軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第136話 森の奥

低級魔物が増えているんじゃない。

こいつらは、森の奥から逃げてきている。

綻びの目が示した文字を、俺はもう一度頭の中でなぞった。

《恐怖:強》

《群れの統率:崩壊》

《逃走方向:森の外縁部》

《脅威の発生源:森の奥》

間違いない。

ただ依頼が増えているだけなら、こんな流れにはならない。

低級魔物がここまで怯えて、縄張りも何も捨てて外へ流れる理由は一つしかない。

奥に、こいつらを押し出す何かがいる。

俺は剣を握り直し、深く息を吸った。

ここで引くのが正しいのかもしれない。

Eランクの討伐依頼だ。本来なら、異変を確認した時点でギルドへ戻り、上のランクへ投げるのが筋だろう。

だが、もう一つ現実がある。

このまま低級魔物が外へ流れ続ければ、街道へ出る。

採集者や荷運びの馬車が巻き込まれる可能性もある。

「……規模だけでも見ておくか」

倒すためじゃない。

まずは確認だ。

俺は足音を殺しながら、森の奥へ進み始めた。

さっきまでの森とは、空気が違った。

低級魔物が多かった外縁部では、まだ鳥の声も風の音もあった。

だが、少し奥へ入ると、それが急に薄くなる。

静かすぎる。

足元には、いくつもの足跡が重なっていた。

牙兎、小型の獣型、ゴブリン系のものもある。どれも向きは同じだ。奥から外へ、外へと逃げている。

さらに進むと、今度は低級魔物の死骸が見つかった。

喰われた跡はない。

腹を裂かれたというより、強い力で叩き伏せられたような潰れ方だった。

「……食うためじゃないのか」

じゃあ何のために?

そこで、視界の端に大きく抉れた木の幹が入る。

爪痕。しかも一本や二本じゃない。生木の表皮が深く裂かれ、木屑が地面へ散っていた。

嫌な汗が首筋を伝う。

この時点で、もう十分だった。

少なくとも、俺が休日の鍛錬ついでに相手をしていい相手じゃない。

引き返す。

そう判断しかけた、その時だった。

前方から、枝を踏み折る激しい音が近づいてくる。

反射的に剣を構える。

「どけっ! どいてくれ!」

飛び出してきたのは人間だった。

二人組の冒険者。

一人はまだ若い男で、もう一人は三十前後だろうか。年上の方が肩から血を流し、若い方が必死に支えている。

「奥に行くな!」

若い方が叫ぶ。

「低級じゃねえ! あれはおかしい!」

俺はすぐに二人の前へ回り込み、背後を警戒した。

「何がいた?」

「わからねえ!」

若い冒険者が息を切らしながら言う。

「最初はゴブリンを追ってただけなんだ! でも急に奥の方からでかい影が出てきて……!」

「足が速い、しかもやたら力が強い」

負傷した方が苦い顔で言った。

「低級魔物をまとめて蹴散らしてた。俺たちじゃ止められん」

「他にも誰か奥にいるのか?」

「……三人組が一つ、見た」

若い方が答える。

「先に入ってた。たぶん、まだ奥だ」

舌打ちしたくなった。

これで引いて報告、では終われない。

まだ森の奥に人がいる。

俺は負傷した冒険者の傷を見る。肩口。深いが、すぐ死ぬ傷ではない。ただ、放っておけば出血で動けなくなる。

「歩けますか?」

「街道までは、たぶん」

「なら、今すぐ戻ってください」

俺は若い方へ視線を向ける。

「あなたはこの人を連れて街道へ。乗合馬車か、見回りがいれば止めて、ギルドへ異常報告を」

「お前は?」

「確認に行きます」

「一人でか!?」

若い方の顔が引きつった。

「無茶だ!」

「倒しに行くんじゃない」

俺ははっきり言った。

「奥に残ってる人がいるなら、場所だけでも掴まないといけない」

そこで、負傷した年上の冒険者が低く言った。

「無理はするなよ……!」

「無理はしません」

俺は短く言った。

「見て、判断して、危なければ即座に引きます」

年上の冒険者は数秒だけ俺を見てから、息を吐いた。

「死ぬなよ」

「そっちも」

二人を見送る。

枝を掻き分けて去っていく音が遠ざかったあと、森の静けさがまた戻ってきた。

いや、静けさじゃない。

これは、張り詰めているんだ。

さらに奥へ進むと、森の様子は明らかに変わっていた。

地面が荒れている。

下草が踏み潰され、折れた枝がいたるところに散っている。低級魔物の気配も薄い。逃げ切ったか、あるいはもう片づけられたかだ。

その時、視界の端で何かが走った。

小型のゴブリン。

だが、こちらに気づいても襲ってこない。怯えた目のまま、ただ脇を駆け抜け、森の外へ向かっていく。

異常だ。

俺は立ち止まり、綻びの目をもう一度開いた。

今度は、さっきより強く視界が軋んだ。

《脅威:中〜高》

《飢餓:強》

《縄張り意識:異常》

《周辺生態:崩壊傾向》

《接敵推奨:低》

最後の一行を見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。

綻びの目が、ここまで明確に「やるな」と言ってくることは多くない。

「……やっぱり、ただ事じゃないな」

声を潜めた、その直後。

森の奥から、重い音がした。

ドン、と。

何か大きなものが地面を踏んだような音。

そのあと、木々の間を縫って、さらに低い唸り声が響く。

身体が反応するより先に、気配が皮膚を撫でた。

でかい。速い。しかも、落ち着いてない。

俺はすぐ近くの太い木の陰へ滑り込む。

次の瞬間、茂みを突き破るように低級魔物が一体飛び出してきた。

ゴブリンだ。棍棒まで捨てて、顔を引きつらせたまま外へ逃げようとしている。

そのゴブリンが、俺の前を横切った――直後だった。

横から、黒い塊が突っ込んできた。

鈍い衝突音。

ゴブリンの身体が、枝葉ごと吹き飛ぶ。

「っ……!」

姿の全体は見えない。

だが、太い前脚と、異様に発達した肩、黒褐色の毛並みだけで十分だった。

熊に近い。

だが、ただの熊じゃない。

木の幹の向こうを横切ったその影は、普通の獣より明らかに大きく、重く、そして速い。

喰うために仕留めたんじゃない。

邪魔だったから潰した、そんな乱暴さだった。

その巨体が、低く鼻を鳴らす。

嫌な予感が確信に変わる。

こいつだ。

森の奥から低級魔物を追い立てていたのは。

俺は息を殺したまま、木の陰で剣を握り締める。

戦うな。

綻びの目はそう言っている。

だがその時、さらに奥の方から、人の叫び声が聞こえた。

「うわああっ!」

「下がれ! 下がれって言ってるだろ!」

まだ誰かいる。

しかも、完全に接敵している。

最悪だ。

ここで引けば、自分は助かるかもしれない。

でも、あの声を置いて戻るのは無理だ。

俺は一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。

綻びの目がまだ淡く視界の端に残っている。

《接敵推奨:低》

「……知るか」

小さく吐き捨てて、俺は木の陰から飛び出した。

助ける。

その後で、生きて帰る方法を考える。

重い足音が、森の奥でまた鳴った。

次の瞬間には、もう走っていた。