作品タイトル不明
【29:領主】
エディルの城館の談話室。
エディル子爵、ディロス・イスコリアは不機嫌だった。機嫌の良かろう筈もない。夜分に急用ということで面会を捩じ込んだのだから、当然といえば当然の話ではある。
「領民の避難の件は、朝方話したばかりではないか。しかるべく手配を整えているのだ、今更計画を変えるなどとということはなかろうね?」
機先を制された形のモーレス大尉だったが、さりとて怯んで話をしない、というわけにもいかない。
「……まことに申し訳ありませんが、その計画の変更についてです、子爵閣下」
ぴくり、と子爵の眉が動く。
「第4軍団からの援軍が来ません。我々は、即時撤退を命じられました」
「な」
モーレス大尉の言葉は、子爵に途轍もない衝撃を与えた。思わず、といった態で立ち上がった子爵の腰の下で、椅子ががたんと音を立てる。
「どういうことだ!? 軍が我々を見捨てるのか? まだ避難の準備さえ――」
怒声を発し、見下ろす子爵に対して、モーレス大尉が深々と頭を下げる。レフノールもそれに倣った。
「詳細については軍機ゆえ。しかし申し上げたことは事実です。申し訳ありません」
「――軍機だと!? 簡単に言ってくれる、幾人の命がかかっているか理解しているのか?」
子爵は、憤懣やるかたなし、という態度と口調だった。
「重々承知をしております、閣下。我々は――残れる限りこの場に残ると決めました。我々が今ここを退けば、取り返しのつかないことになる。できうる限り、領民を逃がさねばなりません」
顔を上げ、見上げる姿勢になったモーレス大尉から発せられた言葉は、子爵を固まらせた。
「どうすると――どうすると言うのだ。ここはいずれ囲まれる」
「はい」
「囲まれれば籠城になるのだろう」
「はい」
「援軍の来ない籠城など――」
「――はい。それも理解しています」
「ならばなぜ」
「いくらかでも時間を稼ぎます。我々が時間を稼げば、その分だけ領民が安全な場所へ逃れられる」
子爵が黙ったまま、椅子に腰を下ろす。深い息が漏れた。ふたりの将校の顔ではなく、子爵は床の一点を見つめている。何かを訴えるように両手を見つめ、また床の一点に視線を戻す。
モーレス大尉とレフノールは、辛抱強く待った。時間はなかったが、急いでくれと言えるような立場ではない。ふたりの目がなかったならば、子爵は頭を掻きむしっていただろう。そう思わせる風情だった。
「……どうすればよい」
長い沈黙のあとで、子爵が言った。呻くような声。視線はまだ合わない。
「避難すべき領民の数を増やさねばなりません。エディルの住民たちも逃がす必要があります」
「どこまで、どうやって逃げよというのだ。そう時間の余裕があるわけでもあるまいに」
モーレス大尉がレフノールに視線を送り、小さく頷いた。
「我々は街道上で待ち伏せして敵の先鋒を叩き、それなりの損害を与えました。そのあとであれば、どうしても追撃の足は鈍ります。そのように仕向けました。加えて、落とせる橋は全て落としてあります。仮設であれ、橋を復旧させなければあちらの糧食が部隊に追随できない。これもまた足を鈍らせる要因です」
意図的にゆったりとした口調で、レフノールが説明する。
「アルバロフ大尉は兵站の担当ですが、豊富な実戦経験と実績があります。勲章まで得ているほど」
補うようなモーレス大尉の言葉に合わせて、レフノールは鷹揚に頷いた。今のところ、己の言葉にもモーレス大尉の言葉にも、嘘偽りはない。籠城戦の成算がどの程度のものか、レフノール自身にしてみても危ういことこの上ない、というのが実感だが、それを表に出すわけにはいかなかった。
今はひとまず、子爵の協力を取り付けなければ、その先のことを考える余地さえないのだ。
「無理筋の避難になりますから、本来であれば相応の説明がなければなりません。閣下の仰るとおり、村を捨てよと言われてすぐに従えるものではない。ですが、今は時間も足りていません。というよりも――」
「むしろそれを稼ぐための籠城、か」
レフノールの言葉の先を、視線を合わせぬままの子爵が引き取る。重い口調だった。
「はい。閣下にご協力いただかねばならないのは、まさにそこです。領民には一刻も早く、東へ向けて逃げてもらわねばなりません。こちらで押さえている馬車などは融通できますが、家財はほぼ持ち出すことができないかと。閣下には、村を回り、領民たちに危急の事態であることをお伝えいただければ」
「それは無論、差支えないが……そうしているうちに敵がエディルまで来てしまうのでは?」
「その公算は高いと考えています。ですから、閣下、閣下にはそのまま東へ落ちていただくべきかと」
「馬鹿を言うな」
いくらか力の戻った声で、子爵が応じる。
「領兵もここで戦わせるのだろう。己だけが先に逃げられるものか」
「ご立派なお志です。しかし、籠城はあまりに危険が高い。どうか、領民たちを先導して東へ」
「くどい。痩せても枯れても儂は領主ぞ。陛下からお預かりした封土を守ることこそ領主の務め。軍に任せて安閑としておることなどできようはずがない」
今度は、ふたりの大尉が大きく息をつく番だった。気構えとして、子爵の言葉はまことに好ましく、そして頼もしい。だが、その気構えが役に立つような事態とも思えなかった。
「――では、失礼ながら、閣下、ご子息はおられますか?」
「何をさせる気だ?」
「閣下にしていただく予定であったことを。我々だけでは、領民に速やかな避難を、即時に決断させることはできません――遺憾ながら。ご子息であれば、たとえば閣下の名代として、領民を先導することができましょう」
レフノールの言葉は、表向きの理由でしかない。
レフノールの腹案、つまり船による救出は、それだけに賭けるにはあまりに分の悪い賭けだった。どこかでひとつ予定外の事象が発生すれば、それだけで計画が破綻するような。エディル子爵当人がエディルに踏みとどまったとしても、その後の生命の保障の当てなどない。
表向きの理由に乗って、子爵の後継者にエディルを離れさせることができるのならば、少なくともエディル子爵家を家として残すことはできる。怯懦ゆえに逃げ出しては臆病者の謗りを受けることになるが、領民の避難を促すための行動であれば名分も立つ。
「――わかった。倅を、領民の避難に当たらせよう。倅と、そして伝令のための領兵を近在の村へ送る」
「ありがとうございます、閣下。ご子息には、文書をお持ちいただきたく。小官の報告書と、それに第4軍団司令への依頼書を」
「わかった。避難を命じる書面は儂が」
子爵が短く応じ、レフノールたちに視線を向ける。視線を合わせて頷き交わし、レフノールとモーレス大尉は立ち上がって敬礼した。子爵の態度から、不信と不満の色が消えたわけではない。それでも、避難へ向けた具体的な話を詰めることができたのは、最低限の収穫と言ってよかった。