作品タイトル不明
5 エリックという男性
豚耳の南蛮漬けは残念ながらめちゃくちゃ美味しかった……
マリアナは自分の口が思った以上に庶民的だと笑いそうになる。
王女付きで、女官たちと摂る食事は上品にゆっくり素材の味を……などと言っていたが、甘辛い濃い味わいは、お酒をガンガン進めてくれる。
遠慮なくどの食事にも「美味しいです!組み合わせ最高!」を連発しエリックから笑われる羽目になった。
エリックは話題も豊富で今日は勿論「クリスタルビーズの王冠」の考察を交わす。男性の目線からすると冒険譚の魔法については、かなり考えが違った。『魔術がご都合主義で使えまくるのはおかしな話だ』と意外にも辛辣な意見なのである。
マリアナとしては恋愛要素のスパイス程度に考えていた部分も、法務部の文官から見ると『無限のものなど現実には存在しないのだから』と考えるらしい。
「折角設定が細かなところまで有るのですから、魔法に関してもキッチリと詰めておきたかったんですよ」
「ですが、それでは余りに夢がないですわ。私は王女の幼馴染が魔力不足でうっかり死んだら、続きが悲しくて読めませんもの。他の読者様も同じです。
ヒーローたちが『あぁ!魔力足りなくなっちゃうから調整しながら戦おう!』なんてセリフが入ったら萎えちゃいます」
と馬鹿馬鹿しい話にもエリックは乗ってくれた。
会話が楽しくてお酒も進み気がつけば女子寮の門限まで後半刻という時刻であった。
「あ!帰らなくては!」
立ち上がり慌てるマリアナにエリックは
「今日は我が家の客室にお泊り下さい。
あぁ、決して邪な考えでいたわけではありませんよ?貴女とはゆっくりお話をしてみたかったから根回しをしたまでです。
そのつもりで使いの者にも伝えていますので心配なさらないで。悪評が立たぬよう厳格な母たちが屋敷に控えておりますから」
悪戯っぽく笑う柔和な笑顔にマリアナは再び絆された。
(なんて気遣いができる人なのかしら……)
マリアナはエリックという人間の気配りがしっかりしていることに思わず溜息を吐いた。
今日の段取りは肩肘を張らず完璧な上、時間のゆとりは勿論、マリアナの状況をおそらく知っているからこその行き届いた采配。
ヴァレンタインと最後に食事に行ったのはいつだったか……
少し前は、レイチェルと会う為かやたらと夜会に出席しており、デートらしいものは無かった。
安心しながらワインのお代わりを注いでもらい、ついこの前まで傍にいた婚約者のことを思い浮かべる。
マリアナは実はお酒に強い。
というかお酒が好きだ。辛口の白ワインも、庶民の好む蒸留酒もデザート感覚のフルーティーな果実酒も。要するに『酒』が好きなのだ。
ヴァレンタインは誰を基準にしているのかはわからないが
「無理して飲まなくて良いぞ」が口癖で、食前酒やシャンパンを少しだけ注いでくれるだけで基本二杯目以降マリアナは果実水のみであった。
冷えたエールを一人で煽るヴァレンタインに
「一口飲ませて」
と言いたくなったのは一度や二度ではない。
エリックはマリアナの呑み食いに口出しはせず
「これも美味しいよ!アサリに合わせて次のワインは辛口にしよう」
と自然に勧めてくれる。
お酒が好き、や飲み慣れている……という事ではなく、エリックは男女の垣根があまり無いのだと感じる。
「エリック様は会話も面白いし、お酒の勧め方もお上手ですからきっとモテるんでしょうねぇ〜」
だからそれは自然に零れ落ちた感想であった。
するとエリックは苦笑いした。
「そう思って貰えたら頑張った甲斐があったのかな?私はね、実はマリアナ嬢のことは他人事だとは思えなくてさ。
悪く取らないで欲しいんだけど聞いてくれるかい?」
そう言って初めて自分のことをエリックは話し始めた。
────────────────
エリックの実家は生まれた時から裕福では無かった。
15歳の時は目に見えて金銭面で困窮し両親は焦っていた。
領地が狭く、近年の凶作で財政はかなりまずい状態で、使用人も限界まで削る状態に陥る。
貴族位の返上まであと僅かというところで、エリックの頭の良さがとある裕福な商人の目に留まった。
紅茶の流行に上手く乗ったやり手の男の娘は同じく15歳。
家同士、益を考えての政略結婚が即結ばれた。
商会長の娘は、その辺の貴族より裕福な持ち物を持っており、見た目も華やかであった。
本人の意向で勉強は花嫁修行的なところに通っていたが、レジロンティ家の足が遠のいていた高級店では常に特等扱いであるし、子爵家の二倍は広い屋敷に住んでいた。
二人は相性は悪く無いと思われた。
美人で少し我儘なご令嬢と、とにかく優しい穏やかな性格のエリック。
二人は問題なく逢瀬を重ねていた。
貴族学園に通うエリックは休みの合間にも彼女に会ったり手紙も書いた。
そんな彼女は当たり障りなく返事も返してくれたしデートも黙ってついてきた。
学園に通わない婚約者の女性はその頃から祖父の商会を手伝うようにもなっており、異国に買い付けに渡ったり商談を国内で行うこともあった。
仕事が忙しい彼女を慮って体調を気遣う手紙を出したりもしたし、デートを早く切り上げることもあったという。
そんな彼女と5年間交際し二十歳でそろそろ式でもあげようか……となった頃。
「婚約破棄してほしい」
と言われた。
彼女は幼馴染の男性と恋仲になり、どうしても彼を諦められないと言う。
エリックは戸惑ったが、彼女の意思は固そうである。
「私のどこがダメだったのですか?」
と思わず問いかけた。
援助されている自分の立ち位置からしてかなり気を遣って接してきたつもりだったから、平民の幼馴染に負けたことが信じられなかった。
その上資金援助してもらっているレジロンティ子爵家は婚約破棄は不利になる。
どうにか有利に話を進めたいと頭をフル回転させていた。
すると婚約者はスッと目を細めた。
「どこに出かけても『いつもはもっと良いものを食べているでしょう?今日はこのレベルで申し訳無い』贈り物をくれても『安物ですまない』と貴方はいつも謝ってばかり。正直疲れました。私は同等の価値観の人と付き合いたいんです」
エリックは衝撃を受けた。
確かにいつも口癖で「すまない」と連呼していたからだ。彼女は自分の稼ぎがある人間であったから、学生の行きつけなどはちょっと口に合わないものも多いだろうと考えていた。
そんな劣等感を誤魔化すように先に謝ることが増えていたのは事実だ。
婚約者は続ける。
「すまない、と言われたら何もかもが美味しく無くなるし、楽しくなくなる。あなたと一緒にいて楽しかったことが一度も無いんです」
そこからどうやって屋敷に帰ったのかエリックは覚えていない。
商会長は娘の我儘だからと、資金援助や借金に関してはかなり優遇してくれたが、エリックはその時心に決めた。
『二度と女性に気を遣われたりしない金を手に入れて、自分の気持ちが負い目を感じないように生きよう』と。
運用する資金もない若い子爵家子息だ。騎士団で一旗あげる腕っ節もない。
だから得意なことに努力を重ねた。
勉強を今以上に励み、給与の高い法務部に入った。
法務部に入ってもレジロンティ子爵家の財政難は続いていた為、25歳まで必死に働き、借金返済に努めた。自分の贅沢は勿論、家族にも節約を強めに要求した。
そして父たちの努力も重なり遂には無事、借財は完済する。
両親は喜んで『次はお前のしあわせを!』と見合いを次々持ってきた。
しかし今度は驚くことに彼女たちがエリックに「お金」を期待していることに気がついた。
職業夫人の少ないこの国だったら当然のことではあるが『エリック様はお仕事をこれからも頑張られるのでしょう?』と出世を期待しているのだ。
狭い領地のレジロンティ子爵家には彼女たちは期待していないが、〈法務部のエリック〉には将来性を見出しているらしい。
思惑が透けて見えると何だか女性のことが煩わしく感じられ、お見合いは連敗。
そして夜会で声を掛けてくる女性が肉食獣に見え始めた。
「私も病んでいたんでしょうね。元婚約者は私に金銭のことで期待したことが無かったから、割と私の本質を見てくれていたんです。振られましたが彼女のように『私』自身のことを見てくれる人を探し始めたら……まぁ、誰もいなくて。今更ですが、私は顔が良いわけでもなければ逞しいわけでもない。趣味は読書でインドアな面白みの無い人間です。
モテるはずもないし年齢も30歳だ。男としても適齢期を過ぎている」
「あら、でも王宮の方達はみんな結婚が遅いですし、30歳で独身の方も大勢です。そんな風に言われなくても」
「モリーに君の話を聞いた時、私は他人事じゃなかったよ。結婚直前のこの瞬間に婚約者の……女性との不適切な距離は辛かっただろうと。
だけど、マリアナ嬢はすぐに自分に目を向けた。改善点を探して、前向きに他の人たちと人間関係の再構築を望むその姿勢に心が動かされてね。それで一度話してみたいと思ったんだ。
想像以上に美人だし、若いし、楽しい人柄だし私とは雲泥の差だけどね」
エリックの苦味のある微笑みにマリアナも胸がツキリと痛んだ。
「エリック様の言いたいことは私もわかりますよ。自分を家の為だと押し殺して、努力して、関係を築こうと努力なさったのでしょう。それなのにあっさり婚約者の方から去られてしまって。お辛かったですね。私も彼の女性関係のことは〈自分の努力が足りないから〉といつも気に病んでいました。地味な自分はヴァレンタインの付き合ってた女性たちから全く認めてもらえなかったの。だから、品行方正で親に安心感を与えられるその方面で頑張るしかないって諦めていたんです」
「マリアナ嬢は地味じゃない。綺麗だよ」
「そう見えるように努力した結果が少しでも表れていれば」
マリアナも苦い微笑みを浮かべた。
相手のために努力していることが報われなかった辛さをこの人は知っていると思っただけで、親近感がグッと湧く。
「まだまだ私もリハビリしている途中なのですが、エリック様とお話ししていて、共感して貰えただけでとても気持ちが、スッキリしました。ありがとうございます」
「良かったら……また会ってもらえるかな?私もこんな風に女性と素直に話せた事がずっとなくてね。モリーは本当に凄いな。『エリックの心を柔らかくしてくれる人を知ってるわ』って言ってたんだよ。この前の読書会で会った時から私はどうやら舞い上がっているみたいだ……」
年上のエリックがはにかむとマリアナの心がポカポカと温まる。
ヴァレンタインと付き合い始めてからは常に緊張して、誰かと比較される苦しさをどこかで感じ続けていた。
「エリック様の優しさに涙が出そう。でも私はまだ婚約中のままなんです」
「構わない。先ずは私たちは友達だから」
エリックはズルくて賢い。
マリアナが気を揉まなくて済む魔法の一言を知っているのだ。
『私たちは友達』それは胸が少しだけ切なくて、でも温かくて、優しい逃げ道。
マリアナは自然にエリックに向かって微笑んでいた。
エリックから向けられる気持ちが心地よい。
だが、奥底ではマリアナは幾度もヴァレンタインと彼を比較しているのだ。
(浅ましいわね。そんな身分じゃないのに)
そう思考が揺らいだのが判ったのだろう。
聡いエリックは微笑んだ。
「未来は分からないが、それも一興でしょう?私たちはもう少し何かから自由になってもいいと思わないかな?私も過去からあと少しで立ち直れそうなんだ」
自分と向き合うのは勇気がいる。
今はお酒と、配慮の行き届いた友人の力を少し借りても良いのだと思えば、マリアナは肩の力が抜けた。
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ヴァレンタインは夜風を切りながら馬を走らせた。
〈東の豚亭〉でマリアナが 食事(デート) をしていたと騎士の一人がすぐに教えてくれたからだ。
見回りの時に庶民の店の前に家紋入りの馬車が止まっていたのが目立ったのであろう。
友人の騎士は何気なくその乗客の顔を確認した。
するとマリアナ・ノビーパークが可愛らしい茜色のワンピースを着て馬車から降りてきた。
当然のようにエスコートされて。
痩せ型で穏やかそうな男は仕立ての良いジャケットに家紋の入った指輪をしていた。
騎士は慌てて非番のヴァレンタインを呼びに戻る。
『大変だ!マリーちゃん男とデートしてるぞ!』
ヴァレンタインは彼になんと返事したのか記憶がない。
兎に角無我夢中で街のはずれの〈東の豚亭〉に馬を飛ばしていた。
(嘘だ!!嘘だ!!)
ヴァレンタインのことを愛してくれていたマリアナが他の男と食事をしているなんて信じたくなかった。
その庶民に人気の店の前に到着すると窓際でワインを注がれているマリアナの姿が見えた。
(嘘だろ……)
きっと顔色は真っ青だったのだろう。
店から出てきた壮年の男性が
「おいおい、騎士のお兄ちゃん大丈夫かい?飲みすぎたのか?」
と声をかけてきたくらいだった。
――あ、あぁ、平気だ。風に当たってたら大丈夫だから――
と言いながら向かいの建物の細い階段に座り込みマリアナたちが出てくるのを待つ。
二人は終始笑顔かと思いきや、深刻な表情を浮かべたり、時には涙ぐんだりしていた。
コロコロと表情を変えるマリアナは愛らしかった。
(そっか……あいつは何だかんだまだ22歳だった……)ふと思い当たった。
年齢の割に落ち着いて、思慮深いマリアナはあの男の前では年相応に甘えているのだろう。
いつもはあげない笑い声をあげているようで、お酒も何杯も飲んでいた。
(俺は自分が飲むばっかりでマリアナに酒を勧めたことなんて無かったな)
予想外にもマリアナの顔色は全く変わっておらず、赤くもなっていない。
(あいつ酒強かったのか……)
婚約者の知らない一面を次々と他の男が暴くのがヴァレンタインには耐えられなかった。
いつの間にか頬が冷たくなる。
知らず知らずに涙が溢れて風で冷やされていたのだ。
ここで待っていてもどうしようもできないのに、マリアナを見守ることを止められない。
ヴァレンタインはどうしようもないほど打ちのめされていた。
(頼む。マリアナ……俺のところに戻ってきてくれ)
ヴァレンタインは自分の傲慢さに今更ながら気がついた。
マリアナが年下で、控えめな性格であったから常に上から『女はこういう生き物だから』と決めつけてかかっていた処があった。
マリアナが冷静になれば、結婚間近で周囲に迷惑を掛けることを厭い『仕方ない』とヴァレンタインを許すと考えていた。
一時的な感情で『婚約解消』を言ってきているが、ノビーパーク伯爵家にいる姉のユリアナの手前、結婚を反故にする勇気は持てないだろうと高を括っていた。
ヴァレンタインはマリアナの性格を誰よりも理解した上で兄や母親がいうほどの危機感は持ち合わせていなかったのが正直なところだ。
ヴァレンタインはマリアナが姉のユリアナより自分が劣っていると劣等感を抱えているのを知っていた。
ケイオス・ノビーパークは領地の管理をする立場なのでたまに見かけるが、中の中ランク程度の男である。
真面目が取り柄で正直男としての魅力はあまり無い。
上司に気に入ってもらえる真面目な人間性は良いとして、女性関係は全く以てダメだったことが窺える。
女が寄ってくる男の自分だからこそ分かるのだ。
『まぁ、昔の話なんですけど……私みたいなお転婆でお喋りな女は選んでもらえなくって、姉と縁を結びました。私と違って上品で控えめな姉のユリアナをケイオス様はとても愛しているんです』
婚約式の前、顔合わせの時に冗談交じりに話していたがヴァレンタインにはわかる。
マリアナはケイオスに意図的に外された。
男としての魅力に自信のないケイオスはきっと『自分より下に置けそうだ』という点を考慮してユリアナを選んだのだろう。
初めて会った時の印象は姉妹とはいえユリアナの方が雰囲気は地味で重たい。容姿もマリアナの方がパーツのバランスがよく、ユリアナの瞳は僅かばかり腫れぼったい印象だ。
要するに顔立ちそのものにシャープさが足りないのである。
付き合い始めたらすぐに分かったことだが、仕事上容姿を決して派手にしないように心がけているがそれでもマリアナの方が華がある。性格もポジティブで周囲に好かれる。
女性からも、男性からも素の状態が好かれる人間性だ。
対してユリアナの方が『私なんて……』と謙遜しつつ気の強いタイプである。
大人しい上品な女が見た目通りでないことをヴァレンタインはよく知っていた。
ケイオスは見た目だけに囚われて自分の都合通りに動きそうなユリアナを選んだのだろうが、恐らく結婚してみれば尻に敷かれているのは間違いない。
ユリアナは微笑みながら曲げない折れない、拘りの多い人間に思える。
対してマリアナは、明るく裏表は殆どない。
努力家で『足りないんですね!頑張ります』と素直に返事をする人間だ。結果に対して原因を自分にあると思うほどに。
その点を王女殿下は買っていたのだと思う。
腹芸が出来なくてお輿入れの一団から外されたが、ヴァレンタインとしては彼女に出会う機会は幸運であった。
(だけどその幸運を俺は自分から手放しちゃったんだな)
他の女たちのように、何かを買ってくれと強請らないマリアナをいつの間にか蔑ろにしていたのかと茜色のワンピースを見た時に痛感した。
人気のブティックで売られているそのワンピースをヴァレンタインは知っていた。
これがショウウィンドウに飾られているのを見た時(マリアナに似合いそうだな)と考えたからだ。
しかし、その時のヴァレンタインは、レイチェルに思い出の品を宝飾店で選び、(しかも見栄を張って金細工のブローチを)購入したばかり。懐がいささか寂しかった。
(まあ、誕生日でもないし、その時に何か買ってやればいいか)
あの時の自分を殴りたいくらいショックであった。
(あの男からプレゼントされたのかな……)
聞くことも叶わないが着飾ったマリアナは可愛らしかった。
マリアナがヴァレンタインと距離を置くと今まで遊んでいた女たちがすぐにコナをかけてきた。
以前なら彼女たちを可愛らしいと思っていたヴァレンタインであったがマリアナと比較するとそれらが全て劣化品に見えた。
会話をすると彼女たちの頭の中身が空っぽだと思い、洋服のセンスも質も王女付きのマリアナとは比べ物にならないくらい下品に感じた。
(俺って本当に勘違いした人間だったんだ)
そっけない態度と、拒否する態度を続けるヴァレンタインに元カノたちはすぐに離れていった。罵詈雑言のおまけ付きで。
そういうところもマリアナと雲泥の差なのだと痛いほど考える。
マリアナはヴァレンタインを責めなかった。
手紙に返事は貰えなかったが兄とはやり取りがあるらしく
『マリアナ嬢は自分の気持ちが整わないので時間が欲しいと言っている。〈このまま結婚してもヴァレンタイン様の気持ちは私に向いていませんから幸せな結婚は難しいでしょう。お互いを見つめ合って最善の道を選べるように冷静な時間を持ちましょう。〉そう手紙には書いてあった。
お前への恨み節などないぞ、本当に高潔なお嬢さんだ。母上も自分の失態を悔いておられた。マリアナの気持ちを汲まずにこちらの事情を押し付けたばかりに心を閉ざさせてしまったと。お前もマリアナのことをもっと考えてやれ』
(それは婚約解消一択ってことか?)
ヴァレンタインは楽しそうに周囲に溶け込んでいくマリアナを見ていると胸を掻きむしられるような痛みを感じた。
騎士団で交際を始めた時、マリアナを地味なままにさせたのはヴァレンタインだ。
少しでも着飾れば周囲が彼女の美しさに気がついてしまうと分かっていた。
王女付きの習慣からか、物を増やさないマリアナをそのままにし、婚約を結んだ。
22歳らしく若々しい格好で流行も取り入れたマリアナは、真面目な中身はそのままで周囲の好感度は爆上がりだ。
女性は『いいよ!そうよ。今は騎士団の事務なんだしこのくらいの可愛い色の方がずっと明るくていいよ!』とマリアナを支持し、男達は彼女の可愛らしさに気がついたのだろう。気軽に何度も声をかけている。
以前からマリアナを良いと思っていた人間は明から様で、釣り書きをノビーパークに送った者もいたそうだ。
人生で感じたことのない痛みに毎日気が狂いそうになる。
マリアナはきっとヴァレンタインの存在を少しは感じているのだと思う。だが、寄り添ってくれる友人に視線を合わせ、決してこちらを見ようとしない。
生まれ変わったように着飾り、固かった表情は砂糖菓子のように甘くなった。
ヴァレンタインと離れて、やっと自由に成れたとばかりに羽ばたく美しく可愛らしい婚約者。
(なんで男って、自分の持ち物の価値を分からないんだろうな)
傷を負ったマリアナを慰め、懐に仕舞い込んだ後ヴァレンタインは慢心していた。
もうこれで、俺の元から離れることはないだろうな……と。
だから平気で不義理を働いた。寧ろそれを悪いことだと認識すらしていなかった。
ちゃんと以前の女達とは別れているんだから、それだけで十分だと考えていた。
だが、マリアナは他の女達と違い、自分でちゃんと飛べる羽を持っていた。
ヴァレンタインに以前から不満があったのも分かっていたのにそのケアを怠った報いであると周囲は知っている。
だから誰もがヴァレンタインに冷たかった。
嘗ての事務官の上司が騎士団長の部屋を訪れていたと友人が言っていた。
『ノビーパーク嬢を紹介してくれないかと頼まれておるんだがなぁ』とドア越しに会話が聞こえ、聞き耳を立てる。すると、上官はさも当然のように
『ヴァレンタインとはもう婚約解消は決定しておるんだろ?いつ頃書類が整いそうなんだ?』と続けたそうだ。
岩で頭を殴られたような痛みを感じた。
周囲は「絶対に復縁は無理だ」と信じている。
ヴァレンタインはマリアナの価値を今更ながら痛感しており、そして離れた後
(やっぱり彼女を愛している)
と改めて思った。
マリアナの芯の強さや、控えめな考え。
少しお喋りなところ。
頭がよく、でもそれを鼻にかけない優しさ。
夜風は冷たくなりヴァレンタインの体を冷やしていく。
(マリアナ……好きだよ。お願いだからこっちを見て)
星に向かってヴァレンタインは祈った。
一月前まで必死だったレイチェルのことなど、もうすっかり思い出せなくなっていた。