軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第158話 湯の裏側

街灯の一斉点灯から数日。

その日、俺が向かったのは街灯でも工房でもなかった。

公衆浴場だ。

前に一度、裏へ流れる排水を見て引っかかっていた。

街灯と石切り場の件が一段落した今、次に見るならそこだと思った。

浴場へ着いたのは、夕方前。

日はまだ残っているが、冬のこの時期だからなのか客がよく入っている。

番台の前では桶を抱えた男たちが順番を待ち、湯上がり客相手に冷たい飲み物を売る声まで聞こえた。

入口の脇には、早めに仕事を切り上げたらしい職人が仲間と笑いながら腰を下ろしている。

「若様!」

番台の男が俺に気づいて、慌てて背筋を伸ばした。

「おお、賑わってるね」

「ええ、おかげさまで! 寒い時期ですし、仕事上がりに湯へ浸かりたいって人は多いですから」

「それは見れば分かる」

脱衣場からは人の動く気配。奥からは湯の音と、肩まで浸かって気の抜けた声が聞こえる。

成功している。

それは素直に良かった。

西の森の露天風呂をきっかけにして、領都にも風呂文化が広がり始めている。それ自体は間違いなく前進だ。

ただ――。

「少し裏を見てくる」

「裏、ですか?」

「ああ。気にしなくていい」

番台の男はきょとんとした顔をしたが、俺はそのまま建物の横を抜けて裏へ回った。

表とは空気が違った。

人の笑い声は遠くなり、代わりに湯の流れる音が近くなる。石積みの脇を、使い終わった湯が細く絶えず流れていた。今は冬だ。空気が冷えているせいで臭いは強く立たないし、ぬめりも見えにくい。湯気がかかって、一見するとただ白く煙っているだけにも見える。

だが、綻びの目の表示をみると、景色は別の意味を持ち始めた。

《排水混入:進行》

《下流衛生:低下予兆》

《用排水分離:不十分》

「やっぱりか……」

今はまだ目立たない。

でも、これは冬だからだ。

気温が上がれば、水はもっと悪くなる。

人の数が増えれば、使われる湯の量も増える。

今は「なんとなく流れている」だけのものが、春以降には問題になる。

俺は流れを目で追いながら、一人で考えた。

この世界では、きれいな水を引く工夫は昔からそれなりにある。

井戸もあるし、水路の位置だって大事にされている。

けれど、使い終わった水をきれいな水と完全に切り離して処理する、そんな仕組みまではまだ育っていない。

前世の感覚でいえば、せいぜい江戸時代の初めあたりに近いのかな。

飲む水、使う水は大事にする。

だが、使い終わった水は溝や水路へ流してしまう。

それ自体は、この時代なら珍しくもない。

だから、この浴場の排水が用水路側へ落ちていることも、誰が悪いとかいうのではなく、皆が「そういうものだ」と思っているだけだ。

でも、領都はもう昔のままじゃない。

人が増え、便利になったぶんだけ、水の使い方も変わった。

「若様?」

裏口から浴場の管理役らしい男が顔を出した。ノルも少し遅れてこちらへ来る。

「何かありましたか」

「うん」

俺は流れる湯を指した。

「今は、風呂で使った湯をそのまま用水路へ流してる。そこがまずい」

管理役の男は一度流れを見て、それから首をひねった。

「まずい、ですか?」

「今は冬だから分かりにくいだけだ。気温が上がれば、このままじゃ下流に影響が出る」

「では、どうするんです?」

ノルが聞く。

俺は少しだけ間を置いて、頭の中の形をそのまま言葉にした。

「まず、浴場の裏でいったん集める」

「集める?」

「ああ。今みたいにそのまま用水路へ落とさない。いったん裏で受ける。その水を、用水路じゃなく排水用の水路を作って街の外へ送る」

「街の外まで?」

管理役が目を見開く。

「そうだ」

「で、外へ送ってどうするんですか?」

「その先で排水の汚れを落とすんだ」

俺は地面に棒で簡単な線を引いた。

「ここが浴場だ。ここで使った湯は、まず裏で受ける。そこから排水用の水路を通して街の外れまで送る」

線を延ばす。

「汚れを落とすのは、その先だ。街外れで一度溜めて、重い汚れを沈める。そのあとでさらに先へ流す」

「つまり……」

ノルが言う。

「用水と排水を分けるんですね」

「そういうこと」

俺は頷いた。

「今の領都は、使う水と使い終わった水が近すぎる。

まずはそこを離す。街の中で全部きれいにするんじゃない。

街の中では混ぜない。汚れを落とすのは外でやる」

管理役の男は、俺の描いた線をじっと見ていた。

「なるほど……。浴場の裏で受けて、そのまま用水路へ戻さない、と」

「そう。今はそこが第一歩だ」

もっとも、言うのは簡単だ。

俺は線を見下ろしながら、すぐに頭を切り替えた。

この浴場は領都の真ん中にある。

適当に溝を掘ればいいわけじゃない。

井戸に近づければ危ない。

人や荷車の通る道を塞いでもまずい。

将来、このあたりに建物が増えた時のことも考えないといけない。

しかも、俺がこの領地にいられるのは、あと3週間ほどだ。

全部の工事に張りつくことはできない。

なら、今いるうちに決めるべきことを絞るしかない。

「若様?」

ノルが俺の顔を見る。

「考えがまとまった」

「聞きましょう」

「この3週間で俺がやることは3つだ」

俺は指を折った。

「ひとつ。浴場裏から用水路へ直接落ちるのを止めること」

「応急措置ですな」

「そう。ふたつ。排水を街外れへ逃がす道筋を決めること」

「本設のルート決め」

「みっつ。外れで受ける場所を決めること。沈める場所を間違えると、別の場所を汚す」

管理役の男が息を呑む。

「では、すぐ全部掘るわけでは……」

「工事全部を俺が見なくてもいい。けど、この3つの判断だけは今のうちに俺がやる。

そこを外したら、あとで現場が困る」

ノルは短く頷いた。

「順番としても妥当です」

「まず悪化を止める。次に流れを決める。そのあとで本格工事だ」

「父上にはどう伝えます」

「今日のうちに話す。測る場所も、人を出す場所も早めに決めたい」

裏から表へ戻ると、浴場はさっきよりさらに賑わっていた。

暖簾をくぐる客。

湯上がりに頬を赤くした男たち。

桶を抱えたまま順番を待つ者。

この場所はもう、ちゃんと領都の便利な施設になっている。

だからこそ、裏側の流れを放っておくわけにはいかない。

表の成功に見合うだけの仕組みを、裏にも通さなきゃいけないんだ。