軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

初めて、寂しいと言う夜

王宮の回廊を歩きながら、エレーナは小さく息を吐いた。

夜も更けている。窓の外には薄い月がかかり、石床には静かな光が落ちていた。

ここ数日、クロヴィスは視察と会議が続いていた。

顔を合わせても、朝の短い挨拶か、夜の遅い時間にほんの二言三言交わすだけ。

王太子として当然の務めだとわかっているし、エレーナ自身も王太子妃教育や公務の補佐で忙しかった。

だから、何も問題はない。

そう、何も。

それなのに、胸のあたりに、うまく名前のつけられない空白があった。

たった数日だ。

そんなことで寂しいなどと思うのは、子どもじみている。

第一、自分は昔から一人で立ってきたのだ。

少し会えないくらいで揺らぐような人間ではない。

そう思いながら、自室の前まで戻りかけた、そのときだった。

「エレーナ」

耳馴染みの良い声に、彼女は振り返った。

回廊の先に、クロヴィスが立っていた。

黒の上着を羽織っただけの簡素な姿で、つい先ほど執務から抜けてきたのだろうとわかる。いつもより少しだけ疲れた顔をしていたが、その目はまっすぐエレーナを見ていた。

「殿下。まだお休みでいらっしゃらなかったのですか」

「今戻ったところだ」

「お疲れさまです」

いつものように微笑んでそう言う。

だがクロヴィスは、その場から動かずに眉を寄せた。

「何があった」

「え?」

「お前だ。何があった」

エレーナは一瞬、きょとんとしてから、すぐに首を振った。

「何もございません」

「嘘だ」

「嘘では……」

「お前は平気なとき、そんな顔をしない」

その言葉に、エレーナは口をつぐんだ。

そんな顔、と言われても、自分ではわからない。

きちんと笑っていたはずだ。声だって普段どおりだった。

けれどクロヴィスは、見間違えないと言うようにこちらを見ている。

「本当に、何も……」

「エレーナ」

宥めるように名を呼ばれる。

叱る声ではない、ただ逃がさない声だった。

「無理に聞き出すつもりはない。だが、何もない顔ではない」

エレーナは視線を落とした。

こういうとき、昔の自分なら、もっと上手にごまかせただろう。

平気です、と言って微笑み、相手にそれ以上踏み込ませなかったはずだ。

けれど、今は少し違う。

違ってしまった。

この人の前では、完璧に隠しきれない。

隠さなくてもよいことを覚えてしまった。

「……少しだけ」

やっとのことで口を開くと、自分でも驚くほど小さな声になった。

「少しだけ、寂しかったんです」

言った瞬間、耳まで熱くなった。

こんなことを、口に出してしまうなんて。

今さら取り消したくなって、エレーナはさらに俯く。

「申し訳ありません。そんなつもりではなかったのです。ただ、その、ここ数日殿下がお忙しくて、わたくしも勝手に」

「エレーナ」

今度は、さっきよりもずっと近いところで声がした。

気づけばクロヴィスが目の前まで来ていた。

彼はしばらく黙ってエレーナを見下ろし、それから、ごく自然な動作で彼女の頬に触れた。

「それくらいのことを、なぜ謝る」

「ですが……」

「寂しかったのだろう」

「……はい」

「なら、そう言えばいい」

あまりにも簡潔で、あまりにも当然のような言い方だったので、エレーナは思わず顔を上げた。

クロヴィスは少しだけ目を細める。

「俺は、お前が寂しがるのを迷惑だとは思わん」

「でも、殿下はお立場上、お忙しくて」

「忙しいことと、お前の気持ちは別だ」

「……」

「会えなくて寂しいなら、寂しいと言え。それを聞くくらいの時間はある」

自分の気持ちをそのまま口にしていい、と言われたことが、これまであっただろうか。

幼い頃から、まず飲み込むことを覚えてきた。

泣き言は醜い。要求は慎むべき。欲しいものは、自分で何とかするしかない。

ずっとそうしてきた。

だから、今さらうまくできない。

「……難しいです」

「何がだ」

「そういうふうに言うのは」

「なぜ」

「慣れておりませんので」

答えると、クロヴィスはほんの少しだけ息を吐いた。

呆れたのかと思ったが、違った。

「そうだろうな」

「殿下?」

「お前は、我慢には慣れている」

その言葉は、不思議なくらい静かに胸へ落ちた。

責めるわけでもなく、哀れむわけでもなく、ただ事実として言われたのが、かえって苦しかった。

エレーナは唇をきゅっと結ぶ。

するとクロヴィスは、その表情を見るなり、少しだけ困ったように眉を動かす。

「泣くな」

「泣いてなど」

「泣きそうだ」

否定しかけて、できなかった。

実際、少しだけ目の奥が熱い。

泣きたいわけではない。

ただ、張りつめていたものが、ゆるみそうで。

「来い」

クロヴィスは少し考えるように黙り、エレーナの手を取って自室ではなく、自分の私室の方へと歩き出した。

驚いてついていくと、室内にはすでに灯りが落とされ、夜用の簡素な調度だけが静かに並んでいた。

ソファへ座らされ、その隣にクロヴィスも腰を下ろす。

そして、まるで最初からそうするつもりだったかのように、彼はエレーナの肩を引き寄せた。

「で、殿下」

「静かにしろ」

「ですが」

「こういうとき、お前は一人で立たなくていい」

そのひと言で、エレーナは何も言えなくなった。

気づけば、頬が彼の肩に触れていた。

しっかりした布地越しの体温が、思いのほかあたたかい。

少しだけ心臓がうるさい。

「……殿下」

「何だ」

「近いです」

「近くしている」

「わざとおっしゃっていますね」

「当たり前だ」

あまりにも真顔で言われて、エレーナは思わず小さく笑った。

その笑い声を聞くと、クロヴィスの腕の力がほんの少しやわらぐ。

「今のほうがいい」

「何がですか」

「さっきの顔よりは」

エレーナは黙った。

それから、躊躇いがちに、ほんの少しだけ彼にもたれかかる。

自分からそうしたのは初めてで、少しだけ勇気がいった。

クロヴィスは何も言わず、ただそのまま受け止めた。

しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。

外では風が木々を揺らし、窓の向こうで葉擦れの音がかすかに聞こえる。

「……殿下」

「何だ」

「もう少しだけ、このままでもよろしいですか」

「許可を取るな」

「では」

「ああ。好きなだけそうしていろ」

優しい声色が耳元で囁かれると、エレーナは目を閉じた。

胸の奥の空白が、じわじわと埋まっていく気がした。

「わたくし、少し困っております」

「何にだ」

「殿下に甘やかされることに、慣れてしまいそうで」

「慣れればいい」

「そんな簡単に」

「簡単だ」

クロヴィスは即答した。

「寂しいときは寂しいと言え。会いたいときは会いたいと言え。お前が俺に望むことを、遠慮する必要はない」

「……そんなことをおっしゃると、本当にずるくなってしまいます」

「構わん」

「殿下はいつも、そればかりです」

「お前には、そのくらいでちょうどいい。いや、足りないくらいだ」

エレーナはまた少し笑った。

笑いながら、目頭が少し熱くなる。

「どうして、そんなふうに言えるのですか」

「簡単だ」

「ですから、その簡単がわたくしには……」

「お前が欲しいからだ」

あまりにもあっさりと言われて、今度こそエレーナは息をのんだ。

クロヴィスは彼女を見下ろし、静かに続ける。

「お前が我慢を覚えすぎているなら、俺がやめさせる。遠慮が染みついているなら、少しずつ剥がしていく。そうして、お前が俺の前でくらいは素直に甘えられるように、好きなだけずるくなればいい」

エレーナは、返す言葉を失った。

そんな未来を考えたことはなかった。

誰かに大事にされて、我慢をほどかれて、少しずつ甘え方を覚えていく未来など。

けれど今、その未来が、とても静かに、そして確かに欲しいと思ってしまった。

「……殿下」

「何だ」

「会いたかったです」

さっきよりは、ちゃんとした声で言えた。

「俺もだ」

「本当ですか」

「嘘を言ってどうする」

「殿下はお忙しいので、わたくしほどではないかもしれません」

「張り合うな」

「少しだけです」

「なら、俺のほうが会いたかった」

「まあ」

「満足か」

「……はい」

そう答えると、クロヴィスは珍しく、ほんの少しだけ笑った。

その笑みを見た瞬間、エレーナの胸の奥で何かがほどけ、気づけば彼の袖をそっとつかんでいた。

昔の自分なら絶対にしなかったような、ささやかな仕草。

クロヴィスはそれを見て、何も言わずにその手を包んだ。

「エレーナ」

「はい」

「次からは、もう少し早く言え」

「寂しい、とですか」

「ああ」

「努力いたします」

「努力ではなく、言え」

「……善処いたします」

「言う気がないな」

「ありますわ」

少しだけむっとして返すと、クロヴィスはまた笑った。

その笑みを向けられるたび、エレーナは自分だけが知っている宝物を増やしたような気持ちになる。

「殿下」

「何だ」

「もう一つだけ、わがままを言っても?」

「聞こう」

「今夜は、もう少しだけお話ししてくださいませ」

クロヴィスは少しだけ黙り、それから頷いた。

「ああ」

「今日の視察はいかがでしたか」

「面倒だった」

「まあ」

「だが、お前に話すなら少しはましだ」

「それは光栄です」

そうして二人は、夜更けまで静かに話した。

視察先の小さな町のこと。王宮の庭で咲き始めた春の花のこと。最近読んだ本のこと。

とりとめのない話ばかりだったが、それがひどく心地よかった。

言葉が途切れても、もう気まずくはない。

隣にいるだけでよかった。

やがてエレーナの瞼が少しずつ重くなってくると、クロヴィスが気づいたように彼女の髪を撫でた。

「眠いなら寝ろ」

「でも」

「送らせる」

「……ここで少しだけ、眠ってしまいそうです」

「なら、眠ればいい」

その声音があまりにも穏やかで、エレーナは逆らえなくなり、彼の肩に寄りかかったまま、目を閉じる。

薄れる意識の中で、クロヴィスの低い声が聞こえた。

「寂しいときは、また言え」

「……はい」

「会いたいときも」

「はい」

「俺は、お前にそう言われるのが嫌ではない」

「……存じました」

最後に、ほとんど眠りながら、エレーナは小さくつぶやいた。

「殿下は……ずるいです」

「そうか」

「わたくしが、もっと欲しくなってしまいます」

「なら、そうしろ」

その答えに、エレーナは安心したように微笑んだ。

もう、一人で立つことしか知らなかった頃には戻れない。

けれどそれは、弱くなったからではない。

寄りかかってもいい相手を、ようやく見つけたのだ。

その夜、エレーナは初めて、自分の寂しさを隠さずに眠った。