作品タイトル不明
第66話 帝都の路地裏、闇バーと黒衣の少女
『アヴァロン帝国暦元年 11月中旬 帝都フェルグラント 曇り』
【皇帝の右腕、オルデンブルク公爵グレン視点】
チェーザレに「新しい宗教を作れ」と無茶振りをした後、俺たちは頭を冷やすために帝都の街へ出ていた。
かつてのアードラー帝国の中心地、フェルグラント。
主を失い、静まり返っていたこの巨都も、新皇帝カールの即位によって、少しずつ息を吹き返しつつある。だが、入り組んだ路地裏には、まだ古い時代の澱のような空気が残っていた。
「……おい、グレン公。ここはどこだ?」
隣を歩くチェーザレが、不安そうに辺りを見回す。
おかしい。大通りを歩いていたはずが、いつの間にか霧が立ち込めるような、薄暗い路地裏に迷い込んでいた。石畳は湿り気を帯び、どこか異界のような静けさが漂っている。
その突き当たりに、一軒の奇妙な店があった。
古びた木の扉に、看板が一つ。そこには、この大陸の言葉で、しかし妙に崩れた文字でこう書かれていた。
『闇バー』
「……闇、バー?」
俺のこめかみに、青筋が浮かんだ。
記憶が蘇る。かつてグレンフィルトで、雑兵上がりの俺が騙され、身ぐるみ剥がされた、あのぼったくり酒場の苦い記憶が。
「またか……。また、こんなふざけた店ができやがったのか!」
俺は拳をボキボキと鳴らした。
帝都の治安維持も、皇帝の右腕である俺の仕事だ。こんな怪しげな店、放っておくわけにはいかない。
「行くぞ、チェーザレ。ガサ入れだ。不当な高値を吹っかけるようなら、その場で叩き潰す」
「は、はあ!? 待て、待てグレン公! 私は枢機卿だぞ!? そんな荒事は専門外だ! それに、私の護衛も連れてきていない!」
チェーザレが法衣の裾を押さえて後ずさりする。
口では過激な改革を唱えるくせに、こういう現場仕事になると途端に腰が引ける男だ。
「大丈夫だ。俺がいる。お前は後ろで祈ってろ!」
「ちょ、離せ! これだから成り上がり者はっ!」
俺は抵抗するチェーザレの襟首を掴むと、有無を言わさず『闇バー』の重い扉を蹴り開けた。
カラン、カラン……。
予想に反して、軽やかなベルの音が鳴り響いた。
店の中は、あのグレンフィルトの薄汚い酒場とはまるで違っていた。
薄暗いが、清潔で落ち着いた照明。磨き上げられたカウンター。そして何より、鼻をくすぐる芳醇な香り。果実と、ハーブと、上質な酒精が混じり合った、甘く危険な香りだ。
「……いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、低い声がした。
だが、店主の姿は影に隠れてよく見えない。
「……ちっ。雰囲気だけで騙されんぞ」
俺は警戒を解かずに、チェーザレを引きずってカウンター席に座った。
すると、何も注文していないのに、目の前にスッと二つのグラスが置かれた。
見たこともない酒だ。
宝石のように赤と青が層になって輝き、氷が涼しげな音を立てている。
「……なんだこれは。エールでもワインでもないぞ」
「カクテル、でございます」
カクテル?
聞いたことのない名だ。俺はチェーザレと顔を見合わせた。
毒見役のリタがいれば良かったが、あいにく今はいない。だが、この香りの誘惑には勝てなかった。
俺はおそるおそる、その液体を口に含んだ。
「――っ!?」
美味い。
口の中で果実の甘みが弾けたかと思えば、喉を通る瞬間に強い酒の熱さが広がる。魔法のような味わいだ。
「……信じられん。天上の美酒とはこのことか」
チェーザレも、一口飲んで目を見開いていた。
俺たちの警戒心は、この一杯で霧散してしまった。
「ふぅ……。悪くない店だな。すまん、勘違いだったようだ」
俺は前言を撤回し、グラスを傾けた。
酔いが回るにつれ、話題は先ほどの「新しい宗教」のことになった。
「……だが、グレン公。新しい宗教を作ると言っても、教義はどうする? 『結婚したいから作りました』では、誰もついて来んぞ」
「そうか? 『愛し合う二人は結ばれるべきだ』ってのは、結構いい教えだと思うがな」
「それはそうだが……。宗教には、核となる『神』が必要だ。アウローラ女神に代わる、新しい神がな」
チェーザレが、カクテルの氷を指で回しながら唸る。
確かに、何を拝めばいいのか決まらなければ、宗教は始まらない。
その時だった。
店の奥の闇から、衣擦れの音が近づいてきたのは。
「――ほう。新しい宗教をつくると? それは面白いのう」
俺たちが振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
見た目は十代半ばほどだろうか。だが、その身にまとっているのは、チェーザレの法衣よりもさらに古めかしく、漆黒の闇を織り込んだような神官服だった。
長い黒髪に、金の瞳。
その瞳は、子供のような無邪気さと、数百年を生きた老婆のような老獪さを同時に宿していた。
彼女は、俺とチェーザレの間に割って入ると、勝手に俺のカクテルを一口飲み、ニヤリと笑った。
「聖職者でも結婚ができる宗教、か。悪くない。愛こそは、人が神に近づくための最短の鍵じゃからな」
「……何者だ、お前は」
チェーザレが、警戒心を露わにして問う。
少女は、グラスを置くと、妖艶に目を細めた。
「 妾(わらわ) か? ……まあ、通りすがりの暇人よ」
彼女は、俺たちの顔を覗き込むようにして、とんでもないことを言い放った。
「その新しい宗教とやら、妾も一枚噛んでよいかえ? なに、悪いようにはせぬ。……『神』が足りぬのなら、良い神を知っておるぞえ?」
少女は、白く細い指で、自分自身の胸をトン、と叩いた。
薄暗いバーの空気が、一瞬にして凍りついたように感じた。
俺の勘が告げている。
この少女、ただの子供ではない。
この帝都フェルグラントの闇に潜む、とんでもない「何か」を引き当ててしまったのかもしれない。