皮紙を引き寄せた。

「王都へ追加報告を出す」

「青輝石の正式申請だけじゃなくて?」

「それだけでは足りん」

父はペンを取り、ゆっくりと言った。

「石切り場の現場改善。北村の試験作物。南村の損耗減。徴税見込みの回復。この短期間で起きた変化は、数字として出す価値がある」

ミアが目を丸くする。

「王都は、そこまで見るんですか?」

「見る」

父の声は低かった。

「特に、沈んでいた領地が急に浮き上がる時はな」

王都。

夕方前の執務棟では、各領地から届いた報告書が山のように机へ積まれていた。

税収見込み。

収穫報告。

損耗率。

労働人口の推移。

新規申請。

違法採掘の疑い。

徴税官と監察官が、それらを日々選別し、王都の帳面へ落としていく。

「次です」

若い記録官が、一枚の報告書を上席へ回した。

中年の監察補佐は何気なく受け取り、ざっと目を走らせる。

だが、二行目で手が止まった。

「……ハル領?」

その名は、これまであまり良い意味で上がることのない小領地だった。

国内でも下位常連。

しかも直近では落ち込みが続き、徴税見込みも最低ランク帯に沈んでいたはずだ。

だが、今回の報告では違った。

「どうされました」

若い記録官が問う。

「前期比……かなり伸びている」

補佐官は頁をめくる。

「しかも増税ではない。石切り場の正常化、違法採掘の差し止め、損耗減、村ごとの生産改善……」

「そんな短期間でですか?」

「だから妙なんだ」

帳面の端に並ぶ各領地の徴税順位表へ目を移す。

ハル領はこれまで下位の底を這っていた。

それが、今回の見込みでは一気に中位圏に食い込んでいる。

絶対額ではまだ大領には及ばない。

だが伸び率と改善幅が異様だった。

「……面白い数字ですな」

そう言った声に、記録官が顔を上げる。

部屋の奥、窓辺に立っていた人物が、いつの間にか机のそばまで来ていた。

深い色の外套。

静かな目。

数か月前、バスクの調書を読んで「十二歳の子どもにしては珍しい」と言ったあの人物だった。

補佐官が軽く頭を下げる。

「例のハル領です。以前の事件報告に出ていた、リオン・ハルの領地」

「……そうか」

外套の人物は、差し出された報告書を受け取った。

視線が、紙の上を静かに滑っていく。

東の石切り場における青輝石の正式申請。

北村での試験作物導入。

南村での損耗率改善。

若年労働力の流出停止。

徴税見込み順位の上昇。

読み終えたあと、その人物は少しだけ目を細めた。

「事件を暴いただけではないな」

低い声だった。

「領地の数字まで動かしているのか」

若い記録官が、恐る恐る言う。

「ただの偶然、ではないと?」

「偶然で、最低ランク帯の小領地が、短期間でここまで綺麗に立ち上がるものか」

報告書の一番上に記された名前へ視線が落ちる。

リオン・ハル 十二歳

しばらく無言で見つめたあと、その人物はほんの少しだけ口元を緩めた。

「……ますます面白い」

窓の外では、王都の夕鐘が鳴り始めていた。

その音の中で、ハル領の報告書だけが、机の上に残されたまま薄く光を受けている。

変わり始めた小領地。

その変化は、もう王都にも届いていた。