作品タイトル不明
第17話 エルロー地方安定化問題
『ヴァルゼン公家暦10年 10月下旬 グレンフィルト 晴れ』
【雑兵上がり男爵グレン視点】
俺の治める街『グレンフィルト』と、例の臆病なミュラー伯爵の本拠地『ミュラーブルク』との間には、緩衝地帯とも言うべき、どちらつかずの地方が広がっていた。
小さいながらも中心都市エルローと、それを取り巻くいくつかの豊かな村々からなる、通称『エルロー地方』。
この地が、新たな火種となろうとは、この時の俺はまだ知らなかった。
最初の一報は、埃まみれの男が俺の館に転がり込んできたことから始まった。
コリンと名乗るその男は、グレンフィルトに品物を卸しに来る、しがない小売商人だった。彼は俺の前に膝をつくと、わっと泣き崩れた。
「グレン男爵様! お、俺の嫁が……! どうか、どうかお助けください!」
「落ち着け。何があった、ゆっくり話せ」
「新婚の、村一番の美人と評判だった俺の嫁が……昨日、ミュラー伯爵の兵隊共に、無理やり連れ去られてしまったんです! ひどい、税だってちゃんと納めていたのに……!」
コリンは、嗚咽を漏らしながら、ミュラー伯爵が『献上品』と称して領内の村々から美女を狩り集めているという、信じがたい蛮行を訴えた。
(……あの臆病者の伯爵が、そんな暴挙を)
領民を守るべき領主が、自ら領民を襲うとは。
俺は固く拳を握りしめた。
「分かった。まずは調査をしよう。だが、申し訳ないが今、俺の手元には自由に動かせる人間が足りない。コリン、君に頼みたいことがある」
「俺、に……ですか?」
「報酬は出す。間者として、もう一度エルロー地方に戻り、どれぐらいの被害が出ているのか、詳しく調べてきてはくれないか?」
俺は、懐を探るふりをして、ため息を隠した。
ぶっちゃけ、今の俺には、間者を雇うほどの金がない。借金だらけの身だ。
「そうだな……報酬は、今後一年間、君の商売にかかる税金を全て免除する、というのはどうだ?」
今すぐ金は払えないが、税の免除なら俺の権限でできる。
コリンは、涙に濡れた顔を上げると、憎悪に燃える目で力強く頷いた。
「わ、わかりました! 報酬なんざ、どうでもいい! もう、ミュラー伯爵は俺たち領民の敵だ! やってやります!」
コリンが再び飛び出していくのを見送った後、俺はすぐに主要なメンバーを集めた。
『銀狼傭兵団』の隊長イリア、俺の妻であり最も信頼する相談役のエレーナ、そして金勘定係の商人レオ。
俺がコリンから聞いた話を簡潔に説明すると、真っ先に口を開いたのはイリアだった。
「はっ! だから貴族ってのは嫌いなのさ。領民から搾り取るだけじゃ飽き足らず、嫁まで奪うか。アタイから見りゃ、ちょっとお上品で、装備がいいだけの盗賊団と何も変わらないね!」
彼女の吐き捨てるような言葉に、いつもは冷静な妻のエレーナも、青い顔で手を上げた。
「あ、あの、グレン様……。エルロー地方には、わたくしの実家であるシュタイン家の縁者も、まだ多く住んでおります。どうか……どうか、その者たちをお救いする手立てはございませんでしょうか?」
没落したとはいえ、彼女も元は貴族の娘。縁者の身を案じるのは当然だった。
最後に、レオが眼鏡の位置を直しながら、冷徹な商人の目で身を乗り出した。
「男爵様。これは……またとない口実になるのでは?」
「口実?」
「はい。ミュラー伯爵は、いまだヴァルゼン公にもカレドン侯にもつかぬ、日和見の男。この『領民への非道』を大義名分とすれば、エルロー地方を我らが保護下に置くことができます。つまり、領地を切り取る絶好の機会かと」
三者三様の意見。だが、向かうべき道は一つしかないように思えた。
「……そうだな。だが、俺の一存では動けん。まずはヴァルゼン公にお伺いを立てる必要がある」
俺はエレーナに向き直った。
「エレーナ、悪いが、公都アイゼンブルクへ状況を説明する使者を出してくれ。ミュラー伯爵の暴挙と、エルロー地方の民が俺たちに助けを求めていること。そして、もしかしたら、俺たちが軍事介入するかもしれない、と書き添えて」
「わかりましたわ。あなたの拙い字よりは、よほど早く公に事態の深刻さが伝わるでしょうからね」
こんな時でも、妻は強かった。
俺たちが会議をしていると、館の外がにわかに騒がしくなった。
どうやら、コリンの陳情の噂を聞きつけたのか、グレンフィルトに逃げ込んできていたエルロー地方の住民たちが、次々と助けを求めて集まってきたのだ。
誰もが、ミュラー伯爵の非道な行いを涙ながらに訴え、俺たちに救いを求めていた。
その日の夕刻、コリンが息を切らして戻ってきた。
「報告します! さらわれた女性は、確認できただけで十数名! いずれも、村一番の美女ばかりが狙われたと……。エルローの街も、伯爵の兵がいつ来るかと怯えきっています!」
レオが、俺の顔を見て静かに言った。
「男爵様。エルロー地方の民の信頼を得るなら、今です。ここで彼らを見捨てれば、我らもミュラー伯爵と同じ穴の貉と思われますぞ」
もう、迷いはなかった。
「そうだな……よし、手勢だけで構わん! イリア、傭兵団を今すぐ出せるか? これよりエルロー地方へ出兵する!」
「待ってました! ……けど、何を目的に出兵するんだい? ミュラーブルクを攻め落とすのかい?」
「いや、まだ早い。まずは『エルロー地方の巡回と保護』を名目にする。俺たちが定期的に巡回し、事実上、俺たちの領地だってことを既成事実化するんだ。……まっ、ミュラー伯爵が兵を出してきたら、その時は一戦交えることになるだろうがな!」
「上等じゃないか! わかった、今すぐ準備させるよ!」
イリアが勇んで部屋を飛び出していく。
こうして、グレンフィルトはにわかに戦の準備に色めき立った。
出立の間際、アイゼンブルクから早馬が到着した。エレーナが出した使者への、ヴァルゼン公からの返書だ。
俺は、震える手で封蝋を解き、手紙を開いた。
そこに書かれていたのは、たった一言。
――『好きにしろ』
俺は思わず、ニヤリと笑ってしまった。
公は、全てお見通しなのだ。
こうして、俺は初めて、ヴァルゼン公の軍旗下ではなく、俺自身の判断で軍を動かすことになった。
秋晴れの空の下、俺はイリア率いる『銀狼傭兵団』を先頭に、エルロー地方へ向けて力強く馬を進めた。