作品タイトル不明
第13話 はい、と言う事でね
好きになった人には好きな人が居た。
ただそれだけのよくある話。
書道家の母を持つ翠は、物心がついた頃には書道をしていた。
そこに疑問を抱くような事はなかった。
そうするのが当たり前だと思っていた。
だけど、母の指導は厳しくて、幼い頃の翠には少しばかり辛いと感じる事もあった。
「凄いね。こんなに綺麗な字が書けるんだ? カッコイイね!」
ある日、書道教室にやってきた男の子。
初めて教室に来た歳の近い男の子。
字を褒められた。
字を書いた自分の事を褒められた。
ただそれだけだったかもしれない。
でも、それが大事だったのかもしれない。
男の子に褒められたその時。
年の近い子に認められた時。
翠は初めて書道が好きになった。
毛筆で書かれた男の子名前は下手くそで、読めない漢字もあったけど。
「これは、しろさきはやと、って読むんだよ。よろしくね」
男の子に教えて貰った名前はすぐに憶える事が出来た。
また褒めて貰いたいと思った。
翌日には男の子の名前の漢字を──『城崎隼人』──と言う字を、綺麗に書けるようになっていた。
男の子が書道教室に顔を出すようになってからは、母の指導も全く苦にならなくなった。それどころかもっと字が上手になりたいからと、全身全霊で取り組むようにもなった。
「すご、俺まだその漢字書けないや。どうやって書くの?」
綺麗に字を書いたらちゃんと褒めてくれる。
難しい漢字を書けば興味津々で聞いてくれる。
「ぉ、教えます! 隼人君ならすぐ、覚えられると思います!」
母の書道教室が終わった後。
翠と隼人はいつもくっついて、二人きりで字の練習をする。
小学校は同じだったとは言え、小学校の場合は学年が違えば顔を合わせる機会なんて基本的に存在しない。
通学ルートが同じであれば集団登校や集団下校で顔を合わせる事もあるが、そうでもなければ違う学年の人となんて会わない。
だから、翠にとって週に二回の書道教室だけが隼人と二人でいられる大切な時間だった。
彼に褒められるとどんな事でも頑張れた。
身体の内から無限に元気が溢れて来る。
隼人と出会って、翠は書道の腕をメキメキと上達させた。
自分が隼人に抱いている気持ちがなんなのか。
まだ幼かった少女にはそれが何かわからなかったけれど、隼人と過ごす時間が楽しくて幸せだった事に間違いはなかった。
小学四年生になった時──。
「初めまして。黒川乃愛と言います! よろしくお願いします!」
その少女が現れるまでは──。
書道教室の時、翠の場所だった隼人の隣。
その席は乃愛が現れたその瞬間に、まるで、それが当たり前であるかのように乃愛の席になってしまった。
かつて自分が隼人に教えてあげた事。
それを、笑顔を浮かべた隼人が乃愛に教える。
かつて自分だけを褒めてくれた隼人。
そんな隼人が、今では隣にいる乃愛を褒める。
悲しい、とは違ったかもしれない。
怒っている、とも違ったかもしれない。
何が何だか分からない感情。
初めての感情に振り回されてしばらく。
翠の美しい字が酷く歪んでしまった。
城崎隼人は何も変わっていない。
黒川乃愛はとても優しいお姉さん。
誰も悪くない。
何も変わっていない。
だけど、居心地が悪い。
そうして、モヤモヤとしながら時は流れ、その感情が恋である気が付いたのは小学六年生に上がった時。
「六年間本当にお世話になりました。中学では書道部に入ろうと思っていまして──」
中学の制服を着た隼人と乃愛。
二人並んで家にやって来た時。
母と会話をしている二人の姿を見た時。
彼女はようやく胸の中に渦巻く感情の正体に気が付いてしまった。
「翠ちゃんも御鐘井行くんだったら、中等部に上がったら書道部に顔を出してくれよな」
「はい……絶対に書道部に入ります」
「私は書道部じゃないけど、中学でも仲良くしようねー!」
「あっ、はい! よろしく、お願いします⋯⋯」
「乃愛も書道部入ればいいのに」
「うーん、でも私は──」
中学の制服を着ている隼人と乃愛。
楽しそうに笑う二人を見た時。
自分が『翠ちゃん』とちゃん付けで呼ばれていて、目の前の女子が『乃愛』と呼ばれている違いを理解してしまった。
二人が中学生だと分かった時。
自分がまだ小学生だと分かった時。
年齢差と言う覆らない現実を理解してしまった。
隼人にとって、自分が年下の子供でしかないのだと気が付いて、これまで感じていた気持ち悪い感情の正体が『嫉妬』であると、ようやく理解してしまった。
だけど、翠は強い子だった。
それを理解した上で一度は全てを飲み込む事にした。
自分が隼人から子供にしか見られていない。
であれば、自分のことを対等な女であると認識して貰えるように自分を磨けばいい。そう考えて奮い立った。
幸いにも、母親譲りの美貌が引き継がれている事はわかっていた。なので、後はそれを磨いて研ぎ澄ませながら、年下ではなく一人の女として彼に意識して貰えるように精神を鍛え上げよう。
そう考えた翠は、小学六年生の一年間で身長がぐっと伸びたと言う理由もあるだろうが、中学に上がる頃には大変な美人さんに成長。
少しでも隼人と一緒に居たいと言う理由で、中高一貫の私立御鐘井学園を受験して、部活動を決める時はもちろん迷うことなく書道部を選択。
「おお! ちょっと見ない間に大きくなったな! 綺麗になったから一瞬誰かわからなかったわ、ははは!」
「そ、そうですかっ!」
中学での再会は上々。
隼人の台詞は完全に親戚のおじさんおばさん目線な感じだが、それでも翠には嬉しかったようで、何よりも綺麗と言って貰えた事で大満足。
しかし、どうしても学年は違う。
書道部の活動以外では中々一緒にいる時間が確保できない。
その状況に変わりはなかった。
それでも、少なくとも書道部には黒川乃愛が居ない。
「今度、乃愛と遊びに行くんだけど、良かったら翠ちゃんも──」
確かに、黒川乃愛はいなかった。
「こないだ乃愛がさ──」
いなかったが。
「乃──」
隼人の口から出てくる話題の殆どが、黒川乃愛。
今、隼人の目の前に居るのは自分なのに。
同じ部活動を頑張っているのは自分なのに。
いつまで経っても、何処までいっても。
綺麗になったと褒められても。
どれだけ好意を寄せても。
彼の中の自分は年下の『翠ちゃん』のまま。
同じ部活に所属する後輩の女子のまま。
「──遅い。もっと早く来れないのか。相変わらず弛んだ人だ」
気が付けば、翠の口から出る言葉は辛辣になっていた。