軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

泣いていい人

私の頭の中では、ウェスターに行くまで、そしてウェスターに行ってからの日々が走馬灯のように流れていった。私は帰って来た。だが、帰ってこなかった者もいる。

「はんな。はんな、かえってこなかった」

「ハンナ? どうでもいいわ」

「どうでもよくない! あんじぇ、わりゅいひと!」

「悪いとか、本当にどうでもいいの。私はこんな片言の幼児に負けたのね」

アンジェおばさまは肩をすくめると、何もかもから興味を失ったという顔をした。私は体にこもった怒りのやりどころがわからず、息を荒げるばかりだった。

「あなた。もういいわ」

アンジェは私達に背を向けると、ブロードという人にそう言った。

「クリスとフェリシアと、もう少し話さなくていいのかい」

「べつに」

ブロードはそっとクリスから手を離すと、クリスの向きをくるりと変えて、

「さあ、フェリシアのところに行きなさい」

と優しくその背を押した。

「お父さま」

「元気でな」

「お母さ、ま」

アンジェはもう、クリスのことなど見もしなかった。

「お母様! クリスにもっと話すことがあるでしょう!」

クリスを見てやってというフェリシアの怒りの声に、アンジェは肩をすくめた。

「もう行く道は違ってしまったの。あなたたちは、あなたたちの道を行きなさい」

「お母さま、お父さま」

クリスはそのミルクティー色の瞳を両親に向けた。その後ろではフェリシアが、クリスを支えるように背中に手を当てている。その子どもらしからぬ静かな声に、アンジェおばさまも思わずと言ったようにクリスに目をやった。

「おからだを、たいせつにしてくださいませ」

きちんと練習してきたのだろう。クリスは今の自分の精一杯を見せるかのように、膝を折り丁寧に礼をした。最初に会った時のぎこちない礼が嘘のように、きれいなものだった。

「ああ、大きくなった」

優しい父親だとクリスが言っていた。思いのこもった一言だった。

アンジェおばさまは、クリスの礼をじっと見つめ、何かを諦めたかのようにふっと口元を緩め、それはそれは美しい顔で微笑んだ。

「自由に生きなさい」

未練などひとかけらも残さない。それが伝わるような勢いで裾を翻すと、そのままドアに向かった。振り返りもせずに出ていくアンジェの後を付いて出ていこうとしたブロードという人はふと立ち止まると振り返った。

「フェリシア。クリス。愛していたよ」

「ブロード」

頷くのが精一杯のクリスとフェリシアの代わりであるかのような、振り絞るようなハロルドおじさまの問いかけだった。

「なぜアンジェを止めなかった」

「私だけは」

ブロードという人の声は、変わらず静かで優しかった。

「いつでもアンジェの味方でいたかった」

それが犯罪でも、娘を大事にしないことでもなのだろうか。それを愛と呼べるのだろうか。ブロードはクリスとフェリシアに微笑みを見せ、そうしてドアから出ていった。

「最後まで、身勝手な……」

皆が呆然とする部屋に、ハロルドおじさまの声だけが響いた。

「リア! 大丈夫ですか」

「あの子のことだな」

兄さまとアリスターが私の前に膝をついた。私はどうすることもできない悔しさでぷるぷると体が震えていた。

何もなかったら、きっとハンナは今でも笑顔で屋敷を明るくしていたに違いない。毎日一緒に庭に虫を探しに出ていただろう。何もなかったら。でも。

私は涙をぐっとこらえた。きっと変な顔になっていたに違いない。

私にはお父様がいて、兄さまがいて、会おうと思えばいつでも会えるのだ。今泣いていいのは、私ではない。

「もう、あえないのね」

「ええ」

生きていても、会えない人もいる。本人にとってはそれが自業自得だとしても、残された者たちの悲しみはいったいどうしたらいい。

スタンおじさまが、クリスを抱きしめるフェリシアの肩にそっと手を置いた。

「さあ、戻ろう」

フェリシアはガラスのような目でスタンおじさまを見上げた。

「どこへ?」

帰る家も帰る親もいないのに。隠しきれない絶望に胸が締めつけられる。

「……さあ、立って」

守るように、支えるように、スタンおじさまとギルがフェリシアとクリスの両側に立った。

「あ」

「どうした、フェリシア」

「リアに、謝らないと」

そんなことはどうでもいいのだ。フェリシアのせいでもクリスのせいでもないのだから。

私は変な顔を引き締めて、ふんと胸を張り、腕を組んだ。

「ちゃんと組めてるな」

「あい、もちろんでしゅ」

その声にフェリシアとクリスがこちらを向いた。謝らなくていいとか、気にするなとか、頑張れとか、言いたいことはたくさんあったが、結局口から出てきた言葉はこれだった。

「じゆうに、いきていい!」

これがアンジェの最後の言葉と重なるのはとても悔しかった。けれど、自分を抑えすぎて、他の人のことばかり考えているフェリシアは、母親と違って、どんなに自由に生きても決して人を傷つけたりはしない。だからこそこう言うしかなかった。

「りあ、ふぇりしあとくりしゅの、ともだち!」

二人の母親が何をしたとしても、フェリシアとクリスには関係ない。この私、リアの大事な友達なのだ。

「ともだち……」

「にこも! まーくも! ぎるもありしゅたも! にいしゃまも、みんなともだち!」

だから気持ちが落ち着いたら、また遊ぼうねと。そう願いを込めた。

「またみんなで集まって秘密基地を作ろうよ。私がスポンサーだからさ」

「マーク」

ひっそりと存在感のなかったマークがここぞとばかりに発言した。お財布としての役割をちゃんと自覚しているようだ。

まだぼんやりしているクリスには、きっとフェリシアが話してくれるだろう。私たちが城でいつまでも待っていることを。

フェリシアはなんとか口元に笑みを浮かべると、何も言わず一礼し、スタンおじさまとギルと共に先に部屋を出ていった。

「くそっ! 私は! 私はずっとアンジェの本性を見抜けないままだったのか!」

お父様の悔しそうな声がしたが、それはその通りなので励ますこともできない。もう終わったことなのだから、もう気にしてもしようがないのだ。もう終わったことなのだから。

「リア」

アリスターが私の震える右手を握った。

「リア」

兄さまが私の左手を握った。

「もう、我慢しなくてもいいんですよ」

「あい。あい。ぶえ、うわーん! はんな!」

もう終わったことだけれど。これで最後にするから。