作品タイトル不明
第136話 森の奥
低級魔物が増えているんじゃない。
こいつらは、森の奥から逃げてきている。
綻びの目が示した文字を、俺はもう一度頭の中でなぞった。
《恐怖:強》
《群れの統率:崩壊》
《逃走方向:森の外縁部》
《脅威の発生源:森の奥》
間違いない。
ただ依頼が増えているだけなら、こんな流れにはならない。
低級魔物がここまで怯えて、縄張りも何も捨てて外へ流れる理由は一つしかない。
奥に、こいつらを押し出す何かがいる。
俺は剣を握り直し、深く息を吸った。
ここで引くのが正しいのかもしれない。
Eランクの討伐依頼だ。本来なら、異変を確認した時点でギルドへ戻り、上のランクへ投げるのが筋だろう。
だが、もう一つ現実がある。
このまま低級魔物が外へ流れ続ければ、街道へ出る。
採集者や荷運びの馬車が巻き込まれる可能性もある。
「……規模だけでも見ておくか」
倒すためじゃない。
まずは確認だ。
俺は足音を殺しながら、森の奥へ進み始めた。
◇
さっきまでの森とは、空気が違った。
低級魔物が多かった外縁部では、まだ鳥の声も風の音もあった。
だが、少し奥へ入ると、それが急に薄くなる。
静かすぎる。
足元には、いくつもの足跡が重なっていた。
牙兎、小型の獣型、ゴブリン系のものもある。どれも向きは同じだ。奥から外へ、外へと逃げている。
さらに進むと、今度は低級魔物の死骸が見つかった。
喰われた跡はない。
腹を裂かれたというより、強い力で叩き伏せられたような潰れ方だった。
「……食うためじゃないのか」
じゃあ何のために?
そこで、視界の端に大きく抉れた木の幹が入る。
爪痕。しかも一本や二本じゃない。生木の表皮が深く裂かれ、木屑が地面へ散っていた。
嫌な汗が首筋を伝う。
この時点で、もう十分だった。
少なくとも、俺が休日の鍛錬ついでに相手をしていい相手じゃない。
引き返す。
そう判断しかけた、その時だった。
前方から、枝を踏み折る激しい音が近づいてくる。
反射的に剣を構える。
「どけっ! どいてくれ!」
飛び出してきたのは人間だった。
二人組の冒険者。
一人はまだ若い男で、もう一人は三十前後だろうか。年上の方が肩から血を流し、若い方が必死に支えている。
「奥に行くな!」
若い方が叫ぶ。
「低級じゃねえ! あれはおかしい!」
俺はすぐに二人の前へ回り込み、背後を警戒した。
「何がいた?」
「わからねえ!」
若い冒険者が息を切らしながら言う。
「最初はゴブリンを追ってただけなんだ! でも急に奥の方からでかい影が出てきて……!」
「足が速い、しかもやたら力が強い」
負傷した方が苦い顔で言った。
「低級魔物をまとめて蹴散らしてた。俺たちじゃ止められん」
「他にも誰か奥にいるのか?」
「……三人組が一つ、見た」
若い方が答える。
「先に入ってた。たぶん、まだ奥だ」
舌打ちしたくなった。
これで引いて報告、では終われない。
まだ森の奥に人がいる。
俺は負傷した冒険者の傷を見る。肩口。深いが、すぐ死ぬ傷ではない。ただ、放っておけば出血で動けなくなる。
「歩けますか?」
「街道までは、たぶん」
「なら、今すぐ戻ってください」
俺は若い方へ視線を向ける。
「あなたはこの人を連れて街道へ。乗合馬車か、見回りがいれば止めて、ギルドへ異常報告を」
「お前は?」
「確認に行きます」
「一人でか!?」
若い方の顔が引きつった。
「無茶だ!」
「倒しに行くんじゃない」
俺ははっきり言った。
「奥に残ってる人がいるなら、場所だけでも掴まないといけない」
そこで、負傷した年上の冒険者が低く言った。
「無理はするなよ……!」
「無理はしません」
俺は短く言った。
「見て、判断して、危なければ即座に引きます」
年上の冒険者は数秒だけ俺を見てから、息を吐いた。
「死ぬなよ」
「そっちも」
二人を見送る。
枝を掻き分けて去っていく音が遠ざかったあと、森の静けさがまた戻ってきた。
いや、静けさじゃない。
これは、張り詰めているんだ。
◇
さらに奥へ進むと、森の様子は明らかに変わっていた。
地面が荒れている。
下草が踏み潰され、折れた枝がいたるところに散っている。低級魔物の気配も薄い。逃げ切ったか、あるいはもう片づけられたかだ。
その時、視界の端で何かが走った。
小型のゴブリン。
だが、こちらに気づいても襲ってこない。怯えた目のまま、ただ脇を駆け抜け、森の外へ向かっていく。
異常だ。
俺は立ち止まり、綻びの目をもう一度開いた。
今度は、さっきより強く視界が軋んだ。
《脅威:中〜高》
《飢餓:強》
《縄張り意識:異常》
《周辺生態:崩壊傾向》
《接敵推奨:低》
最後の一行を見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。
綻びの目が、ここまで明確に「やるな」と言ってくることは多くない。
「……やっぱり、ただ事じゃないな」
声を潜めた、その直後。
森の奥から、重い音がした。
ドン、と。
何か大きなものが地面を踏んだような音。
そのあと、木々の間を縫って、さらに低い唸り声が響く。
身体が反応するより先に、気配が皮膚を撫でた。
でかい。速い。しかも、落ち着いてない。
俺はすぐ近くの太い木の陰へ滑り込む。
次の瞬間、茂みを突き破るように低級魔物が一体飛び出してきた。
ゴブリンだ。棍棒まで捨てて、顔を引きつらせたまま外へ逃げようとしている。
そのゴブリンが、俺の前を横切った――直後だった。
横から、黒い塊が突っ込んできた。
鈍い衝突音。
ゴブリンの身体が、枝葉ごと吹き飛ぶ。
「っ……!」
姿の全体は見えない。
だが、太い前脚と、異様に発達した肩、黒褐色の毛並みだけで十分だった。
熊に近い。
だが、ただの熊じゃない。
木の幹の向こうを横切ったその影は、普通の獣より明らかに大きく、重く、そして速い。
喰うために仕留めたんじゃない。
邪魔だったから潰した、そんな乱暴さだった。
その巨体が、低く鼻を鳴らす。
嫌な予感が確信に変わる。
こいつだ。
森の奥から低級魔物を追い立てていたのは。
俺は息を殺したまま、木の陰で剣を握り締める。
戦うな。
綻びの目はそう言っている。
だがその時、さらに奥の方から、人の叫び声が聞こえた。
「うわああっ!」
「下がれ! 下がれって言ってるだろ!」
まだ誰かいる。
しかも、完全に接敵している。
最悪だ。
ここで引けば、自分は助かるかもしれない。
でも、あの声を置いて戻るのは無理だ。
俺は一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。
綻びの目がまだ淡く視界の端に残っている。
《接敵推奨:低》
「……知るか」
小さく吐き捨てて、俺は木の陰から飛び出した。
助ける。
その後で、生きて帰る方法を考える。
重い足音が、森の奥でまた鳴った。
次の瞬間には、もう走っていた。