作品タイトル不明
第18話 エルロー地方巡回作戦
『ヴァルゼン公家暦10年 11月上旬 ミュラーブルク 晴れ』
【どちらにつくか決められないミュラー伯爵視点】
旧王都レグニスから失意のまま戻って数日、私は重い頭痛と共に、自室で報告書の山に埋もれていた。
そこへ、側近であるシュタイン子爵が、血相を変えて飛び込んできたのだ。
「申し上げます、ミュラー伯爵様! 一大事にございます!」
「騒々しいぞ、シュタイン! 私は王家との謁見で疲れているのだ……」
「そ、そのような場合では! グレンフィルトの兵が、エルロー地方の巡回を開始した、との報せにございます!」
「なにっ!? グレンフィルトの兵が、エルロー地方を巡回しているだと?」
私は、椅子から転げ落ちそうになるのを必死でこらえた。
エルロー地方は、まだ私の領地のはずだ。それを、あの雑兵上がりが、断りもなしに軍靴で踏みにじっているというのか!
「はっ、グレン男爵の傭兵団は、我が物顔でエルロー地方の村々を巡回しております!」
「くっ、くそーっ! ……し、して、その様子は! どのような様子であったかっ?」
そうだ。私ことミュラーは、いついかなる時も冷静沈着でなければならん。
まずは情報を集める事が肝心だ。敵の動向、そして我が領民の反応をだ。
だが、シュタイン子爵から返ってきたのは、耳を疑うような報告だった。
「はっ、それが……エルロー地方の住民は、敵軍を、歓呼の声で迎えている、とのことです」
「……なんだと?」
「グレン男爵の旗を見て、『救いが来た』『これで安心して暮らせる』と、食料や水を差し出す者までいる始末で……」
「くっ、けしからんっ! 愚民どもめが! 私を裏切るというのか! そ、それで敵の数はどうなのだ、数は!」
民がダメなら兵だ。数さえ上回れば、どうとでもなる!
「はっ、偵察によれば、およそ五百といった所でございます」
「五百だと? ふん、その程度か! よし、今すぐ領民に動員令を出せ! エルロー地方だけでなく、このミュラーブルク周辺からも兵を集めれば、数で我々が必ず上回る! 叩き出してくれよう!」
しかし、シュタイン子爵は、哀れむような目で首を横に振った。
「伯爵……それは、難しいかと存じます」
「なっ、なにぃ? なぜだ!」
「まず、我々の主要な領地であるエルロー地方より、徴兵はもはや不可能かと。住民が、我々の命令に応じるかどうか……」
「うぐっ……! な、ならば、エルロー地方の兵は諦めよう! だが、この城の兵と周辺の兵を合わせれば、五百は下らんだろう! 兵数が同じなのだろう? ならば勇戦するのみだ! 私自ら指揮を執ってくれるわ!」
「伯爵、それも、恐らくは難しゅうございます」
「な、なぜだ! 兵はいるのだろう!」
「兵は、おります。ですが……かの敵軍の先頭には、グレン男爵本人の姿があった、と。その報せが届いてから、城内の兵たちが、ひどく萎縮してしまっております……」
「あの、先のカレドン侯を、一矢で仕留めたという、あの男が……直々に、出てきているというのか!」
私は、ついに我慢ならず地団駄を踏んだ。
そして、怒りに任せて手近なテーブルを思い切り叩きつけた。
ガシャンッ!
テーブルの上のワイン瓶とグラスが床に落ち、血のように赤い染みと、甲高い破片の音を撒き散らした。
「くっ……! ろ、籠城だ! そうだ、籠城するぞ!」
私は、割れたグラスの破片から目をそらし、必死に声を絞り出した。
「こ、このミュラーブルクにて待ち構えるのだ! この城壁は堅牢だぞ! 城壁がある限り、我々が有利であろう! そうだ、それがいい!」
シュタイン子爵は、何も反論しなかった。ただ、疲れた顔で深々と頭を下げる。
「はっ、それがよろしゅうございます」
こうして、私は動かなかった。いや、動けなかった。
私がミュラーブルクの分厚い城壁の内側で震えている間も、エルロー地方の村々は、次々とグレン男爵の『巡回』を受け、『保護』されていった。
徐々に、確実に、私の実効支配領域が減っていくのを、ただ指をくわえて見ているしかなかったのである。