軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

文字と戦う

「では殿下、まず『あ』を書けるようにならないと」

教師がそう言うと、ニコはちょっとため息をついて、鉛筆を持った。日本語より英語に近いこの国の文字は、最初の「あ」に当たる部分がけっこう複雑だ。まずは読めれば三歳児には十分だと思うのだが。

隣で見ていると、右にくるんと回るところで戸惑っているようだ。

「みぎかひだりかでわからなくなるのだ」

そうつぶやいた。右と左とわかるだけでもすごいなと思う。

「えんぴちゅもちゅてのほうよ」

「えんぴつ。こっちか」

「あい。くるんと。りあのかみのけみたいに」

ニコは鉛筆を止めて私を見た。それから紙に向き直る。

「えんぴつもつてのほうに、くるんと」

「あい、にこ、じょうず」

「うむ。できた」

ニコは教師のほうを見た。

「はい。おできになりました」

ニコはほっとしてやっぱり息を吐くと、

「『あ』はきらいだ」

とぽつりと言った。まあ、苦手なのに叩かれたりしたらそうなるよね。私はふと思いついた。

「きらいなら、やっちゅける」

「やっちゅける?」

私はニコの描いた「あ」の紙を手に取ると、ナタリーに手渡し、ラグ竜のポケットから木の枝を取り出した。ナタリーが不思議そうな顔で紙と私を見る。

「なたりー、かみ、うえから、おとして」

「ええ? うえから、こうですか?」

ナタリーが紙を高く持ち上げ、手を放す。私は落ちてくる紙を木の枝で叩いた。

「えい!」

すかっ。紙はひらひらと落ちていった。

「「ブッフォ」」

ハンスはお給料を下げてもらった方がいいかもしれない。あと複数人いたと思う。私はくじけずに、落ちた紙を木の枝で叩いた。とにかく当たればいいのである。

「えい!」

そしてニコのほうを向いた。

「『あ』やっちゅけた。はい」

枝をニコに手渡す。

「こんどはにこのばん。なたりー、かみ、おとちて?」

「かみを、たたくのか」

戸惑っている。私は肩をすくめて見せた。

「りあ、できたのにな。にこ、できにゃい」

「りあもできていなかったではないか」

ニコはそう言って椅子から立ち上がり、枝を構えた。意地っ張りは扱いやすいのだ。そこにナタリーが紙を落とす。

「えい!」

がさり。

「あたった!」

「あたった!」

悔しくなんかないんだからね。

「じゃあ、もいっかいかいて、またやっちゅける」

「うん!」

「あい、えんぴちゅもちゅてのほうに、くるんと。あい、じょうず!」

ニコは今度はするりと書き上げた。それをナタリーに渡す。

「なたりーとやら。かみを」

「は、はい」

何度かやったら、ごほんごほんと聞こえてきた。教師の人だ。

「殿下、そろそろ勉強に戻りましょうか」

「うむ」

「ちゅぎは? なにをかくの」

「うむ、『い』だ」

ニコはそう答えると、いに当たる文字をすらすらと書いた。

「つぎは『う』」

「しゅごい」

「しかし、つぎの『え』がな」

ちゃんと書けているが。私は首を傾げた。

「もういっかいうねっとするのかもしれぬ」

「しょれならたちてみよう」

私はニコの『え』に、もう一つ波を足してみた。

「ちがうな」

「へんになった」

「うね、はひとつだな」

「ひとーちゅ、だな」

私はうむと頷いた。もちろん、護衛失格の人は数名いた。そうやって嫌いな字はいくつかあって、確かめてみるとそう難しいところで引っかかっている訳ではない。むしろ三歳で読めてこれだけ書けるのであれば十分ではないのか。

しかし、私はもうずっと書き取りをやっているので飽きてきた。遊びにきたのではなかったのか。

私は見守っているらしいライナスに近づいた。

「ねえ、らいなしゅ」

「は? なんとおっしゃいました、リーリア様」

耳が遠いのだろうか。お父様はライナスと言っていたような気がしたし、本人もライナスと自己紹介していた気がしたが。

「らいなしゅ」

「聞き間違えではなかった。呼び捨て、幼児にいきなり呼び捨てされるとは、ライナス、初めての経験です」

なにかブツブツ言っている。

「らいなしゅ、いちゅあしょぶの」

「はあ、いま遊んでいたように思うのですが」

「あしょんでない。べんきょうちてまちた」

私はむっとした。私と楽しく勉強したおかげで、ニコの苦手が少し減ったではないか。

「らいなしゅ、にゃい」

「はい? にゃいとはいったい」

「もういいでしゅ。えほん、どこでしゅか」

「はい? ええと、にゃいはもう終わりで、今度は絵本ですか」

だって、せっかくお城に来たのに誰も何も用意してくれないなら、自分で探すしかないではないか。

「えほん!」

「お嬢様、絵本はこちらでございます」

もうひとりいたメイドが見かねて声をかけてくれた。

「あい」

そんな私をニコがいいなあという目で見る。そりゃそうだ。もうどのくらい椅子に座らせられているだろう。私はニコの側に近寄り、目をのぞき込んだ。最初少し怖かった黄色の目は、よく見ると透き通ってきれいだ。

「にこ、りあにえほんよんで。にーにみたいに」

「にーに?」

「あ、にいしゃまみたいに」

うっかりにーにと言ってしまった。赤ちゃんみたいではないか。

「にいしゃま。にいさまか」

心なしかニコの顔が明るくなった。

「よい。わたしがりあのにいさまのかわりに、えほんをよんでやろう」

「あい!」

「殿下、それにお嬢様、何を勝手に決めているのですか」

先生があきれたように言った。

「オッズ殿、ここはリーリア様の好きなようにさせてみましょう」

ライナスがたまにはいいことを言った。

「りあ、よんだことないほんがいいでしゅ」

「ではこの『きしとりゅう』などどうだ」

「しょれ!」

しかし、ずっとおとなしく暮らしていたのに急にはしゃいだせいで、私は絵本を読んでもらいながら眠ってしまったらしい。急ぎの仕事でお昼を過ぎてしまったお父様が慌ててやってくると、お互い寄りかかって寝ている幼児が二人、どうしていいかわからずにおろおろする大人がたくさんいて、やれやれと思ったそうだ。

そんな話を帰りの竜車の中でお父様から聞いた。ゆっくり走らせている竜車の席のナタリーの隣にはかごが置いてあって、そこからいろいろ挟んだパンが手渡されてくる。気がついたら竜車に乗っていて、今がお昼というわけなのだった。

「まだあしょんでない」

私は少し不満そうに言った。

「しかし、昼前に寝てしまうなどと疲れている証拠。初日から無理はさせられまいと、連れて帰ることになったのだ。急ぎの仕事の分、私も無理をしたので早退だ」

お父様がちょっと嬉しそうだ。

「せっかく早く帰るのだから、竜を厩に戻すついでに、牧場で竜に乗るか」

「あい!」

「あー、リア」

「あい?」

お父様はちょっと詰まった。

「また行きたいか」

「おちろに?」

「そうだ」

「行きたい! まだおにわにもいってない。えほんも、しょれから」

「ああ、わかったわかった」

お父様は興奮してパンを振り回す私の頭を優しくなでた。

「やっとお父様をちゃんと見てくれたな。最近下を向いてばかりで心配していたのだ」

「おとうしゃま……」

そんなに心配してくれていたなんて。そういえばよい子になろうとして静かにしすぎていたかもしれない。

「リアが元気になるとは、間抜けな城の者も少しは役に立ったというものだ」

「ええ……」

相変わらずのお父様である。