作品タイトル不明
第134話 父が王都に来た理由
文化祭が終わって二日。
王立学院の空気は、すっかりいつものものに戻っていた。
朝の鐘が鳴り、教室に教師が入ってきて、当然のように授業が進む。
中庭を埋めていた机も布も看板も、もう跡形もない。
それでも、完全に何事もなかった顔をしている者は少なかった。
廊下ですれ違う生徒が、こちらを見てひそひそと何かを話している。
食堂では、まだ「あのじゃがバターが」「学院長賞が」といった言葉が時折耳に入る。
だが、そういうざわめきも授業が始まれば薄れていく。
文化祭がどれだけ盛り上がっても、学院の日常は止まらない。
ノートを取り、課題を出され、教師に当てられれば立って答える。
そのいつも通りが、妙にありがたかった。
昼休みの少し前、廊下で使いの者に呼び止められた。
「お父様が、本日放課後、お時間をいただきたいとのことです」
父からだった。
文化祭の日にも会ったが、あの時は人の出入りも多く、落ち着いて話せたわけではない。
それでも、わざわざ改めて呼ばれるとなると、少しだけ身構えるものがある。
俺が短く礼を言ってその場を離れると、ちょうど教室へ戻るところだったセレナがこちらを見た。
「お父様?」
「たぶん」
「たぶん、じゃないでしょう」
少し呆れたように言ってから、セレナは声を落とした。
「まだ王都にいらっしゃるのね」
「そこなんだよな」
文化祭を見るためだけに来たのなら、もう領地へ戻っていてもおかしくない。
それなのに、父はまだ王都に残っている。
それを不思議に思っていたのは、俺だけではなかったらしい。
「そういえば」
ヴィクトルが横から言った。
「文化祭の日、ハル子爵の周り、やたらと中央の役人っぽい連中がいたぞ」
「見てたのか」
「見えるだろ、あれは」
ヴィクトルは肩をすくめる。
「ただの保護者って感じじゃなかった」
「そうですね」
ナディアも静かに頷いた。
「私も少し、そう感じました」
ガイルは短く言った。
「行ってこい。たぶん、聞いておいた方がいい話だ」
エドガーも、いつもの静かな顔で一度だけこちらを見る。
「領地の話だろう」
それだけだった。
「なら、無関係ではいられない」
その通りだった。
◇
放課後、俺は学院から少し離れた王都の宿へ向かった。
父が滞在しているのは、以前も使ったことのある、身分ある貴族が王都滞在の際に利用する落ち着いた宿だった。
豪奢すぎず、だが質は高い。廊下も静かで、出入りする使用人たちの足音までよく整っている。
案内された部屋に入ると、父は窓際の椅子に座っていた。
「来たか」
「来たよ」
父は机の上の書類から目を上げ、軽く顎を動かして向かいを示した。
「座れ」
言われた通りに腰を下ろす。
部屋の中には、書簡の束と封の切られた書類、それに王都の地図まで広げられていた。
文化祭を見に来た父の机には見えない。
「……父上、やっぱり文化祭を見に来ただけじゃなかったんだね」
そう言うと、父は少しだけ口元を緩めた。
「さすがに気づくか」
「むしろ気づかない方が変だろ」
俺は机の上を見た。
「何しに来てたんだ?」
父はすぐには答えなかった。
手元の書類を一枚揃え、机の端へ寄せてから、落ち着いた声で言った。
「今回王都に来た一番の理由は、褒賞だ」
「褒賞?」
「ああ」
父は短く頷く。
「昨今のハル領の働きについて、陛下から正式に労いを受けることになった」
一瞬、言葉の意味を頭の中で並べ直す。
褒賞。
王から。
正式に。
軽い話ではない。
「……そんなに大きい話だったのか」
「私も、ここまで早いとは思っていなかった」
父は淡々と答えた。
「だが、考えてみれば不思議でもない」
そこで指を折るように言葉を並べていく。
「青葉草の販路拡大。卓上灯と携帯灯、街灯向け青輝石の流通。西の森の開拓。街灯による領内治安の改善」
一つ一つが短いのに、重い。
「どれか一つならともかく、短期間でこれだけ動けば、中央も無視できん」
そう言われると、たしかにその通りだった。
俺の頭の中では、いつも一つ一つの出来事として動いていた。
青葉草。灯り。青輝石。森。治安。
だが領地経営という大きな枠で見れば、それらは全部繋がっている。
しかも、ただ動いただけではない。金も人も流れ始め、領地の顔そのものが変わりつつある。
「今回は、納税額の伸びも見られている」
父は続ける。
「だが、それだけじゃない。新しい産業の芽を作り、領地を安定させたこと。その二つをまとめて評価された形だ」
「なるほどな……」
ようやく、父が文化祭の日に妙に落ち着いていた理由が少しわかった。
褒賞を受けるために王都へ来ていた。
文化祭は、その公務の合間に見に来たのだ。
「じゃあ、文化祭に来たのは本当に“ついで”だったのか?」
「ついでと言うには、少し楽しみにしていたがな」
父のその言い方が、少しだけ可笑しかった。
「でも」
俺は机の上の書類を見る。
「それなら、もう帰っててもよくないか?」
「本来ならな」
父はそう言って、一度言葉を切った。
「ただ、思ったより話が先へ進んだ」
「先?」
父はそこで、初めてまっすぐこちらを見た。
「私だけの話では終わらなかったということだ」
空気が少しだけ変わる。
「……俺の話が出たのか?」
俺がそう聞くと、父は短く頷いた。
「出た」
その一言が、静かなのに重かった。
「卓上灯、携帯灯、青輝石、森の件――中央も、発案や最初の形作りにお前が深く関わっていることは把握している」
父は淡々と告げる。
「無論、今回の褒賞はハル家当主である私に対するものだ。領地の責任者は私だからな」
そこまでは、俺もわかる。
「だが」
父は続けた。
「“ハル領の後ろにいる頭”が誰かも、見られている」
部屋が静かだった。
窓の外からは王都の夕方の音が微かに聞こえる。
車輪の音。
遠くの呼び声。
その全部が、今だけ少し遠い。
「……王様も?」
「陛下も、宰相もだ」
父ははっきり言った。
「お前の名は、もう“子爵家の息子の一人”として扱われてはいない」
胸の奥で何かが少しだけ沈む。
怖い、というほどではない。
でも、軽くもない。
学院に通って、授業を受けて、試験を気にして、文化祭でじゃがバターを売って。
そういう日常の外側で、もうそんなふうに見られている。
「今回の文化祭の話は、さすがにまだ中央まで届いていないだろう」
父は言う。
「だが、商会の件もある。王都にいる間に余計な耳へ入るのは時間の問題だ」
ローデン商会。
昨日の誘いが頭に浮かぶ。
文化祭の模擬店で終わらなかったあの一皿は、もう学院の外へ出ようとしている。
「だから呼んだの?」
俺は聞いた。
「そのことを伝えるために」
「それもある」
父は肯定する。
「お前はもう少し、自分がどこまで見られているかを知っておくべきだ」
そこで父は少しだけ姿勢を変えた。
「褒賞は終点じゃない」
低く、しかしはっきりした声だった。
「むしろ始まりだ。評価されれば、期待も増える。期待が増えれば、妬みも警戒も増える」
「……だろうな」
「だから浮かれるな。だが、怖がりすぎる必要もない」
父の言葉はいつもそうだ。
楽観でも悲観でもない。
ただ、現実をそのまま机の上に置く。
「文化祭の店も見た」
父はふと、話題を変えるように言った。
「どうだった?」
「悪くなかった」
父の口調は変わらない。
「青葉草を目立たせたことより、あれを人に届く形にしたことの方が大きい」
それは、俺が一番言ってほしい形の評価だった。
「お前は最近、物を作るだけじゃなく、どう届けるかまで考えるようになったな」
「文化祭で売るなら、そこまで考えないと意味がないと思ったから」
「それでいい」
父は短く言った。
「領地の事業も同じだ。良いものを持っているだけでは足りん。届く形にしなければ、価値は眠ったままだ」
その言葉は、文化祭の話のようでいて、もっと大きな話だった。
青葉草も。
灯りも。
青輝石も。
森も。
全部そうだ。
ハル領にあるだけでは足りない。
届く形にして、初めて力になる。
「父上」
俺は少し考えてから聞いた。
「その褒賞って、どんな形なんだ?」
「正式な労いの言葉と、いくつかの便宜だ」
父は答えた。
「表向きにはそれほど派手ではない。だが、中央の見方が変わる。そこが一番大きい」
「爵位が上がるとか、そういう話ではないのか」
「今すぐはない」
父は即答した。
「だが、周囲は見るだろう。ハル家が次にどう扱われるかをな」
それだけで十分すぎた。
今は子爵家。
だが、その先を噂される場所にもう立っている。
「それと」
父は最後に付け加える。
「近いうちに、私の用向きでまたお前に声がかかるかもしれん」
「俺に?」
「ああ」
父は頷く。
「今回すぐどうこうという話ではない。だが、中央はお前を見ている。いつまで“まだ学生だから”で通せるかはわからん」
思わず息を吐く。
「急に重くなったな」
「急にではない」
父は静かに言った。
「お前が積んできたものの重さが、ようやく表へ出てきただけだ」
その言葉に、反論はできなかった。
◇
話が終わった頃には、外はもう夕暮れを越えていた。
宿を出ると、王都の通りには灯りがともり始めている。
文化祭の賑やかさとは違う、街そのものの夜の顔だ。
風は冷たい。
昼よりもはっきりと、冬に近づいているのがわかる。
俺はしばらく無言で歩いた。
父が王都に来た理由。
それはただ文化祭を見るためではなかった。
ハル領が前へ進んだ証として、王都で褒賞を受けるため。
そしてその中で、俺自身の名前ももう中央に知られ始めている。
学院へ戻れば、明日も授業だ。
きっとまた教師は容赦なく当ててくるし、ノートも取らなきゃいけない。
文化祭の余韻なんて、日常の中で少しずつ薄れていくだろう。
それでも、その日常の外側では、もう次の話が動いている。
文化祭のじゃがバターも。
ローデン商会の誘いも。
父の褒賞も。
全部が別々の話に見えて、実は同じところへ繋がっているのかもしれない。
学院の門が見えてきた。
俺は一度だけ立ち止まって、夜の王都を振り返る。
父が王都に来た理由は、褒賞だった。
だが本当に俺の胸に残ったのは、それだけじゃない。
ハル領が前へ進んだこと。
そしてその先にいる自分も、もう見られ始めているということ。
学院の日常は続く。
けれど、その外ではもう、次の段階の話が静かに動き始めていた。