作品タイトル不明
第130話 文化祭当日
文化祭当日の朝、王立学院はまだ開門前だというのに、すでにいつもとは別の場所のような熱気に包まれていた。
中庭には各クラスの机や飾りが並び、校舎の窓には色布や看板が掛けられている。普段は落ち着いた石造りの学院が、今日はどこか浮き立って見えた。
風は冷たい。
吐く息が白くなるほどではないが、立ち止まっていると指先がかじかむくらいには、秋が深まっている。
「この寒さなら、条件は悪くないわね」
店の前に立ったセレナが、小さく言った。
その視線の先には、Sクラスの出店があった。
白布を掛けた机。
大きく掲げた看板。
そこに書かれているのは、先日決まった名前だ。
青葉香るじゃがバター
あらためて文字にすると、少しだけ不思議な感じがした。
だが、もう誰も異論はなかった。
「看板の位置、もう少しだけ右だ」
ガイルが周囲を見ながら言う。
「人の流れがこっちから来る。最初に目に入る角度で置いた方がいい」
「わかった」
俺は看板の脚を少しだけずらした。
調理台の上には、下ごしらえを済ませたじゃがいもが並んでいる。
小分けした塩入りバター、刻んだ青葉草、包み紙、木串、会計用の小箱。
「釣り銭、確認した」
ヴィクトルが言う。
「値札も大きめに出しておく。客が迷って止まるのが一番だるいからな」
「接客の流れも大丈夫です」
ナディアが穏やかに頷く。
「最初に何のお店かをはっきりお伝えします」
エドガーは少し離れた位置から、全体を静かに見ていた。
「開店したら最初は焦るな」
短く、それだけ言う。
だが、その一言で不思議と空気が締まる。
開門の合図が鳴った。
学院の正門が開き、外から人の流れが入ってくる。
保護者、卒業生、王都の商人、子どもを連れた家族。制服ではない人間が一気に増えるだけで、学院の空気はまるで変わった。
文化祭が始まった。
◇
最初の十分ほど、うちの店の前を通る人は多かった。
だが、立ち止まる者は少ない。
やはり場所が少し悪い。
中央通りに近い派手な店に、まず視線も足も流れていく。
中でも目立っていたのが、ガレスたちのクラスだった。
肉を焼く香り。
大きな看板。
遠目にもわかる派手さ。
「やっぱり向こうは強いな」
補助に入っているクラスメイトの一人が、小さく言った。
否定はできなかった。
うちのじゃがバターは、見た目の派手さだけで勝つ商品ではない。
食べて初めてわかる強さがある。
だからこそ、まず足を止めてもらわなければならない。
「まだ慌てる時間じゃない」
ガイルが低く言う。
「列がない時こそ、崩れるな」
「わかってる」
ヴィクトルが会計箱を軽く叩いた。
俺は鍋の火加減を見た。
湯気は立っている。
芋の火通りも悪くない。
でも、客が来なければ意味がない。
その時だった。
「温かい青葉香るじゃがバター、いかがですか」
ナディアの声が、やわらかく前へ伸びた。
大きく張り上げたわけではない。
だが、寒い空気の中では妙によく通った。
通り過ぎかけた年配の女性が、足を止める。
「青葉香る?」
ナディアがすぐに笑顔で応じる。
「はい。温かいじゃがいもに、バターと青葉草を合わせたお料理です。寒い日によく合いますよ」
その女性が、店先へ一歩近づいた。
それだけで十分だった。
「一つ、お願いします」
ヴィクトルが即座に代金を受ける。
俺はじゃがいもを一つ取り、真ん中から割る。
そこへバター。
塩。
青葉草。
湯気が立つ。
芋の素朴な香りに、溶けたバターの香りが重なり、最後に青葉草の爽やかさが抜けた。
その女性は受け取ったばかりのそれを、店の前で小さく口に運んだ。
一口。
それだけだった。
「……あら」
目が丸くなる。
その反応を、たまたま近くにいた別の来場者が見る。
「何それ、美味しいの?」
「珍しい匂いがするな」
流れが、ほんの少しだけ変わった。
女性はもう一口食べて、それからはっきりと言った。
「おいしいわ。温かくて、香りがいい」
それで足りた。
隣にいた若い夫婦が寄ってくる。
その後ろの子どもが看板を見上げる。
さらに、その向こうで別の来場者が立ち止まる。
「二つください」
「私も一つ」
「香草多めってどんな感じですか?」
「定番と香草多め、塩強めがございます」
ナディアが迷いなく案内する。
「注文こっちだ! 受け取りは右!」
ヴィクトルが声を張る。
「列、看板の前を塞がないで! こっちへ!」
ガイルが人の流れを整える。
俺は手を止めない。
芋を割る。
バターを乗せる。
青葉草を散らす。
セレナが受け取り口で包みを整え、客へ渡していく。
「熱いのでお気をつけください」
その一言に、雑さが消える。
店が、回り始めた。
◇
「……何だよ」
少し離れた場所で、ガレスの声が聞こえた。
視線を上げると、向こうの店先からこちらを見ている。
最初はただ鼻で笑っていた顔が、今は明らかに違っていた。
青葉草は被せてきた。
肉の派手さもある。
それでも、こちらの前に少しずつ人が溜まり始めている。
理由は簡単だ。
うちは、寒い日に食べたくなる温かさを売っている。
向こうが目で引くなら、こちらは湯気と香りで引く。
その違いが、ようやく現実になってきていた。
「リオン、次!」
セレナの声が飛ぶ。
「わかってる!」
手を動かす。
じゃがいもを割るたびに湯気が立ち、バターが溶け、香りが広がる。
そのたびにまた、通り過ぎるはずだった人間が振り返る。
「これ、見た目よりちゃんとしてるな」
「香りがいい」
「寒いからちょうどいいかも」
客の言葉が、次の客を呼ぶ。
「……いけるな」
ヴィクトルが会計の合間に笑った。
「これ、ちゃんと勝負になる」
「最初からそう言ってるだろ」
俺は答えながら、次の芋へ手を伸ばす。
エドガーが少し後ろから全体を見ていた。
そして短く言う。
「焦るな。この流れを切るな」
その一言で、また全員の動きが整う。
まだ勝ったわけじゃない。
文化祭は始まったばかりだ。
売上も、投票も、この先どう動くかわからない。
それでも、少なくとももう、ただの芋屋だと笑える状況ではなかった。
店の前には、確かに次の客が並び始めている。
ガレスの顔が、はっきりと変わった。
文化祭当日。
勝負は、ようやく本当に始まったのだ。