作品タイトル不明
国立大学農学科(2)
門をくぐると、懐かしい香りが漂ってきた。
よく耕された土と堆肥の匂いだ。文子が暮らしていた街はド田舎だったので、至る所に畑と田んぼがありこういう香りが漂っていた。
見れば一面、見事な畑だ。カブとか人参の葉っぱがワサワサと揺れている。そして、その向こうに柵があって牛が放牧されている。生きている牛を見るのはレベッカになって初めてかもしれない。
「牛だー。ホルスタインだ!」
「おや、レベッカは牛がわかるのかい?」
「ぬいぐるみで見た事あるもの。熊だって、サメだって、本物は見た事ないけれど、ぬいぐるみや本の挿絵で見た事ある。」
「熊のぬいぐるみと実物はかなり違うよ。」
とお父様に言われた。
広い農地の向こうに建物が見えた。門から学舎までが遠い。学生さん達は大変だな、と思った。
建物の前で、人が待っていた。
お父様より少し年上に見える男性と、ハタチ前後の若者が四人。一人は女の子だった。教授とゼミ生といったところだろうか。
「ようこそおいでくださいました。リツハルト・ハイネと申します。」
旧地球人の感覚としては、教授は水飴よりも詩を作っていそうな名字の人だった。覚えやすくて良いなと思った。
ヒンガリーラント人には珍しい黒髪だったので、なんか親近感がわく。
「エーレンフロイト令嬢、並びにレーリヒ令嬢には素晴らしい知恵を授けて頂き、農学科一同心より感謝しております。」
「いえいえ、そんな。」
と私。
「私は何もしていません!全てベッキー様のお力です。」
とユリアは言った。
その後、私達は建物の中に通された。ウエルカムドリンクならぬ、ウエルカムスイーツが出てくる。
「エーレンフロイト令嬢が教えてくださった本を参照して作った菓子でございます。」
私が、紹介した本には『米と大麦の芽で作った蜜に乳とバターを混ぜて作った甘味』と書いてあった。
大昔に伝染病でロックダウンした街の中にいた人が食べたであろうその菓子の、見た目と色は生キャラメルだった。どこからどう見ても生キャラメルだった!
侍女であるユーディットがまず毒味をする。それから私とユリア、お父様も食べた。口の中でとろけたその菓子の、食感も味も間違いなく生キャラメルだった。
おいしい。おいしすぎる!
人目が無かったら、歓喜のあまり床をコロコロと転がったかもしれない。
ユリアも
「とても甘くておいしいです!この甘さは水蜜のものだけなのですか⁉︎それとも、砂糖も入っているのですか?」
と聞いた。
「水蜜だけです。」
とハイネ教授が答えた。
「まあ、すごい!」
「農学科で作って、売りに出そうと思っております。その折にはぜひお買い求めください。」
と教授が言わなければ
「レシピを教えて!」
と叫んでつかみかかっていたかもしれない。
金を出せば購入できるなら十分だし、きっとこの味、この食感にたどり着くまでには、言葉にできないほどの苦労と試行錯誤があったのだろう。それを気軽に「教えて。」と聞くのは失礼だ。だけどこの菓子は、飛ぶように売れる事だろう。いつ買いに来ても売り切れという事にならないように、取り置きだけはしておいてもらいたい。
私はヒンガリーラントのお菓子文化に革命が起こるとしたら、カカオの樹が発見された時だろうと思っていた。
だけどこの菓子は、ヒンガリーラントのお菓子文化に革命を起こすかもしれない。
思い出してみれば、文子の一番の親友は30ウン種類のアイスクリームを売っているアイス屋でバイトしていたのだが、友達が働いていた店で一番売れていたアイスはチョコ味でもフルーツ味でもなく、キャラメル味のアイスだったらしい。
キャラメルはそれだけのポテンシャルを持つ味なのだ。
キャラメルクッキー、キャラメルケーキ、そしてキャラメルマキアート。
様々な派生商品がここから誕生するだろう。
ちなみに親友は、友達がアイスを買いに来た時は、気持ち多めにアイスをすくい、ムカつく客が来た時には少なめにアイスを盛ると言っていた。
「『水蜜』について教えて頂いたお礼に、エーレンフロイト様とレーリヒ様には、この菓子は原価でお売りします。」
「まあ、良いのですか⁉︎」
とユリアが嬉しそうに言った。
「この程度ではお礼にもならないかもしれませんが、そうさせてください。」
ハイネ教授は良い人のようだ。
世の中には自分の研究の成果は自分の物、他人の研究成果も自分の物、という考えの研究者もいるというが、この教授はそういう人ではないみたいだ。
ちなみに地球の細菌学者ルイ・パスツールは『そういう人』だったという話である・・・。
「このお菓子は売れると思われますか?」
と教授に後ろにいた学生の一人が言った。
「絶対売れます!今まで食べた物の中で一番おいしいです。」
私が言うとユリアも、うんうんとうなずいた。
「この水蜜菓子をたくさん売って、ガラスの温室を建てるのが夢なんです。」
と学生は言った。そう語る彼の瞳も、水飴のようにキラキラしていた。
「温室ですか?」
「はい!温室があれば、暖かい地域で育つ果物や野菜を育てる事ができます。そしたら、ヒンガリーラントの食文化はもっと豊かになります。」
「薬学科は大きな温室を持っていて、珍しい薬草や植物を育てているんです。私達だって、温室があれば。」
女の子の学生も力強く言った。
「国立大学なのに、国は建ててくれないのですか?」
と私は質問した。
「同じ理学部でも、薬学科と農学科の年間予算は十倍違うんです。」
うわ。世知辛い話だなあ。
「温室はありませんが、小さなサンルームで育てている果物があります。もしよろしければ、見学なさいませんか?」
と教授に聞かれた。
それはものすごく興味がある。地球では食べた事があっても、ヒンガリーラントでは食べた事のない果物が見られるかもしれない。私は前のめりで
「ぜひ!」
とお願いした。